第51話 殿

文字数 1,576文字

 華仙(かせん)(げん)が天幕に入ると、呂桜(りょおう)はこの忙しい時に何用だといった感じで、あからさまに不満げな顔をしていた。良くも悪くも素直な人間なのだなと華仙は思う。

 それに対して呂桜の横にいる夏徳(かとく)は無表情で、何を考えているのか分からない。

 儀礼的な挨拶もないままで、呂桜が口を開いた。

「玄殿、かつては一国の君主であったお主の立場は尊重するつもりだ。しかしながら、分はわきまえてほしいものだが」

 状況は分からないまでもないが、辛辣とも思える言葉が玄に浴びせられた。その言葉を聞いて思わず前のめりとなった華仙を玄が片手で制した。

「申し訳ありません。火急の要件でしたゆえ、無礼をお許し下さい。丁統(ちょうとう)殿に無理を頼みました」
「で、その要件とは?」

 呂桜の隣にいる夏徳が言葉を継いだ。

「単刀直入に言わせて頂きます。この度の撤退戦は我々、元霧(きり)の国の民が殿を引き受けようかと思っております」

 は? 殿? 我々?
 想定外の言葉だった。思わず華仙は子供の頃にそうであったように、玄の頭を叩きそうになる。

「ほう?」

 玄の意外とも思われる言葉を聞いて、夏徳が興味深そうな顔つきとなる。

「玄殿には何か考えがあるようで」
「はい、愚策かもしれませぬが」

 玄が夏徳の言葉に頷いた。

「夏徳、そのような話を聞いている時などはない。七万もの軍勢が迫っているのだ。撤退を急がねば飲み込まれるぞ」

 一方、呂桜は全く興味がないといった感じで玄の言葉を一刀両断にする。

「呂桜将軍、七万の大軍を相手にして、その殿を引き受けようというのですぞ。その覚悟は誉めるべきであって、非難することではありません」

 (よう)の国において軍師というものの存在が、どれほどの物なのか華仙には分からない。だが、随分と大それた意見を言うものなのだなと思う。それとも、それは二人の関係性に寄るところが大きいのか。

 いずれにしても呂桜が最初に見せた玄に対する態度。それを見て瞬間的に頭に上ってしまった血が、この夏徳の言葉で下がっていくようだった。

 夏徳の言葉を聞いて、呂桜は一瞬だけ考える素振りを見せた後、玄に頭を下げてみせた。

「すまなかった、玄殿。こうして、詫びよう。火急の時ゆえ、判断に誤りがあったようだ。無礼を許してほしい」
「いえ、七万の大軍が迫っているのです。兵を置いて逃げ出さないだけでも賞賛に値するかと」

 ……玄も涼しい顔をして辛辣なことを言うものだと華仙は思う。
 (くま)の国との時もそうだったが、気が弱そうに見えて実は性格が悪いのでは。
 そんな感想を華仙は少しだけ抱いていた。

 そして、そのような玄の言葉に呂桜が苦笑した。
 その苦笑を見ながら、それにしても美しい人だなと華仙は改めて思う。呂桜は陽の国の皇帝、(りょく)帝の三番目にあたる姫様だと聞いている。

 この美貌であれば、戦場に立つ必要などないのではなかろうか。それとも、陽の国の王家は女性が戦場に立つ習わしでもあるのだろうか。

 華仙がそのようなことを考えていると、夏徳が口を開いた。

「それでは玄殿、将軍のお許しも出たゆえ、貴殿のお考えを詳しくお聞かせ頂きましょうか。それなりの勝算があっての申し出なのでしょうな」
「はい。これは我が将、威候(いこう)の考えでもあります」

 いやいや、威候は何も言っていなかったはずなのではと華仙は思う。威候の名を出した方が話を通しやすいというところなのだろうか。やはり玄は人が悪いようだった。

「ほう、あの威侯殿……」

 玄の思惑通りなのか、威候の名を聞いて夏徳は一層の興味を引かれたように見える。
 一方であの、とはどの威侯なのだろうかと華仙は思う。やはり、神話級の化け物であるかのように、威候は他国で語られているのかもしれない。

 ……鬼瓦のような大きな容姿と声の大きさに限って言えば神話級なのだけれども。
 そんな華仙の心の呟きを知るはずもなく、玄は一つの策を提示したのだった。
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