第60話 初めての朝

文字数 1,570文字

 「……それは、些か短絡的な話かと」

 呂桜(りょおう)への返答として咄嗟にそう言うだけで、夏徳(かとく)には精一杯だった。それ程までに想定外の話と言ってよかった。

(うみ)の国との戦いは長引く一方だ。そのような中、周辺地域では離反しようとする国々が後を絶たない……」
「そのような中で、かつての西方諸国にも離反されてしまうと、それが後方の憂にもなり得ると」

 先程の衝撃から僅かに立ち直って、夏徳は呂桜の言葉を継いで口を開いた。呂桜の顔は青ざめているように見えた。もしかすると、自分も同じ表情をしているのかもしれないと夏徳は脳裏で思う。

 この絵を誰が描いたのか。夏徳は(りょく)帝の側近を幾人か思い浮かべたが、それを限定したところで意味がないことに気がついて思考を止めた。

 絵を描いた者が分かったところで、それを緑帝が既に認めているのだ。つまりは今更、何をしたところで認めたことが覆る可能性はないに等しい。

「夏徳……」

 呂桜が救いを求めるような目で夏徳を見ていた。その顔には絶望が浮かんでいる。呂桜にそのような顔はさせたくない。その時、夏徳は単純にそう思った。

 しかし今の夏徳では、今の呂桜では覆すことができない事柄だった。

 夏徳は明るい茶色の頭を呂桜に向けて下げた。

「申し訳ございません、呂桜将軍。この非才の身では、それを覆す方法が見つけられません」

 少し声が震えてしまったなと夏徳は思う。今、身の内にあるのは怒りだった。この理不尽さに反発する怒り。それが、僅かに身の内から溢れ出て、自分の声を震わせたのだろうと思う。

「夏徳、教えてくれ。私は……彼らにどのような顔をすればいいのだ」

 呂桜が力なく呟く。

 ……彼ら。
 夏徳は呂桜が言う二人の若者の顔を思い浮かべた。一人は才が溢れるかのような若者で、一人は武芸に秀でた者だった。

 いずれは丁統(ちょうとう)と共に(よう)の国を支えるような人材となるかもしれない。夏徳はそんなことを漠然と思っていた。だというのに……。

「呂桜将軍、このことは私から伝えましょう」

 夏徳の言葉に呂桜は力なく顔を俯かせた。それに合わせて黒色の長い髪の毛が呂桜の表情を隠してしまう。

「そうしてくれるか。情けないな。いつも嫌なことはお主に任せてしまうようだ」
「いえ……」

 なるべく優しく聞こえるように。夏徳はそう願いながら呂桜に言葉を返した。




 遠くで囀る鳥の声を聞きながら、華仙(かせん)は庭にある椅子に一人で腰掛けていた。朝の陽射しはとても柔らかだった。柔らかい陽射しに包まれながら華仙はゆっくりと瞳を閉じた。すると途端に昨夜のことが脳裏に浮かんでくる。

 昨晩、華仙は(げん)と初めて夜を共にした。そのことを思い出しただけで、勝手に顔が赤くなっていく気がする。

 最初に服を自分で脱ぐのか、脱がしてもらうのかも分からなかった。華仙があたふたしていると、玄もどうしていいか分からなかったようで、困ったような泣きそうな顔をして華仙を見ていた。

 こんなことならば初めての時、その作法の一つでも母親の冬香(とうか)に訊いておけばよかったと華仙は後悔したのだった。

 玄の腕の中にいると、玄の顔がとても近くに感じられた。そして、それが恥ずかしくて、でもやっぱり嬉しくて、そんな感情が入り混じって気持ちがぐちゃぐちゃになってしまうようだった。

 そして、それと同時に胸いっぱいの幸せを華仙は感じることができたのだった。

「おはよう、華仙」

 昨晩のことを思い出して一人で顔を赤らめていた華仙に、玄が急に背後から声をかけた。華仙は思わず肩をびくっと揺らして背後を勢いよく振り返った。

「起きたら華仙がいなくて、少しびっくりしたよ」

 具合が悪くて発熱しているからではないのだろう。玄の顔も照れているのか、少しだけ赤みがかっているようだった。

「おはよう、玄。何だか、早く目が覚めて」
「うん……」

 玄は頷くと華仙の正面にある椅子に座る。
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