8、ラベンダーの夕暮れ-3
文字数 2,019文字
一日英里は集中できなかった。だが一応授業は聞き、いつも通り宿題を休み時間に終わらせた。上の空でいることを誰にも知られないよう、日々のルーティンを淡々とこなす。
HRが終わった。生徒たちはバタバタと教室を後にしていく。カバンに教科書を詰め込んで、木下が立ち上がった。
「永井さん、来ないね」
英里はまだぐずぐずとカバンの中をいじっていた。
「……うん」
やっぱり自分は友彦に避けられているのではないだろうか。木下の言うような嬉しいことなんて、ないに決まってる。
木下は面白そうに笑っている。
「学校には来てるっぽいけどな。蓮見、行ってみる?」
「え?」
英里は木下を見上げた。
「三年の教室だよ。いっつも永井さんが来るからさ、今日は蓮見があっちへ行ってみたら?」
木下は英里の腕を軽く引っ張った。
「俺も一緒についてってやるからさ。行こう」
英里は木下に連れられて、友彦の教室のある三階への階段を上った。友彦の理系クラスは専門棟の上にある。英里は図書室へ行くときくらいしか、三階の廊下を歩いたことがない。
自分が行って、友彦に嫌がられたらどうしよう。友彦がどんな思惑で、今朝顔を出さなかったのか、木下にだけメールして自分には何も送って寄越さなかったのか分からない。だから英里は不安だった。
木下の言うように、そしてそれを英里の脳内フィルターで変換した甘い甘い気持ちのように、本当に友彦は英里のことを気にしてくれてるのだろうか。
「ほら、着いたよ。永井さんのC組だ」
木下は英里の腕から手を放し、C組の教室をのぞいた。
「永井さーん」
木下は英里には構わず入り口から友彦を呼んだ。
友彦は、いた。木下の声に、ゆっくりと振り返った。
廊下で小さくなっている英里に気づき、そのまましばらく黙っていた。迷うような数秒のあと、友彦はやってきた。
「木下、今日はありがとな」
友彦は英里の傍らの木下に、いつもの朗らかな笑顔を向けた。
「いえいえー。じゃ、俺は部活行きますんで」
「うん、またな」
「はいー」
木下は軽く頭を下げ、英里を置いて階段を下りていった。
友彦はどこかを向いたまま、言った。
「じゃ、帰るか」
避けられている……のではないのか。
「え……いいの?」
英里は遠慮がちにそう尋ねた。
友彦はようやく英里を見た。そして小さく笑い、英里の頭をぽふと撫でた。
「帰ろ、英里」
温かい手のひら。その感触をいつまでも味わっていたい。
「……うん」
友彦は英里から手を離し、先に立って歩き始めた。
英里はその背についていく。見慣れたオレンジのジャケットに。
「今朝はごめんな」
先に沈黙を破ったのは友彦だった。
「ううん、僕は全然いいんだけど。友彦兄さん、具合悪かったんじゃないの? 大丈夫?」
英里はうつむき気味に歩きながら、コートの襟を合わせた。風が冷たい。
「ああうん、平気平気。どっこも悪くないよ、身体はね」
「『身体は』?」
英里は心配になり、友彦の表情をチラリと見た。
友彦はコホンと軽く咳払いし、英里の視線を避けるように向こうを向いた。
「ああ、いや……、まあ、おかしいっちゃ、おかしいかな」
やっぱり、自分は避けられているのではないだろうか。
友彦の表情が、読めない。
「そんな心配そうな顔するなよ」
ようやく友彦は英里の方を見て少し笑い、そしてまた口を閉じた。
そのまま、ふたりとも無言になる。
ギクシャクした、緊張を孕んだ、無言。
自分は何か従兄の機嫌を損ねるようなことをしたろうか。
自分が友彦に対して抱いている、仄暗い欲望を、もしかして知られてはいまいか。
そんな不安が、英里の足下からかげろうのように立ち昇る。
一方、自分勝手な欲望が走り出すのも止められない。
友彦兄さんは、僕のことを、ものすごく意識している。
きっと僕のことを好きになって――。
うぬぼれに浮き足立ちそうになると、怖くなる。
ひとり暮らしをした部屋に男を引っ張り込んだのがバレて、東京を追い出されてきた自分が、身を寄せさせてもらった家の息子を誘惑したなんて、もしそんなことが本当にあったら許されない。
自分を受け入れてくれた叔父と叔母にも、申し訳なさすぎる。
誰より、受験を控えた友彦を動揺させるようなこと、できない。
なのに。
英里は自分の気持ちを止められないのだ。
家の近くの曲がり角で、友彦は立ち止まった。
「友彦兄さん?」
「ごめん。俺、ちょっと買いもの」
いつもなら.友彦は、「ノート買うんだけど、英里も来るか?」などと訊いてくれる。そして英里も「うんっ」とうなずいてついていく。そして英里の心の中でだけ、楽しいデートが数十分続くのだ。
でも、今日は。
「……分かった」
「じゃな。行ってくる」
短くそう言って、友彦は足早に北へ向かった。
友彦は英里を誘わなかった。
北海道の真っ直ぐな道を、オレンジのジャケットが小さくなっていく。
吐く息で冷たくなった指先を温め、英里は永井家へ向かった。
HRが終わった。生徒たちはバタバタと教室を後にしていく。カバンに教科書を詰め込んで、木下が立ち上がった。
「永井さん、来ないね」
英里はまだぐずぐずとカバンの中をいじっていた。
「……うん」
やっぱり自分は友彦に避けられているのではないだろうか。木下の言うような嬉しいことなんて、ないに決まってる。
木下は面白そうに笑っている。
「学校には来てるっぽいけどな。蓮見、行ってみる?」
「え?」
英里は木下を見上げた。
「三年の教室だよ。いっつも永井さんが来るからさ、今日は蓮見があっちへ行ってみたら?」
木下は英里の腕を軽く引っ張った。
「俺も一緒についてってやるからさ。行こう」
英里は木下に連れられて、友彦の教室のある三階への階段を上った。友彦の理系クラスは専門棟の上にある。英里は図書室へ行くときくらいしか、三階の廊下を歩いたことがない。
自分が行って、友彦に嫌がられたらどうしよう。友彦がどんな思惑で、今朝顔を出さなかったのか、木下にだけメールして自分には何も送って寄越さなかったのか分からない。だから英里は不安だった。
木下の言うように、そしてそれを英里の脳内フィルターで変換した甘い甘い気持ちのように、本当に友彦は英里のことを気にしてくれてるのだろうか。
「ほら、着いたよ。永井さんのC組だ」
木下は英里の腕から手を放し、C組の教室をのぞいた。
「永井さーん」
木下は英里には構わず入り口から友彦を呼んだ。
友彦は、いた。木下の声に、ゆっくりと振り返った。
廊下で小さくなっている英里に気づき、そのまましばらく黙っていた。迷うような数秒のあと、友彦はやってきた。
「木下、今日はありがとな」
友彦は英里の傍らの木下に、いつもの朗らかな笑顔を向けた。
「いえいえー。じゃ、俺は部活行きますんで」
「うん、またな」
「はいー」
木下は軽く頭を下げ、英里を置いて階段を下りていった。
友彦はどこかを向いたまま、言った。
「じゃ、帰るか」
避けられている……のではないのか。
「え……いいの?」
英里は遠慮がちにそう尋ねた。
友彦はようやく英里を見た。そして小さく笑い、英里の頭をぽふと撫でた。
「帰ろ、英里」
温かい手のひら。その感触をいつまでも味わっていたい。
「……うん」
友彦は英里から手を離し、先に立って歩き始めた。
英里はその背についていく。見慣れたオレンジのジャケットに。
「今朝はごめんな」
先に沈黙を破ったのは友彦だった。
「ううん、僕は全然いいんだけど。友彦兄さん、具合悪かったんじゃないの? 大丈夫?」
英里はうつむき気味に歩きながら、コートの襟を合わせた。風が冷たい。
「ああうん、平気平気。どっこも悪くないよ、身体はね」
「『身体は』?」
英里は心配になり、友彦の表情をチラリと見た。
友彦はコホンと軽く咳払いし、英里の視線を避けるように向こうを向いた。
「ああ、いや……、まあ、おかしいっちゃ、おかしいかな」
やっぱり、自分は避けられているのではないだろうか。
友彦の表情が、読めない。
「そんな心配そうな顔するなよ」
ようやく友彦は英里の方を見て少し笑い、そしてまた口を閉じた。
そのまま、ふたりとも無言になる。
ギクシャクした、緊張を孕んだ、無言。
自分は何か従兄の機嫌を損ねるようなことをしたろうか。
自分が友彦に対して抱いている、仄暗い欲望を、もしかして知られてはいまいか。
そんな不安が、英里の足下からかげろうのように立ち昇る。
一方、自分勝手な欲望が走り出すのも止められない。
友彦兄さんは、僕のことを、ものすごく意識している。
きっと僕のことを好きになって――。
うぬぼれに浮き足立ちそうになると、怖くなる。
ひとり暮らしをした部屋に男を引っ張り込んだのがバレて、東京を追い出されてきた自分が、身を寄せさせてもらった家の息子を誘惑したなんて、もしそんなことが本当にあったら許されない。
自分を受け入れてくれた叔父と叔母にも、申し訳なさすぎる。
誰より、受験を控えた友彦を動揺させるようなこと、できない。
なのに。
英里は自分の気持ちを止められないのだ。
家の近くの曲がり角で、友彦は立ち止まった。
「友彦兄さん?」
「ごめん。俺、ちょっと買いもの」
いつもなら.友彦は、「ノート買うんだけど、英里も来るか?」などと訊いてくれる。そして英里も「うんっ」とうなずいてついていく。そして英里の心の中でだけ、楽しいデートが数十分続くのだ。
でも、今日は。
「……分かった」
「じゃな。行ってくる」
短くそう言って、友彦は足早に北へ向かった。
友彦は英里を誘わなかった。
北海道の真っ直ぐな道を、オレンジのジャケットが小さくなっていく。
吐く息で冷たくなった指先を温め、英里は永井家へ向かった。