第10話:プロパー業務と内情と伊藤に転勤命令

文字数 1,531文字

 そのためプロパーは、新製品の売り上げを上げるために血眼になって働く。しかし、自社製品でなくで海外導入品が、大きな為替変動がプラスになって賞与が増える場合も晴れにあり、そういう時には、神に感謝し、ラッキーとつぶやく。つまりプロパー職は、80%の努力と20%のラッキーので収入が決まる。その代わり激務で毎年、数十人が脱落していく現実もあり信賞必罰の厳しい世界。

 しかし、まれに天才的な者もいて30才までに数千万円を貯め込んで若い女医さんと仲良くなり、名誉の退職をして女医さんが開業。左うちわでアパート、マンションの賃貸収入、または、株売買などで若くして優雅に退職していく者もいる。非常に珍しいケースとしては、人事管理能力と交渉能力を買われ担当している個人病院、大型開業医の事務長にスカウトされるケースもある。

 そんな1977年5月、新潟営業所から40歳代の中堅のプロパーさんが体を壊して入院したので応援を要請を受けた。この当時、新潟県は。東京支店管轄で若くて体力があり人に好かる若いプロパーはいないかと東京支店長が探し人賞をとったばかりの立川の東京西営業所の伊藤光一に白羽の矢が立った。もちろん藤島所長は、反対したが、他にい候補者がいないため決定した。

 仕方なく藤島所長が、伊藤光一を呼び事情を説明し承知しましたと答えた。伊藤は、実家に帰り転勤命令を告げると、母は、あまり無理しないでねと言った。数日後の5月8日、新潟営業所へ向かった。そして新潟の長田所長から話を聞いた。それによると新潟でも我が社が弱い山間部、長岡、小千谷など中越地区と十日町、六日町、津南など山間部を立て直す様に命じられた。

 仕事は月曜日、新潟営業所を出て週の活動目標を確認し、10時過ぎ、新潟を出て長岡市内の病院を訪問し長岡に泊まる。翌日から3泊して、小千谷、十日町、津南、六日町、湯沢の病院を訪問して金曜日の夕方に新潟に戻ってくる4泊5日、別名・死のロードに出かける。走行距離の長さ、山道など体力、持続力、営業力とプロパーとしての総合力を試される。

 1977年6月から担当病院を回り始め、8月には、顔をなんとなく覚えてもらえた。定宿も決め安くて旨い居酒屋を出張ホテルの近くに探した。たまに飲み屋の看板娘とアバンチュールを楽しむこともある。そして訪問時、医局の事務員さんに手土産を持っていくと良いと前任者から聞いていて継続して先生の交代時期や新任の先生の名前などいち早く知ることができた。

 また東京の有名大学医学部の派遣病院も数件担当し一緒にナイタースキーに出かけて親しくなり、営業活動の味方につける作戦も成功して予想以上の業績をあげる年もあった。しかし病院によっては新潟大学医学部が半分を占め他の半分が東京の有名大学と言う場合もあり難しいかじ取りが必要。東京者と親しくすると、よそ者ばかりと付き合ってると言われ売り上げを落とすこともあった。

 一番難しいのは、地元の人たちは、感情を表に出さないタイプの人が多く、腹を探るのがとても難しい点。これには、一番、難儀した。そのため事務員さん医局の秘書さんに聞いたりするケースが多くなるり、手土産代がかさむ。その後、山間部の津南町立病院・元院長の松平院長が40歳で病院の近くで内科を開業する話を聞いて、その開業の手伝いをした。

 その時、津南町立病院の30歳位の優秀な美人看護婦も飯塚里美さんを連れて行った。しかし結婚はせず内縁の妻として一緒に生活していた。その松平院長は、鎌倉のある個人病院の家の次男坊で、看護婦さんも湘南育ちの現代的な女性で、伊藤光一は、彼らに気に入られた。そして、開業先の空いてる部屋を提供され無料で食事付きで泊まらせてもらった。
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