第6話 叱責

文字数 1,895文字

 ……熊。
 華仙(かせん)(げん)は二歩、三歩と後退りすると、そのまま腰を抜かしたように地面へ座り込んでしまう。

 大きい。熊は縦も横も大人の倍以上はあるように見えた。

 このまま座り込んでいては駄目だ。逃げなければ。
 そんな言葉が頭の中を駆け巡っていたが、それに反して華仙の体は動いてくれない。

 華仙たちの眼前で熊は立ち塞がるように二本足で立っている。
 
 このままじゃあ……。
 華仙がそう思った時だった。
 地面に座り込んで恐怖に支配されたまま、呆けたように口を開けてそれを見ていた華仙の前に立つ黒い影があった。

 ……玄。
 視界の中で玄は果敢にも華仙と熊の間に立って両手を広げている。

 熊は黒色の瞳で立ち塞がった玄を見つめた後、威嚇のつもりか大きな口を開けて咆哮した。それでも玄は怯まずに両手を広げて華仙の前に立ち続けている。

 でも……。

 玄の両手両足が震えている。
 その事実に華仙は気がついた。

 そうだ。当たり前だった。玄だって怖いに決まっている。それでも華仙を守ろうと大人よりも遥かに大きな熊に立ち向かっているのだ。あの泣き虫な玄が。

 玄様をお守りしなさい。
 恐怖に支配されていながらも華仙の中で両親の言葉が蘇る。

 そうなのだ。守られている場合ではない。私が玄を守らなくては。
 華仙はそう思うのだが、それに反して自分の体が少しも言うことを聞いてくれない。

 気づけば全身が恐怖で震えていた。度を越えた恐怖のためか、不思議と涙が目尻からこぼれることはなかった。

 熊が丸太のような片手を大きく振り上げた。
 駄目だ! 逃げないと! 玄が!
 華仙はそう思うのだが、相変わらず体が動かない。声を出すこともできない。振り上げられた熊の太い腕を目で追うことだけで精一杯だった。

 ……駄目! 
 ……玄!

 華仙は思わず強く目を瞑った。
 その時だった。周囲に響き渡る気合の声と苦悶のような咆哮とが重なった。

 華仙が目を開くと視界の中には仁王立ちとなっている玄の背中と、斬り落とされて鮮血に塗れた熊の片腕があった。

 熊は咆哮を上げながら背を向けて逃げ出して行く。

「父上……」

 華仙の前で仁王立ちとなっていた玄を庇うように立っている大きな背中があった。その背に向かって華仙は呟くように言う。

 父親の威候(いこう)がゆっくりと振り返って玄に視線を向けた。

「玄様、お怪我は?」

 その言葉に玄は安堵しているのか呆けたような顔で首を左右に振った。威侯は改めて玄に向き直ると、片膝を大地につけて頭を垂れる。

「我が娘がついていながら、申し訳がございません」

 玄に向かって謝罪を述べる父親を見ながら、華仙の両頬を今更のように涙が流れていく。どうやらそれは恐怖からくるものではなくて安堵の涙だった。

 我が娘がついていながら……。
 今にして思えば、六歳でしかない娘にこの父親は何を期待していたのか。華仙はそう思う。

 次いで威侯は娘の華仙に厳しい視線を向ける。

 そして、片膝を着いていた威候は立ち上がると華仙の前で仁王立ちとなる。
 威侯が右手を振り上げる。次の瞬間、涙で濡れた頬が乾いた音を立て、華仙はあっけなく大地の上に投げ出された。思えば父親に叩かれたのはそれが初めてだったかもしれない。

 父親に叩かれた。そのことの方が衝撃的で、叩かれた痛みを不思議と華仙は感じなかった。

「威侯!」

 華仙が叩かれると同時に玄の叫ぶような鋭い声が威侯に向かって飛んだ。しかし、威候はそれに構うことはなく、地面に倒れ込んだ華仙に向かって口を開いた。

「華仙、お前がついていながら何故、玄様を山に連れてきた? 私たちが来るのがあと少しでも遅かったのなら、どうなっていたと思っている!」

 華仙は叩かれた頬を片手で押さえながら正座をする。今も溢れ続ける涙は先程までの安堵によるものなのか、父親の叱責によるものなのかは分からない。

「申し訳ございませんでした」

 そう言って頭を下げた華仙と威侯の間に、血相を変えた玄が噛みつかんばかりに割って入ってきた。

「威侯、華仙を殴ったな。許さんぞ。そもそも華仙は私の命でこの山に入って来たのだ。それを咎めるということは私を咎めるということ!」

 気の弱そうないつもの玄とは打って変わった様子と物言いだった。威侯も玄のいつもとは異なる表情や、その言いように虚を突かれたような顔をしている。

「玄様、よいのです。私が……」

 華仙は父親たちが周囲にいるため、玄に普段と同じく様づけをしながら玄と威候との間に割って入ろうとした。

「華仙は黙っていろ。よいか威侯、今度また華仙に何かしてみろ。威侯とて私は許さんぞ!」

 玄は一気にそう言うと肩で荒々しい息を吐いている。
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