第29話 肝が冷えた

文字数 1,569文字

 三十歳半ばぐらいの明るい茶色の髪をした男だった。男が身を挺してまで守ろうとするのだから、やはり小柄な男は相応の身分にある者なのだろうと華仙(かせん)は思う。

 果敢にも威候(いこう)に向けて長剣を構える男だったが、その立ち姿はお世辞にもさまになっているとは言えなかった。腰は引けており、背も丸まっている。しかも、構えている長剣の剣先は恐怖と緊張からなのか震えているようだった。

 剣を構えたことなど今までに一度もない。そう思えるほどの立ち姿だった。そう思って男を改めて見てみると、最低限の甲冑しかつけておらず限りなく軽装に近かった。とてもではないが、戦場に立つ兵士の格好とは思えない。

 兵士というよりも、内政を司っている者なのだろうか。そう考えていた華仙に向けて威侯が口を開いた。

「邪魔だな。華仙、排除を」

 威候はそれだけを言った。
 排除。無慈悲な言葉だと一瞬だけ華仙は思った。だが、仕方がない。これは戦いなのだ。極論すれば命の奪い合いだ。

 華仙は懐から短剣を取り出した。人を殺すことは初めてではない。でも、戦とはいえ他者を殺すことに躊躇いがないわけではなかった。

 華仙は短く息を吸い込むと、男の喉元を目掛けて短剣を投げる。申し訳ないと思うが、仕方がないとも同時に思う。これは、やはり戦なのだ。自分の正面にいる華仙の不穏な動きを見て顔を引き攣らせている男の顔を見ながら、華仙はそう思っていた。

 華仙の手から放たれた短剣が顔を引き攣らせた男の喉元に吸い込まれるかに見えた瞬間だった。

 男の横手から盾が差し出された。華仙が放った短剣がその盾によって弾かれる。続いて十名程の兵が男の前に庇うようにして雪崩れ込んできた。

「こっちだ! 護れ! 何があっても護るのだ!」

 誰が発しているのかは分からなかったが、怒声のようなそんな声が聞こえてくる。

「華仙、引くぞ」

 それを見て威侯が短くそれだけを言った。敵が態勢を立て直して、こちらが囲まれる前にとの判断なのだろうと華仙は思う。

 捕らえ損なったあの小柄な男が(よう)の国で、どのような身分だったのかは分からない。だが、もしかするとこの戦いを有利に運ぶ要因となったかもしれない。そう思うと、華仙の中に口惜しさが残る。

「我が名は威侯! 死にたくなければ、道を開けよ! 邪魔をするならば叩き斬る!」

 先程と同じような言葉を威侯は口にする。

「華仙、遅れるな!」

 威侯の言葉に動揺して尻込みを見せる敵兵の中を威侯は馬を走らせた。その威侯を先頭にして(きり)の国の兵が続いていく。

 威候たちに続いて馬首を返す直前に、陽の国の兵たちの間から大地の上で上半身を起こす小柄な男の姿が華仙の視界に入った。

 上半身を起こした小柄な男は兜を取って頭を左右に振っている。それに合わせて兜から解き放たれた黒色の長い髪の毛が宙で揺れる。

 女性。
 正直、驚いた。自身も女性の身でありながら戦場に立っているので、それ自体を否定するつもりはないのだが。

 氏素性が分かるはずもないのだが、いずれにしてもあの甲冑だ。陽の国でも高貴な身分なのだろう。
 華仙はそんな思いを頭の片隅で泳がせながら、威侯たちとともに戦場を離脱したのだった。




 正直、ここまで肝が冷えたことはなかったかもしれない。夏徳(かとく)は腰を抜かしたように大地に座り込みながら大きく息を吐き出した。まだ冷や汗が止まっていないようだった。

「夏徳様、ご無事で?」

 こちらもまだ青い顔をしている丁統(ちょうとう)が夏徳に駆け寄ってきた。夏徳は片手を上げて、無事だということを示した。あの時、丁統が盾で自分を守ってくれなかったら今頃、自分は息をしてなかっただろうと思う。

 短剣を投げてきた者。戦場には似つかわしくない若い女性のようだったが。
 夏徳はそこまで考えたが、今はそのようなことを考えている場合ではないと思い、その考えを頭から追い払った。
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