第25話:伊藤の実家新築と久光先生の開業

文字数 1,758文字

 その後1月12日、鶴川の実家に帰った。
「そして体調を壊して、今の会社を退職しようと思っていると両親に相談すると、今後の生活設計ができているなら、思うとおりにして構わない」。
「援助するだけの資産は、ないから、理解しておいてくれと言われた」。
「両親は、地元の農家の家を安く譲り受け築40年たっていた」。

「敷地を見て回ると家の周りは、雑草、竹藪「たけやぶ」だらけ」。
「家の図面を見ると、その荒れ地も全て敷地で120坪」。
「これで、十分に2軒の家が建つ」。

「そこで、金は、俺が出すから、父の家と俺の家を建てさせてくれと言うと構わないと言われた」。
「でも両親が、費用を出せないが大丈夫かと言われ、なんとかなると話した」。
「それならと言い、父の知り合いの工務店の真田社長に電話して来てもらった」。

「真田社長がパンフレットを持ってきて両親2人だけで伊藤光一の一家3人と伝えると同居しないのかと聞かれ、別々の方が良いと答えた。」
「平屋の2LDKと建坪35坪の4LDKの家の見積もりを取ると標準仕様で3500万円、ペアガラス、最高級・断熱性の高い住宅が4500万円と言われた」。
「雑草、竹藪の整地費用、実費で300万円だから4800万円と言われた」。

「じゃー、それでお願いしますと言うと了解してくれ、すぐに取りかかれば、5月の連休前には、建てられると言った」。
「それまで、どうすると両親に聞くと、真田社長が、うちの両親が亡くなり、和室が2つ空いてるから、そこに住むかと言ってくれ、お願いした」。
「母が、いつ頃、来るのかと聞かれ遅くとも4月末には帰って来ると答えた」。

「お前の妹の綾子も結婚し博多に住んでいるし、私たちのとっては、孫と近くに住め、うれしいが食べていけるのかと聞かれ、その点は大丈夫だと説明し」。
「それなら、窓ともいつでも会えるから、うれしいがと言われた」。
「その後、1月30日、実家を出て、新潟へ帰った」。
「そして、新潟営業所の長田所長に体調が悪い事を説明した」。
「すると、私もプロパーのたたき上げで、多くの部下を見ているので、無理しろとは、言わないと語った」。

「有給休暇を調べてもらうと40日も残っていた」。
「そこでいつ辞めると聞かれ3月末時点と答えた」。
「すると5月連休明けまで、給料をもらえると言った」。
「診断書をもらえるかと聞かれ、もらえると思うと言うと、それなら3ヶ月間、病欠できるから6月末のボーナスももらえる」。
「極力、金をもらえる様に考えてやるから安心しろと言われ礼を言った」。

「実は、会社で優秀なプロパーが体調崩し退職した人達を何人も見ている」。
「いつも、明日は我が身と感じたが幸運な事に新潟営業所の所長になれた」。
「そのためプロパーの大変さは、身にしみてわかっている」。
「だから、君の味方になるよと笑顔で話してくれた」。
「来週から3月25日までに担当引き継ぎだけは、しっかりやってと言われた」。

「伊藤は、長田所長に、がっちり握手して、お世話になりますと告げた」。
「その後、長田所長は、本社に、3月末に伊藤光一の退職の話を伝えて、公認の担当者を探して欲しいと連絡した」。
「その後、1988年2月5日、人選が決まったと連絡が入り、入社4年目の東京出身の池内敏久26才が赴任することになった」。
「そして2月6日から、一緒に訪問して、担当引き継ぎを開始」。

「そして雪道の走り方を教え、実際に池内君に運転してもらい出張へ出かけた」。
「最初に長岡日赤病院、長岡中央病院、立川綜合病院へ行き、内科、外科、その他の先生と薬局長に担当交代の挨拶をして回った」。
「その晩は、長岡に泊まり、翌日、小千谷に入り小千谷総合病院、魚沼病院で担当交際のをした」。
「そこから次に十日町へ向かい、十日町病院と今まで長い間お世話になった松平医院の院長と、奥さんに事情を話すと元気でねと言われた」。

「その後、新潟大学、精神科の久光先生を訪ね3月末退職すると打ち明けた」。
「先生の診断書をもらい会社に提出すると6月末のボーナスをもらえると言うと、そうか傷病休暇をもらえるのだなと言い、早速書いてもらった」。
「久光先生が、実は、僕も1989年3月末退職し東京で「悩みのクリニック」と言う名の精神神経医院を近いうちに開業する予定だと語った」。
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