第46話 恩恵

文字数 1,770文字

 「(げん)、体調はどうかな?」

 天幕に入った華仙(かせん)は口を開いて最初にそう尋ねる。そんな華仙に玄は隠そうともしないで不満そうな顔をする。

「華仙、何だか僕の体調を訊くのが、本当に挨拶代わりになっている気がするよ」
「あら、失礼ね。挨拶はちゃんとするわよ。お早う、玄」

 華仙が、ほらねといった顔をしてみせる。

「いや、そういうことではなくてだよ、華仙。挨拶が先だと言っているんだ。挨拶よりも先に僕の体調を訊いたら、それが挨拶みたいじゃないか」
「ん? 何を言ってるのかよく分からないわね。で、玄、具合はどうなのかしら?」

 そんな華仙に玄は大きな溜息を吐いてみせた。

「大丈夫だよ、華仙。大体、華仙はいつも心配しすぎなんだ」

 不平を言う玄の顔を見ながら華仙は、全然大丈夫ではないじゃないと思う。

 濃い茶色の瞳は発熱のせいか潤んでいて、顔も少しだけ赤くなっているようだ。今朝は熱がいつもよりも高いように思える。

「大丈夫なら、いいのだけれど。でも、今日は寝ていた方がよさそうね」

 強がるようなことを言いながらも、具合がよくない自覚が自身にあるのだろう。玄は大人しく寝台の上で横にる。そんな玄を見届けてから華仙は口を開いた。

「でも、何だか不思議ね。霧のない朝なんて」
「そうだね。考えてみれば、(きり)の国から出ることなどあまりなかったからね」

 霧の国。皆が殆ど口にしなくなったその名を聞くと、華仙の胸はまだ少しだけ痛む。霧の国という言葉を耳にしてしまうと、霧の国がなくなってしまったという事実を改めて思い出してしまうのかもしれない。

「そう言えば、(よう)の国との戦いで父上たちと斬り込みをかけた時、身分が高そうな敵将を捕らえそこなった話をしたわよね。多分、その時の敵将が呂桜(りょおう)将軍だったのよね。一瞬だったけど、あれは間違いなく女性だったわ。陽の国に女性の兵は他にはいないみたいだから、きっと間違いないわよね」

 華仙は斬り込みをかけた時の情景を脳裏に浮かべる。

「うん。そうだったかもしれないね」
「あの時、捕らえるなり、殺せるなりをできていれば、霧の国がなくなることもなかったかもしれない。そして、こんなところにまで来て皆が戦う必要もなかったかもしれない」

 そう。もう一歩だったのだ。あの時、いかにも戦いに慣れていないような男に邪魔をされなければ……。
 あれ? あの時の男って……。
 そこまで華仙が考えた時、玄が口を開いた。

「そうかもしれないね。でも、陽の国というかつてないような大きな国が存在してしまった以上、小さな霧の国は遅かれ早かれなくなったのだろうなと思うんだ」
「そうかもしれないけど……」
「そして、いずれ滅ぶのであれば、早い方がよかったとも僕は思うかな」
「どうして?」

 華仙は素直に首を傾げて玄に質問する。

「陽の国に併合されるのであれば、霧の国と陽の国の間のわだかまりは少ない方がいいからね。もし、華仙たちが呂桜将軍を殺していたら、陽の国側のわだかまりがそこに残ってしまう。その残ったわだかまりは霧の国が併合された後、あまり互いによい結果をもたらすことはないだろうからね」

 わだかまりが残る。確かに玄の言う通りなのかもしれない。でも、自分たちのわだかまりはどうなるのだろうと華仙は思う。

 自分たちの国、霧の国がなくなってしまったというわだかまり。これは自分も含めて、霧の国の民たちにとってしてみれば、わだかまりがなくなって霧のように晴れるわけではないだろう。華仙にはそう思えるのだった。

「華仙、そんな顔をする必要はないよ。国がなくなったのは残念だけれども、よい面もあるんだよ」

 よい面。華仙は玄の言葉を心の中で繰り返した。

「陽の国の文化は霧の国よりも遥かに進んでいる。この併合で新しい知識や技術が霧の国にもたらされることになる。その知識や技術を使えば、畑の収穫量が増えるかもしれない。今まで治らなかった病いも治癒するかもしれない。他にも恩恵を受けることが、いくつもあると思うんだ」
「そうね。確かに玄が言うように、きっと悪いことばかりではないのでしょうね。でも、こうして、霧の国とは違う遠くの場所で、私たちは誰のためかも分からないままで戦わなければならない。死ななければならないのよ」

 華仙は黒色の瞳を真っ直ぐ玄に向けた。その視線には迷いがない。どこまでも真っ直ぐなものだった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み