第11話:都会出身の院長に入りこむ

文字数 1,662文字

 その代わり欲しいものを聞いて新潟に帰ると買って出張時に欲しいものを渡し重宝がられた。その点で持ちつ持たれつの仲になった。やがて11月から雪が降り始め12月下旬、吹雪の日も経験。そんな時は、喫茶店に避難するのが一番。そうして1977年が終わり伊藤も実家の町田郊外の実家に帰って、正月、ゆっくり休み、1978年1月、新潟での仕事に戻った。

 正月明け、新年のあいさつに、前・町立病院の松平院長の開業先を訪問。その時、君も株投資してみないかと言われ、僕には、有力な情報源があるから、もうけさせえてやると言われた。これには嫌と言えず言うとおりに長岡のN証券に1978年1月、口座を開き600万円を入金した。1月20日、仕事を終えて松平院長の官舎に行き一緒に夕食を食べ終えた。

 その後、先生の部屋でNEC株が180円以下は、買いだと言われ納得。1978年1月21日、電話で担当者に180円で3万株の買いを指示。その晩に電話すると買えたと連絡を受けた。540万円で買え、残金が60万円と告げられた。その日の晩、先生の官舎へ行き新潟へ戻りますと言うとT屋の羊羹が、食べたいので宜しくと頼むと言われて来週持参すると答えた。

 帰り際、今年の秋に来た病院の内科の先生に抗生物質は、君の所の製品を使う様に申し渡したと告げた。その言葉を聞き頭を下げ、お礼を言った。この頃、出張手当と営業手当で1日1万円を超え、4泊5日で手当てだけで5万円を超え月間20万円の諸手当含めた実質・年収が5百万円を超えた。新潟に帰っても土日、家で休息するだけなので預金は増える一方。

 そして1978年9月末、新製品の抗生物質の売り上げが好調で、6月末、特別ボーナス100万円が出て再び証券会社口座を600万円に増やした。10月8日証券会社から電話が入り住友電工株。180円で買いと言われその通り180円指値で3万株を540万円で購入し残金60万円となった。

 3年目になると先生方に顔も覚えられて仕事の勘所もわかり、たまにスキー、ゴルフの接待がある位で要領を覚えた。そのため東京から来た先生をカラオケに行ったり地元でも美味しい洋食屋に接待し業績も過去最高の数字をあげるようになった。1980年4月、係長職に昇格。しかし、地方への転勤は、若手のエリート・プロパーには、人気がなく上司から転勤命令が出る事は少ない。

 そして預金が、1982年、1千万円を超えた。女性にも不自由することもなく上手に生活して、金もたまり、順風満帆の生活を楽しんだ。また、新潟県の山間部を月曜から金曜まで走り回るような激務を好むプロパーは、他にいないので新潟の地で落ち着いて営業活動をしていた。その後も変わらず、月日がたち1983年を迎えた。

 この頃、三菱パジェロが発売され一目見て気に入りディーゼルターボを購入。会社では、ガソリン1リットル10キロの燃費として持ち車には、補助金を出してくれるので利用させてもらいう事にした。1983年2月25日、十日町病院で仕事を終え、昼食後、14時、病院の先生に、六日町病院の先生に早急に渡してくれと書類を預かった。

 この日、数日前から大雪となり雪道に強い四輪駆動で4輪スパイクタイヤで安定して走行した。そのため十日町から六日町まで短い距離を行こうと考え八箇峠を抜ける事に決めた。十日町病院を出て15分過ぎ八箇峠に差し掛り慎重に運転してトンネルを抜けて進むと左下りカーブに差し掛かり、ゆっくり走ると軽自動車が右側の空地に突っ込むようにして止まっていた。

 そして車から若い男の子が、こっちに手を振って空地に入るように指示した。そこで空き地に入ると若い女性が中に見えた。伊藤がスノーシューズに履き替え車を降りて歩いていくと彼女が困った様な顔で伊藤の方を見つめた。そして雪がすごくて上りは何とかなったが下り坂になり滑る様になって怖いので空地に車を止めたと説明。すると前輪駆動のはずの軽自動車の後輪にチェーンが巻いてあった。軽自動車に入り解説書を見ると、はやり前輪駆動。
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