第1話 黒い髪の少女

文字数 1,579文字

 東西に長く伸びる大陸。その大陸のほぼ中央で東西を分つかのように南北を横断している山脈。そんな山脈の中腹に(きり)の国と呼ばれる小さな国があった。

 その霧の国で今、黒い髪の少女が息を切らして走っている。

「おはようございます、姫様。また宮殿ですか?」

 宮殿へと続く道を華仙(かせん)が走っていると、いつものように農作業をしていた(がい)爺さんが手を止めて声をかけてきた。

「おはよう! 凱爺さん!」

 片手を上げている凱爺さんに向けて、華仙も走りながら片手を大きく振り返して頷く。
 凱爺さんが、またと表現したように華仙が宮殿に向かって毎朝この道を走るのは、ほぼ日課になっていると言ってよかった。

 日が昇ってからしばらく経つので、霧の国という名の由来となっている濃かった霧も随分と晴れてきている。だから、華仙には視界が悪いといった感覚はなかった。

 走る華仙に合わせて腰まで伸ばされた艶のある黒髪が、まるで別の生き物であるかのように宙を泳いでいる。それを靡かせながら意志の強さを感じさせる黒色の瞳を真っ直ぐ前に向けて、華仙は大地をまるで飛ぶかの如く走っていた。

 凱爺さんは宮殿といった大層な言葉を使っていたが、この霧の国にある宮殿はそんな大それたものではない。控えめに言っても、少し大きな邸宅といってよいぐらいのものでしかない。

 住民が五千人にも満たない小国とも言えないような小さな国。それが華仙たちの住む霧の国だった。

 息を切らせた華仙が宮殿の前に着くと城門前の兵士が声をかけてきた。城門と言っても少し大きな木の扉といった感じの物だ。

「おはようございます、姫様」
「おはよう。今日もご苦労様」

 華仙が笑顔でそう答えている間に兵士は扉を開けてくれる。これもほぼ毎日といってよい見慣れた光景だった。

 宮殿内に入った華仙は迷わず(げん)の寝室を目指して歩みを進める。

 ……玄。この霧の国の君主であり、同時に華仙の幼馴染でもある。
 年齢は今年十七歳になる華仙の二つ上で今年、十九歳となる。

 朝が極端に弱い玄は、いつもの如くまだ寝ているはずだった。それでは霧の国の民に示しがつかないといつも言っているのだけれども、朝の早起きだけはどうにも改善されない。

 玄の寝室に着いた華仙はその扉を叩く。

「玄、起きて。もう朝だよ!」

 大きめの音を出して扉を叩いているのだが、部屋の中からは一向に返事がない。もっとも、毎朝これで玄が起きてくることは稀だったりもする。

 逆に華仙が扉を叩いて起きてくる日は玄の体調が悪い日が多く、それはそれで心配だったりもするのだが。玄は幼い頃から病弱で、頻繁に発熱する体質は成長した今でも変わらない。幸いなことに熱が長引くことはなくて三日、四日で回復するのだったが、たまに高熱を発したりして華仙を心配させるのだった。

 華仙は軽く溜息を吐くと勢いよく扉を開けた。案の定と言うべきか玄は寝台で穏やかな寝息を立てている。そんな玄を見ていると君主とはいえ、全くもっていい身分だなと華仙は改めて思う。

 華仙は寝台に近づくと、玄の明るい灰色の髪の毛に片手を入れて無造作に掻き回した。

「玄、起きて。起きなさい、玄」

 何事かと玄は瞼を開いて濃い茶色の瞳を華仙に向けた。だが、まだ寝ぼけているのか視点が定まっていないようだった。

「……おはよう、華仙」

 髪の毛を掻き回しているのが華仙だと気づいたのか、玄はそう言いながら上半身を起こした。

「華仙、いつも言ってるけれど、起こす時に髪の毛を掻き回すのは止めてくれ。寝ているのだから、びっくりする」

 玄の言葉に華仙は言われていることが分からないといった風に小首を傾げてみせた。

「後、昨日みたいに頬を突っつくのも禁止だ。僕はもう子供ではないのだからね」

 玄のそんな不平を聞きながら、いい歳になっても起こさなければ起きないのだからまだ子供でしょうにと華仙は思うのだった。
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