第63話 きっとひとり泣いている

文字数 2,906文字

 一体、何なのだろうか……これは……。
 手紙の内容が上手く頭に入ってこない。認識した文字が頭の中ですぐに霧散してしまう。

 辛うじて理解できたことは、(げん)がこの世からいなくなってしまうということ。玄が自分に謝りながらこの世から去ってしまったということ。

 頭の中で様々な感情が駆け巡る。自分がどのような顔をすればいいのか分からない。泣きたいのか、怒りたいのかも分からない。

 感情の置きどころが分からなくて、救いを求めるように華仙(かせん)は手紙から顔を上げた。こんなことは嘘だと言ってほしかった。悪い夢なのだと、常に自分の味方である優しい母親に言ってほしかった。

 華仙は縋るような思いで冬香(とうか)の顔を見る。先程までと違って母親の瞳には大きな涙が浮かんでいる。

 威候(いこう)に視線を移すと威侯が黙って小さく頷いた。
 そうか。やはりこれは現実なのだと華仙は頭の隅で辛うじて理解する。

 その瞬間、華仙の中で怒りが湧き上がった。今までに経験したことがないほどの大きな怒りだ。脳裏が焼き切れてしまうと思えるほどの。

 自分の視界が赤で染まっていくかのようだった。

「玄が、玄が! (よう)の国、ふざけるな!」

 華仙は吠えるようにそれだけを叫ぶと、外へ飛び出した。

 玄を殺した陽の国の者は皆殺しだ。例えそれが叶わなくても、一人でも多くの陽の国の人間を殺してやる。女も子供も関係ない。玄が殺されたのだ。ならば、その代価として自分が彼らを殺してやる。
 
 殺してやる!

 駆けながら華仙は心の中で何度も強く叫ぶ。

「姫様!」

 走る華仙の片手が背後から不意に掴まれた。勢いが余って華仙は大地に転がる。転がりながらも受け身を取って体勢を立て直した華仙は、自分の片手を掴んだ腕の主に燃えるかのような怒りで満ちた瞳を向けた。

「邪魔するな、黄帯(こうたい)!」

 黄帯の背後には、こちらに向かって走ってくる威侯と冬香の姿も見えた。

「まだ玄は生きているかもしれない。ならば、玄を助ける! もし、もしも玄が死んでいたら陽の国の者など皆殺しだ! 私が全てを殺してやる! 邪魔すれば、お前も斬る!」

 黄帯に向かって叫ぶように怒鳴りながら、躊躇いを見せずに華仙は懐にある短剣に華手を伸ばした。

「先には行かせませぬ!」

 黄帯も怒鳴るように言葉を返す。

「邪魔するな!」

 華仙が突き出した短剣。それを握った手首が黄帯に捕えられる。その突き出した腕の勢いを利用されて、華仙は難なく大地に再び転がされた。次いで、流れるような動きで華仙は黄帯に馬乗りになられてしまう。

 短剣を握った右手は黄帯にしっかりと掴まれて地面に押しつけられている。それを跳ね返そうにも、少しも腕が動かせなかった。

 非力だった。女の身が疎ましかった。
 華仙は自由になる両足をばたつかせて無茶苦茶に暴れる。それに合わせて華仙の長い黒髪が宙を舞う。

「姫様、落ち着いてください!」
「邪魔するな! 玄が、玄が死んでしまう!」

 血を吐くかのような叫び声を上げ、暴れ続ける華仙の下に威侯と少しだけ遅れて冬香がやってきた。

「華仙、玄様のお気持ちを考えろ」

 黄帯に押さえつけられても暴れ続けている華仙を鎮めようと、威侯が両膝を地面につけて華仙に顔を近づける。

 お気持ち? 
 (きり)の国のために死ぬことの気持ちなど、汲み取るつもりはなかった。華仙に汲み取れるはずがなかった。

「知らない。そんなことは知らない。私の知ったことじゃない! 玄が死んだのならば、私も死ぬ。陽の国の者、その全員を殺して私も死ぬ。止めるのなら、父上とて容赦はしない!」

 まるで手負いの獣であるかのように、暴れ続けようとする華仙の頬を威侯が容赦なく叩いた。その衝撃で視界が歪み、口の中に鉄の味が広がる。
 しかし、それでも華仙は暴れることを止めなかった。

 玄が、玄が死んでしまう。自分が守ると強く誓った玄が死んでしまう。
 華仙はそれだけを心の中で繰り返す。

 やがて、荒い息と共に暴れていた華仙の動きが力尽きて止まる。上から押さえつけていた黄帯も荒い息を吐き出していた。

 ……威侯に叩かれた。
 でも、昔のようにそれから守ってくれる玄はいないのだ。

 その事実が華仙の胸を更に深く抉る。その事実が華仙の感情を更に冷たく凍らせていく。

 気がつけば冬香の顔がすぐ近くにあった。上から華仙を鎮めようと覗き込む冬香の涙が、華仙の頬に落ちてくる。

 涙……。
 ……そうか……。
 あまりに悲しすぎると涙は出ないのだと、冬香の涙を見て華仙は気づかされた。

「華仙、玄様が皆のために決められたこと。皆が傷つくことがないようにと。何よりも、大切な華仙が傷つかないようにと、玄様が命を賭して決められたことなのよ」

 冬香に両手で華仙は抱きしめられる。

 皆が傷つかないように……。
 私が傷つかないように……。

 でも、そんなことは華仙にとってどうでもよかったのだった。霧の国の皆が傷ついてしまったとしても、自分が傷ついてしまったとしても。例え死んでしまったとしても華仙にはどうでもよかった。

 玄さえ生きているのなら。玄さえ生きているのならば、どうでもよいことだった。皆を犠牲にして、例えその生き血を啜ってでも玄には生きていてほしかった。

「母上……」

 呆けたように呟く華仙を冬香が更に強く抱きしめる。

「私は皆のことなどはどうでもよいのです。玄さえ生きていれば……華仙にはどうでもよいことなのです」
「ええ、そうね……」

 華仙は自身のことを幼少の頃のように華仙と呼ぶ。

 華仙は思う。
 玄はどんなに不安だったろうか。どんなに怖かっだろうか。そして、どんなに悲しかっただろう。

 一人で死ぬと決めることは。
 一人で死ぬことは……。

「母上、華仙も死にます。お願いです。華仙を殺して下さい。玄だけを一人で死なせられません。玄を一人にはできません」

 華仙のまるで身を切るかのような訴えに、冬香の顔が大きく歪む。

「だって、華仙は知っているのです。玄は小さい頃から泣き虫で弱虫なのですよ。とても、とっても泣き虫で弱虫なのですよ。体も弱くて、泣き虫なのですよ。だから華仙が傍にいて守らないと……だから華仙は強くなったの。どこかできっと今も、玄はひとりで泣いているの……だから……」

「そうね……華仙は玄様を守るために、とても強くなったものね。母の……自慢の娘ですものね」

 冬香の声は嗚咽混じりで掠れていた。

「小さな頃から、玄は華仙がいないと何もできないの。だって泣き虫で、弱虫で体も弱くて……そして、華仙も玄がいないと何もできないの……玄がいないと……玄がいないと華仙もきっと弱虫なのです……」
「そうね……華仙もそうだものね」

 悲し過ぎて涙が出ない。どのような顔をすればよいのかも分からない。ただただ胸が張り裂けそうに痛かった。

 でも、涙も出ないこの体などは胸が張り裂けてなくなってしまえばいい。消えてしまえばいいのだ。華仙は強くそう思う。

 自分は何で今も生きているのだろう。玄がいないというのに。何もできなくて、泣くことすらできないままに、自分は何で今も生きているのだろう……。

「嫌ー」

 冬香の腕の中から華仙の身を切るかのような叫び声が周囲を震わせたのだった。
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