第30話:阪神淡路大震災と救援活動

文字数 1,643文字

 1995年1月17日5時47分、兵庫県の淡路島北部、神戸市垂水区沖の明石海峡の深さ16キロを震源とするマグニチュード7.3 の阪神淡路地震が発生。1月15、16日と連休で、仕事始めの火曜日、光一の奥さんが起きて、お湯を沸かし始めた。5時50分から、首都圏向けに1分間、「気象情報」の後に5時51分からは「NHKニュースおはよう日本」6時台担当村上信夫アナウンサーが地震情報を伝えた。

そしてテレビ映像で最初に入ったのが、神戸の高速道路のが折れ曲がり崩れた映像だった。まるで特撮映画を見ているようで、にわかに現実だと受け入れられない程。その後、神戸市周辺で大きな煙が空高く上がっている光景やビルの1階が、つぶれた映像がながれた。その後、国道2号線が、渋滞で援助にいけないのでヘリコプターでは、見てるだけと言うことのなった。

 その後の調査で、地震当日に死亡した5036人の76%に当たる3842人は地震から1時間以内に死亡しており、このうちの9割が圧迫死「圧死、窒息死」。神戸市内の死者約2456人のうち、建物倒壊から約15分後までに亡くなった人が2221人と92%にも上り、圧死・窒息死で「即死」した人が大半を占めた。日本ではありえないとされていた中層階のパンケーキクラッシュが多数起こった。

 神戸市内の災害医療機関3つのうち、西市民病院本館が全壊し、中央市民病院が孤立し機能を失った。県立西宮病院2438人、明和病院658人、笹生病院1029人、西宮渡辺病院1200人など負傷者で溢れかえった。長田区にある神戸市立西市民病院は本館5階が圧壊して入院中の患者44人と看護婦3人が閉じ込められる状態になったが生存空間があったため即死しなかった。

 後に患者1名が死亡。他の損壊を免れた病院には多大な数の負傷者が搬送される事となり、病院は軽度の入院患者については当日中に早期退院、またはほかの病院に転院させるなどして病床をできるだけ確保。しかしそれでも病床の数が全く足りず、ロビーや待合室にソファーや布団を敷き詰めて病室とするなどの緊急処置を取らざるを得なかった。

 神戸港には、各発着所が壊滅的な損害で使用不能、一時的には大阪南港に発着地を変更して運航されていた。陸上輸送が麻痺状態に陥っていたため四国・九州方面とを結ぶ中心として機能。また、ウォーターフロントの地盤が陥没した岸壁に仮設の桟橋を設けて大阪と神戸間、神戸と西宮間など短距離の臨時航路も整えられた。代替交通機関として疎開する人・復興支援者の負担を少しでも軽減する努力をした。

 残された海岸部分を利用し医療物資の搬入も優先的に行った。なお東京消防庁は航空隊の消防ヘリコプターでいち早く特別救助隊を被災地に派遣した。当日11時、八王子消防署特別救助隊に対し、ヘリコプターで直接神戸市に出動せよとの指示があり、大型ヘリ「ひばり」で現地に向かった。大型ヘリ「ひばり」は、手持ち可能な器具のみの持ち込みであったが、孤軍奮闘した。

 全国から様々な形の「救援・支援」が届いた。救援物資・義援金・ボランティア活動の他、インフラの復興には他地域の電力会社・ガス会社などの多くの職員が復興応援のために現地入り。神戸市に本社を構えていたダイエーグループは、震災の一報を東京都内の自宅で知った中内㓛社長の指揮により建物が半壊状態でも兵庫県内を中心に関西圏の営業可能な状態の店舗をすぐに開いた。

 そして、在庫のある商品、空輸で届いた商品「食料品以外の毛布、懐炉」を破格「菓子パンやおにぎり一個10円」で提供。その他、震災3日後には営業時間延長の許可を取った上で電力が供給されている店舗は夜間も照明を点灯し続け、一定期間24時間体制で営業を続けた。

 神戸市に本社を置く淡路屋「駅弁大手」は、震災直後本社工場の損害が軽微だったため在庫の材料を使用して製造した弁当を避難所に配布し、その後各事業者の支援のもと工場設備を回復させ避難所への食料支援拠点として活躍した。
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