第三十二幕 凶星(Ⅴ) ~立ち込める暗雲 

文字数 5,937文字

「ああっ!! マリウス! そんな……こんな事って……!」

 ディムロス。まんじりともせずにマリウス達の帰りを待っていたヴィオレッタは、マリウス達が帰還したとの報告を受けて、自ら城門まで迎えに飛び出していった。

 確かに彼は生きて(・・・)帰ってきた。そして暗い顔ながらソニアとアーデルハイドも無事だ。だが……

 右腕を失ったマリウスの姿を見てヴィオレッタは激しく取り乱した。彼は息も絶え絶えな様子でブラムドに跨っていた。切断された右腕には最低限の止血処置しか為されていなかった。

「た、ただいま……ヴィオレッタ……。約束通り、2人を無事に連れ帰ってきたよ……」

 青白い顔で半ば落馬するような形でブラムドから降りる。横にいたアーデルハイドが慌てて支える。

「ヴィオレッタ殿、説明は後だ! 見ての通りマリウス殿はかなり危険な状態だ。すぐに寝室へ! それと医者を呼んでくれ! 大至急だ!」

「あ、あぁ……わ、解ったわ! だ、誰か! 誰か来て頂戴! 彼を部屋まで運んで!」

 ヴィオレッタの金切り声に反応して衛兵たちが駆けつけてくる。近くを行き交っていた市民達も何事かと不安そうに集まって野次馬となっていた。

 彼等に見送られながらマリウスは衛兵たちの手で宮城の寝室まで運び込まれていく。その間一言も口を利かなかったソニアは、暗い目で何かを堪えるようにじっと俯いているのだった。


****


「やあ、皆。よく来てくれたね。ご覧の通り何とか大丈夫だよ。心配掛けちゃったね」

 数日後。危険な状態を脱したと判断されたマリウスの寝室に、ヴィオレッタ、ソニア、アーデルハイドの3人の姿があった。マリウスは寝台の上に状態を起こした姿で彼女らを出迎えた。

 本人の言う通り、その顔色はだいぶ良くなっていた。だが、寝衣の右の袖はひらひらと波打っていた。極力それに不躾な視線を送らないように意識してヴィオレッタが口火を切った。

「……何があったのかアーデルハイドから大体の様子は聞いたわ。本当に……あなたって人は……」

 涙ぐみそうになるのを必死に堪えたヴィオレッタは努めて明るい口調で話す。

「でもあの恐ろしい戦鬼から2人を無事に取り返した。それはあなたにしか出来なかった事よ。流石はマリウスだわ」

「ありがとう、ヴィオレッタ」

 マリウスが微笑む。だが……


「……アタシなんてあのまま死んじまえば良かったんだ。いや、こうなる前に自分で命を断ってれば良かったんだ。そうすりゃ――」


 ――パシィンッ!


「……ッ!」
 暗い声で話すソニアの言葉が終わる前に、その頬にヴィオレッタの平手が打ち込まれた。目を丸くして頬を押さえるソニアに、ヴィオレッタは厳しい視線を向けた。

「たらればはやめなさい。既に起きてしまった事は覆せないわ。今日までそっとしておいたけど、どうやら何も前進できていなかったようね。死んでいればなんて泣き言、マリウスの献身を最も侮辱する言葉よ」

「……っ! で、でも……しょうがないだろ!? マリウスは……マリウスは利き腕(・・・)を失っちまったんだぞ!? これが何を意味するか、アンタにだって解るだろ!?」

 マリウス軍全体にとって絶対的な存在であり並ぶもののない無双の豪傑であったマリウス自身の武が失われる、という事を意味している。この損失は国全体にとって計り知れない程に大きい。

 ましてやこれから積極的に勢力を伸ばそうとしていた矢先である。これからマリウスの躍進が始まるはずであった。その矢先である。

「ア、アタシ……アタシなんかと引き換えにするには、失われた物がデカすぎるんだよぉ! 全然釣り合いが取れないんだよぉぉっ!!」

 ソニアが心の底から叫ぶ。自分自身の失態がこの事態を招いてしまったという自責の念が彼女を苛み続けているのだ。

「ソニア殿……」
 自らも同じく捕らわれていたアーデルハイドは、不用意な慰めも言えずに痛まし気な視線を向ける。


「……ソニア、僕を見て」

 その時、寝台から静かな声が掛かる。ソニアは涙に腫れた目でマリウスを見た。

「マ、マリウス……アタシは……」

「僕は別に誰に強制された訳でもない。リスクを優先して君達を見捨てるという選択だって取ろうと思えば取れた。僕自身が君達を助けたくて勝手にやった事なんだ」

「…………」 

「だからこれは君達の責任なんかじゃないんだ。第一本当に悪いのは、こんな卑劣な手段を用いて挙句に僕の腕を切り落としたガレスと、あいつにそうするように仕向けたミハエルの2人だ」

「……!」
 その言葉にピクッと反応するソニア。しかしすぐにかぶりを振ってしまう。

「で、でも、ヴィオレッタにも事前に警告されてたのにまた突っ走っちまって、挙句にアーデルハイドも巻き込んで……。ア、アタシは――」

「――責任というなら、そもそも軍師として同行しながら敵の戦力を見誤ってみすみす惨敗を招いた私の責任が最も大きいわね」

 ヴィオレッタがソニアの泣き言を遮るように発言する。

「それは違う! 全部アタシが馬鹿なせいで――」

「――それに援護と救援を任されておきながら、その任を全う出来なかった私も同罪だな」

「ッ! アーデルハイド……!」

 アーデルハイドにまで同じように遮られ絶句するソニア。その隙を逃さずヴィオレッタが畳み掛ける。

「あなただけじゃない。これは私達全員の責任なの。あなたがそうやって自分を責める程に、私達も身につまされるのよ」

「……っ!」
 ソニアが口を噤む。

「大体、マリウスの怪我に少しでも責任を感じるのなら、ただ自虐して腐っているよりも他にやる事があるでしょう? あなたこそ解ってるの? マリウスが戦えなくなった今、彼の代わりに『矛』となり得る者は一体誰!?」

「……ッ! あ……」
 ソニアは目を見開いた。まるで鈍器で頭を殴られたような衝撃が彼女の目を覚ましたのだ。

「あなたが今回ガレスに不覚を取ったのは何故? あいつは私達なんて眼中にすらなかった。それは何故? 女だから? いいえ、違うわ。私達が『弱い』からよ!」

「く……!」
 ソニアが頬を紅潮させ拳を握り締める。

「あなたは悔しくないの? 私は悔しいわよ。物凄くね!」

「……く、悔しいさ。悔しくて堪らないさっ!」

 激情のままに叫ぶ。ただ無力な女のように捕らわれ人質にされ、マリウスが戦い傷付いているのを見ている事しか出来なかった。悔しくないはずがない。屈辱でないはずがない。余りのもどかしさに気死しそうになった程だ。

「だったら努力をしなさい。うじうじと後ろ向きに悩んでいる暇なんてないはずよ」

「そうだぞ、ソニア殿! 悔しいのは無論私も同じだ! マリウス殿に責任を感じているのもな! なればこそ私達はもっと強くならねばならん! 今以上に研鑽を積まねばならん! そうだろう!?」

 2人から発破を掛けられ、ソニアの身体がワナワナと震える。

「く、そ……! これじゃアタシだけが負け犬のままじゃないかい……! ああ、解ったよ! やってやる! やってやるさっ!! アタシはもっと強くなってやる! マリウスの抜けた穴を埋められるくらいにねっ!」

 吼えるソニアにヴィオレッタが目を細める。

「ふふ、やっと良い顔になったわね。勿論私も現状に甘んじているつもりはないから愉しみにしてなさいよ?」

「ああ、上等さ! アーデルハイド! 早速訓練に付き合ってもらうよ!?」

 水を向けられたアーデルハイドが力強く頷く。

「勿論だ、ソニア殿! 一切の加減はせんぞ!」

「望む所さ! ……マリウス。恐らくアンタはそれを望んじゃいないだろうから、敢えてもう謝ったりはしない。これからの行動と結果でアタシの決意を示す。アタシは生まれ変わってみせるよ!」

「ああ……楽しみにしてるよ、ソニア」

 マリウスの方を向いて宣言する彼女の姿に、マリウスは静かに微笑んだ。


 アーデルハイドと連れ立って寝室を飛び出していくソニア。それを見送ってマリウスは微苦笑した。


「ありがとう、ヴィオレッタ。ソニアは自責の念で押し潰されそうになっていた。君のお陰で何とか前を向く事ができたみたいだ」

「……いいのよ。悔しいのは本当だし。そう……ほ、本当に……」

「ヴィオレッタ?」

 ヴィオレッタの声が震える。そしてその眦から涙が零れ落ちる。そして彼女は寝台のマリウスに取り縋った。ソニア達がいる間は驚異的な克己心で抑えていたのが、2人きりになった事で決壊したのだ。

「ごめんなさいっ! ごめんなさい、マリウス!! ああぁぁぁっ! あ、あなたの……あなたの腕が……! こんな……こんな事になるなんて!! も、もう取り返しが付かない! 私は……私はぁぁっ!! うわあああぁぁぁぁっ!!」

 まるで少女のように寝台に突っ伏して泣きじゃくるヴィオレッタ。マリウスは左手でそっと優しく彼女の髪を撫でた。

「ヴィオレッタ……ありがとう。でも命そのものを失っていても全くおかしくない状況だった。それ程の強敵だった。それを考えれば飛んだのが首じゃなくて腕一本だったのはむしろ幸運だったよ。僕はまだこうして生きているんだからね」

「マ、マリウス……でも……」

 確かにそういう見方もできるだろう。あのガレス相手に一騎打ちして命があるだけでも物種だ。だが、物理的な命は残っても、剣士としての命(・・・・・・・)は失われてしまった。

 ロルフやタナトゥス、ギュスタヴら強敵を悉く退け、ギエル侵攻戦で幾多の敵兵を相手に無双し、常に勝利を重ねて味方を鼓舞し、ヴィオレッタ達を助けてきたあの華麗なる天才剣士はもういない。いなくなってしまったのだ。

 彼は一体どれだけの努力を重ねてあれだけの強さを手に入れたのだろう。単に才能だけではない、過酷な修行の日々があったはずなのだ。その日々は今、無に帰した。

 それを思ったヴィオレッタの目から再び涙が溢れてきた。失われた物は余りにも大きかった。ソニアにはああ言って発破を掛けたが、この喪失を埋める事など不可能だと、ヴィオレッタ自身が心の中で認めていた。

 国や戦いの事だけではない。利き腕を失ったというのは、彼のこれからの生活そのものにも影響を与える。あの強健だったマリウスが、日常生活にすら難儀するようになるのだ。余りにも残酷な運命であった。

 拭っても拭っても、止め処なく涙が溢れてくる。マリウスが左手でその涙を掬う。そしてそのまま彼女の顎に手を掛けて上を向かせると、その唇に自らの唇を重ねた。

「……!」
 ヴィオレッタが目を見開く。しかし抵抗したり離れたりする事は無い。逆に自分の両手を彼の背中に回してその体勢を維持した。


 そのまま10秒程だろうか。マリウスがゆっくりと顔を離す。


「マリ、ウス……」

「……少し落ち着いたかい? 僕の身を案じてくれるのはありがたいけど、僕にも、そして君にも立ち止まっている暇はないはずだ。そうだろう?」

「……っ!!」

 マリウスの目は力強い光を放っていた。彼は全く悲観していないのだ。それを見てヴィオレッタもようやく己を取り戻した。

 腕を失ったマリウス自身が前に進もうとしているのに、それを支えるべき自分達がいつまでも立ち止まっている訳にはいかない。


「……そうね。ありがとう。お陰で私も目が覚めたわ」

 軍師の顔に戻ったヴィオレッタが立ち上がった。その目にはもう涙は見えなかった。マリウスが頷いた。

「良かった。君に相談したい事があったからね」

「相談したい事?」

「ああ。ガレスが去り際に気になる事を言っていたんだ。僕とはより大きな舞台で決着を着けるって。それが何かはすぐに解ると言っていた。ミハエルが何か面白い事を企んでいるともね」

「……! ミハエルが……?」
(より大きな舞台……面白い事……まさか!?)

 ヴィオレッタの明晰な頭脳はすぐにその可能性に思い至った。


「もしかして……奴等も『旗揚げ』をするつもりかも知れないわね」 


「な……まさか!?」
 さしものマリウスも驚愕して目を見開く。

「そもそも放浪軍を率いているんだし、あり得ない話じゃないわ。ガレスとミハエルだけでも脅威だけど、そこにドラメレクやギュスタヴ、ゲオルグ達も加わっているなら、最早生半な小国の軍隊を上回る戦力だわ。決して不可能ではないはずよ」

 それだけでなくジェファスやボルハのような内政に長けた人物も勧誘しているとなれば間違いない。ガレスは……ミハエルは、自分達の国を作るつもりなのだ。

 仕官に興味を示さず、中原を裏から操る事を目的としていたミハエルだが、その野望をヴィオレッタ達に潰された事により方針転換したようだ。勿論彼女達への直接的な復讐も目的としているのだろう。

 ミハエルは本職は商人であったが、実際には兵法にも造詣が深く軍師として高い能力を持っており、内政にも外政にも長けた彼は多くの勢力から好待遇で招聘を受けていたらしい。ただ本人が仕官に興味がなく、それらに応じなかっただけだ。

「でも……どうやって!? もう僕等が旗揚げした頃とは情勢が違う。今更新興勢力が入り込む余地なんて殆どないはずだよ?」

 イゴール公のモルドバ軍が既にフランカ州のピュトロワも制圧し4都市を有する大勢力になっている事からも分かるように、中原の情勢は着実に動いている。ディムロス軍とてギエルを制圧し2都市を有するのだ。一昔前までの、小勢力が無数に割拠し小競り合いを繰り返していた時期が終わろうとしている。世は大勢力同士が争う規模の大きい戦争の時代に突入しつつあるのだ。

 そんな情勢の中で一放浪軍がのし上がる事は極めて困難になってきている。ヴィオレッタも勿論その情勢は理解していたが、それでも尚彼女の中には確信にも似た思いがあった。そんな中原の現状程度、あのミハエルが承知していないはずがない。

「具体的な方法は解らないわ。でも、必ず奴等は何らかの手段で台頭してくるはずよ。間違いなくね……」

「君がそこまで確信を持っているなら、間違いないんだろうね。ならエロイーズも呼び戻して、早急に対策を講じないといけないようだね」

「そうね。私もファティマと協力して、色々調べてみるわ」

 2人はその後も遅くまで対策を話し合っていた。




 軍中随一の使い手であったマリウス自身が利き腕と共にその武力を失うという、マリウス軍にとって驚嘆すべき大事件の発生。

 それを為した大剣士ガレス。その参謀のミハエル。そしてやはりマリウス達に恨みを抱いているだろう、ドラメレクら能力面だけ見れば極めて有能な武将達……。

 マリウスの実質的な戦線離脱というこの状況下で、明確な『敵』の存在が明らかになり、ヴィオレッタ達はそれらへの対処を余儀なくされる事となった。

 躍進を始めたばかりのマリウス軍の頭上には、早くも暗雲が立ち込めようとしていた……
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