第30話 そんな顔も

文字数 1,525文字

「俺は大丈夫だ。それよりも呂桜将軍を」

 夏徳(かとく)はやっとの思いで丁統(ちょうとう)にそれだけを言った。丁統は軽く頷くと、呂桜(りょおう)の方に駆け寄っていく。夏徳自身は正直、立つのは勿論のこと暫くは、まともに話せそうになかった。何せ舌がいつものように回らないのだ。まだ衝撃から抜け切れていないということなのだろう。

 危なかった。自分もそうだったが、呂桜も紙一重だった。まさかこちらの退却に合わせて、威候(いこう)が数騎で突撃を試みてくるとは思っていなかった。

 五十人斬り、百人斬りと聞いて単なる田舎武者の蛮勇かと思っていたが、どうやら大いに認識を改める必要があるようだった。
 退却に合わせた突撃。そして突撃後の退却といい、見事という他になかった。

 夏徳は辛うじて動く首を背後に回した。呂桜は丁統たちに支えられながらも既に立ち上がっていて、それを見る限りでは怪我などもしていないようだった。

 それを見て夏徳はもう一度、大きく息を吐き出した。同時に少しはこれで懲りてくれただろうかと思う。
 相手が小国で兵の数も圧倒的に(よう)の国が有利とはいえ、ここは戦場なのだ。その最前線ともなれば、危険はいくらでもある。一軍の将たる者が不用意に最前線に立つ必要などないのだ。

「礼を言う。夏徳、助かったぞ」

 気づくと自分の目の前に呂桜が立っている。そして、腰を抜かしたように大地に座り込んでいる夏徳に呂桜が片手を伸ばしていた。

 呂桜は王族で夏徳は軍師の命を拝しているとはいえ有力者の子弟でも何でもない。その出自は単なる農民なのだ。流石に畏れ多いか。

 そう思いなからも、夏徳は自分に伸ばされた呂桜の手を気づいた時には握っていた。呂桜の腕に力が込められて、夏徳は立ち上がった。

 膝が笑っている。足に力が入らず、夏徳は中腰のような姿になる。呂桜は夏徳の手を離すと、そんな夏徳の姿を見て少しだけ笑顔を浮かべた。

「夏徳はもう少し武芸を磨く必要がありそうだな」

 呂桜はそんな言葉を残して踵を返した。

 何だ、そんな顔もできるんじゃねえか。
 夏徳は少しだけ意外な思いを持って心の中で呟いた。

「夏徳様、ご無事で何よりですね」

 夏徳は声をかけられた背後を振り返った。そこにはようやく安堵の表情を浮かべ始めた丁統が立っていた。夏徳は頷いて口を開いた。

「まさに九死に一生だったぞ。丁統、お前のお陰だ。感謝する」

 素直に頭を下げた夏徳だったが、丁統が人の悪そうな笑みを浮かべていることに気がついた。

「しかし、夏徳様、凄い恰好になってますよ」
「うるさい。まだ、足に力がはいらないんだよ」

 そんな夏徳を丁統は、まるで値踏みでもするかのような顔で見ている。

「それに、あの剣を構える姿。中々の物でしたよ。あれでは、軍師を外されて一兵卒からというわけにはいかないですね。夏徳様、少しは武芸の修練も必要かと」

 生意気にも呂桜と同じようなことを言いやがってと夏徳は思う。そして、不貞腐れたように口を開いた。

「おい、いい加減にしろ、丁統。そんな感想はどうでもいい。早く手を貸せ」

 その言葉には丁統は素直に頷いて、夏徳の腰に片手を回して体を支える。

「あれが、威侯か」
「そうでしょうね。自分で言っていましたからね」
「自分の名が戦場で威力を発揮するのが分かっているのだ」
「そうでしょうね。それにあの大きな体と鬼瓦のような顔。私はできれば二度と戦場で会いたくはないですね」

 夏徳を横で支えながら、丁統は溜息を吐き出すようにして言う。それは夏徳も同じ思いだった。

「単なる蛮勇ではなかったということだ。(きり)の国か。辺境にある小国ということで、甘く見ていた。だが、二度目はない。軍師自らが剣を抜く事態などはな」

 夏徳は少しの屈辱感を覚えつつ、そう呟くように言ったのだった。
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