第1話:伊藤光一の誕生

文字数 1,691文字

 伊藤実一は、福島の会津の零細農家に生まれ、近くの山本家の広大な土地の小作人として、朝から晩まで働き、米、味噌、野菜などを与えられて育った。当時は、兄弟が多く、結婚しても、とても、まともに食べていけない。しかし、1950年は、朝鮮戦争で必要になった物資を日本で製造し供給先する様になり好景気を迎えた、いわゆる「特需景気」の始まりとなった。

 そのため伊藤家と同じ小作人の娘、寺島福江と恋仲になった時、都会に出て、特需景気にあやかろうと、遠い親戚を頼りに町田市の郊外で農家をやっている但馬家に嫁いだ但馬絹代さんを頼って上京した。しかし、そこは、新宿から小田急線で鶴川で降りて、4キロ、徒歩1時間の場所で、山の裾野に、農家が数件あるだけのとても東京というイメージではない場所だった。

 それでも仕方なく、その寺島家の納屋を改造して住み始め、風呂は、徒歩10分の所にある銭湯で、トイレは、本宅を借りて、水も20リットルの石油ポリタンクにもらって使うという不自由な生活を開始。以前、家畜を飼っていたせいで、部屋は、獣の臭いが消えない。スコップで土を平らにして、スノコを置き、その上に、板の切れっ端をうまく打ち付けて、床にした。

 その上に使い古した畳を安く譲り受け、和室にしつらえた。納屋にあったキャンプ用品の石油コンロと飯ごうと鍋で2人分の料理をつくる生活を始めた。最初は、寺島の奥さんが、料理の残り物を持ってきてくれたが、いつまでも世話になるわけにも行かず、セリ、つくし、竹の子、自然薯、キノコ、山菜など食べられ物を取ってきて料理をした。

 そして2人は、近くの農家の手伝いで、米、野菜、果物や収穫を終えた後の残った野菜、果物を畑を掃除する条件、で無料で、いただいた。農繁期の給料は、2人で6万円と言う条件で働いた。それでも、忙しい時は、早朝から夜遅くまで働かされた。町田に来て3年が過ぎた1953年、奥さんが、妊娠した。そして、11月4日が出産予定日と知らされ、無事、男の子「光一」を生んだ。

 それを聞き、親戚の但馬絹代さんが、喜んでくれ、自分のへそくりで、医療費を立て替えてくれ、近くの産婦人科で伊藤光一を1953年11月4日、出産した。産後、帰ってくると、納屋を改造した所ではかわいそうだと言ってくれた。そして但馬絹代さんが、自宅の和室を借し、ストーブで部屋を暖め、湯を沸かし、湯たんぽに入れてくれ、面倒を見てくれた。

 その後、但馬絹代さんが、その6畳の部屋を月1万円で貸してくれた。そして自分は、旦那さんの部屋に移動。伊藤実一と光一との3人で生活を始めた。そして1954年4月から但馬絹代さんに伊藤光一をみてもらい伊藤夫妻は、近所の農家の仕事を手伝い給料をもらった。そして、月日が流れ1960年、伊藤光一も小学1年生になり徒歩15分の小学校に通い始めた。

 そのうち但馬絹代さんが知り合いの紹介で、新しくできたゴルフ場の守衛さんの仕事を伊藤実一に持ってきた。その仕事は、20時から8時まで夜勤の守衛の仕事でゴルフ場に入り口で見張り番をする事。簡易ベッド1つと簡易トイレ、電話、書類だけが置いてあり、何かあったら、すぐ警察へ電話することになっている。また、台風や風水害の時もゴルフ場の関係者に連絡する仕事だった。

 週に4日勤務で月給が8万円で諸手当入れて10万円でボーナスなし。出勤用に、自転車を貸してくれた。これで、なんとか食べていけることになったが、相変わらず但馬家の1部屋を借りる生活が続いた。その後、1957年になり世の中は、神武景気で景気が良くなってきた。そして、家の近くに電機部品の工場ができて組み立ての作業の仕事のチラシが入った。

 早速電話して伊藤幸代が、面接を受けて合格した。朝8時半から17時半の昼休み1時間の8時間労働であった。給料は8万円、ボーナスは、売り上げ次第という条件だった。その後、1959年、近くに都営団地ができることになり家賃が、収入に応じて、2Kのマンションで3万円から6万円であり応募し当選した。この頃には、但馬絹代さんに借りた金も返して但馬家を出た。
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