第36話 違和感

文字数 1,651文字

「崖を登るとは突飛なことを考えたものですね」

 夏徳(かとく)の横で副官の丁統(ちょうとう)が感心したように言う。

「崖に巣を作る鳥。山脈が多い南部地方で、その卵を獲ることを生業にしている者の話を聞いたことがあってな」
「命知らずということですね」
「そうでもないぞ。彼らに言わせれば、要領があるらしい。恐怖心さえどうにかできれば、何てことはないらしいぞ。ま、俺には無理だがな」

 丁統が夏徳の物言いに苦笑を浮かべる。

「崖を登るよりも、(きり)の国の内部に潜入した後の方が命懸けだろうな。敵と知られたならば命がない」

 その言葉に丁統は顔を引き締めたようだった。

「予定通りに進んでいれば、そろそろ城門に動きがあるはずだ。丁統、突入の機を違えるなよ」

 丁統は頷く。夏徳は更に言葉を続けた。

「忘れるなよ。崖を登り、決死の覚悟で侵入した兵たちの確保が最優先だ。霧の国の占拠などは後回しでいい。俺は姫様の傍にいる。最前線での指揮はお前に任せるぞ」

 いつになく厳しい表情で夏徳は言うのだった。




 あの男は……。
 視界の中には三十歳ぐらいに見える男の姿があった。特に華仙(かせん)の注意を引いたわけではなかった。だが、注意を引かないまでも先程から華仙の中で妙な違和感があった。

 男の顔には見覚えがない。当然、華仙も霧の国にいる住民全員の顔や名前を知っているわけではない。だが、華仙の目が届く範囲で全く見知らぬというのは、それはそれで珍しい。先程から自分が抱えている違和感はそのためなのかとも思う。

 霧の国の中に(よう)の国の者を送り込む。以前に(げん)が言っていたことを華仙は思い出す。

 同時にまさかとも思う。そのようなことが可能なのだろうか。だが、男は先程から城門の近くから動こうとしない。その間も男に話しかける者は皆無だった。

 男は皮で作られたように思える簡易な鎧を上半身に着ており、腰には短剣らしき物を身につけていた。格好を見る限りでは霧の国の住民たちと大きく変わるところはないし、身につけている物に関して言えば違和感などはない。

 長い時間、城門の傍から離れようとしないで誰とも会話を交わしていない。そして、見覚えがある顔でもない。違和感があるとすれば、それらだけなのかもしれなかった。

 華仙は隣に立つ玄に黒色の瞳を向けた。

「玄、少し気になることがあるから、行ってくるわね」
「何かあったのかい、華仙?」

 急な華仙の言葉に玄は不思議そうな顔をした。

「単に思い過ごしだと思うのだけど。玄が気にする必要はないわよ」

 華仙の言葉に玄は意味が分からないといったような不明瞭な顔をしたものの、黙って頷いた。

 華仙が歩みを進めた時だった。城門近くの男に一人の男が近づいた。歳は城門近くの男と同年代ぐらいであろうか。近づいてきた男にも見覚えはなかった。

 男たちが二言、三言と言葉を交わす。見覚えがないということ以外に、不自然なところはなかった。

 いや、と華仙は思った。二人とも、妙に緊張した顔をしている。殺気立っていると言った方が適切かもしれなかった。

 戦の最中だからだろうか。だが、昨日を境にして連日のように続いていた陽の国からの攻撃はなかった。

 霧の国の民たちは、どちらかといえば緊張から解き放たれたような顔を誰もがしていた。
 やはり妙な胸騒ぎがする。華仙がそう思って足を早めようとした時だった。

 急にその男たち二人が城門に駆け寄った。次いで彼らと同じように数名の者たちが四方から城門へと駆け寄る。

 一体、何を?
 何が起こっているのか分からないまま、華仙は不穏な物を感じて城門に駆け寄ろうと走り出した。

 駆け寄る華仙の視界で、城門に取りついた彼らは城門にある巨大な閂を持ち上げようと試み始めた。周りの霧の国の民たちも、呆気にとられて何事かと城門に取りついた男たちを凝視している。

 彼らが何をしようといているのか、突然の出来事で周りにいる霧の国の民たちも咄嗟には理解できていないようだった。

 駆け寄る華仙自身にしても、彼らが閂を持ち上げようとしている、その事実以外は理解できていなかった。
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