第三十四幕 奇襲と妨害と

文字数 4,172文字

 セルビア郡とスロベニア郡を南北に隔てるヴラン山脈。山麓部は比較的なだらかで人が行き来できる環境であり、時には山賊の住処ともなる。だが一度奥地に分け入れば様相は一変する。

 登れば登る程に獣道は狭くなり、険しくなり、勾配が急になっていく。足を踏み外せば転落死は免れない崖路が大半を占めるようになり、その崖路すら徐々に途切れてなくなる。また山脈の中腹部を覆う広大な森林は日の光を遮り方向感覚を狂わせ、容易く遭難を誘発する死の迷路と化している。

 必死の思いでその森林を抜けた先には、高所ゆえに空気の薄い極寒の山頂地帯が待ち受ける。山頂付近には僅かであるが積雪さえあり、凍って固くなった雪は常に滑落の危険性を帯びている。

 このような険しさからこの山脈へ分け入ろうとする者もおらず、両郡の行き来には専ら山脈が途切れる東西のヨハニス街道とダンチラ街道のみが使われている。

 それは当然軍隊の行軍においても同様であり、セルビア郡とスロベニア郡が戦争をするとなれば、その舞台は必然的に2つの街道沿いとなる。それが常識であった。それ以外(・・・・)のルートで敵国に攻め入る者がいようなどとは普通は考えない。そう、普通は……。


「はぁ……はぁ……ふぅ……。ようやく中腹を抜けましたね。山頂部は迂回してこのまま中腹の外縁部を伝って南下を続けます。皆さん、頑張りましょう!」

 道なき道を進む200人程の人間達がいた。その先頭で歩く1人の女性が後続の兵士達(・・・)を振り返って鼓舞する。

 キーアである。彼女はこの戦争で西軍にも東軍にも所属していなかった。勿論彼女も当初はどちらかの軍に所属して敵と戦うものだと思っていた。しかし開戦直前になって軍師たるヴィオレッタから全く別の任務を言い渡されたのであった。それが現在の状況に繋がっている。

 彼女も勿論だが、他の兵士達も疲労の色が濃い。当然だ。この山脈に誰も分け入らないのには相応の理由がある。一歩間違えれば常に遭難や滑落の危険がある魔の山を細心の注意を払いながら行軍(・・)しているのだ。登山による肉体的な疲労は勿論、精神的な疲労も相当なものだ。

 ヴィオレッタからは、行軍の速度を犠牲にしてでも安全を優先しての慎重な行軍を申し付けられている。とにかく脱落者を出さない事が重要であった。

 そうして神経をすり減らすような登山を続ける事数日。ようやくキーア達は山脈の中腹部分を抜けて南下するルートに到達していた。


 因みに方角に関しては夜は勿論、昼間でも視認できる4つの星……即ち東の青龍、西の白虎、南の赤鳳(せきほう)、北の黒亀(こっき)という、それぞれ特徴の異なる4星が常に東西南北を指し示してくれているので、この中原においては空さえ見える場所なら方角を見失って遭難する事はまずないとされている。


 できるだけ目立たないようにひっそりと休息を取らせた後は再び慎重に行軍を再開。中腹の外縁部を抜けてこれからようやく下りのルートに入ろうかという時だった。

「……!」
 キーアは手を挙げて部隊に停止を命じる。それを訝しんだ兵士の1人が問い掛けてくる。

「キーア様、どうしたんですか? これから下山という時に……」

「しっ! 静かに……! あれを見て」

「……っ!」
 キーアが指し示した方向を見て兵士の目が見開かれる。岩山の間から細い煙が立ち昇っていた。それも一つではない。いくつもの煙が昇っている。

「あれは……」

「場所から言っても山火事の類いではなさそうです。それにあの煙の昇り方……。野営の炊事(・・・・・)で出来る物に酷似していると思いませんか?」

「……!」

 普段人が分け入る事は殆ど無い険しい山岳の奥地。こんな場所でいくつもの煙が立ち昇る程の規模で炊事が行われるなど通常はあり得ない。だが……今は通常時ではない(・・・・)。丁度この山岳を隔てた敵国との戦時中(・・・)なのだ。となると……

(まさか……)

 キーアは兵士達に待機を命じて、単身で煙が立ち昇っている場所に忍び寄る。そして岩の陰に隠れてそっと覗き見る。

「……!!」

 そこはこの険しい山岳地帯としてはかなり開けた場所であった。そこに思い思いに散らばって休息している兵士達(・・・)の一団があった。数は200前後。大体こちらとほぼ同数だ。

(やはり……ガレス軍!)

 最早間違い様がなかった。ここにいる目的は恐らくキーア達と同じだろう。彼女は歯噛みした。

 ヴィオレッタからこの任務を申し付けられた時、こんな型破りな作戦は普通は思いつかないし絶対に敵の裏を掻けると、ヴィオレッタへの尊敬と共にキーアは思った。だが敵の軍師ミハエルもまた、ヴィオレッタと同じ作戦を考え付いて実行に移していたのだ。

 即ち両街道を進軍する正規(・・)の軍隊が敵の主軍を引き付けている間に、誰も分け入らないヴラン山脈を越えた奇襲部隊を丸裸となった敵国に直接送り込む作戦を。


「…………」

 キーアは独力での決断を迫られていた。ここで奴等と一戦交える場合、自部隊は200しかいないので例え勝った場合でも、損耗率によっては奇襲部隊としての役割を果たせなくなってしまう。 

 なら奴等をこのままやり過ごして、あくまで自分の任務を優先するか。向こうはまだこちらに気付いていないのでそれも可能だ。だがそれは同時に奴等によるセルビア郡への奇襲も許してしまう事になる。

 キーアはディムロスに暮らす母アルマを想った。ガレス軍はその性質上、無辜の民にも平然と刃を向けるはずだ。ここで奴等を見逃すのは本末転倒だ。ヴィオレッタ達本軍の戦況にも影響が出てしまう可能性が高い。

 キーアは短い逡巡を経て決断した。臨機応変な対応も現場指揮官の役目だ。敵軍師の計略を妨害する事も立派な戦果だ。ヴィオレッタならきっと分かってくれる。キーアは兵士達の元に戻った。

「……この先にいるのはガレス軍です。奴等も我が国への奇襲を目論んでいたようです」

「……!」
 兵士達が動揺する。だがキーアは冷静にそれを制して話を続ける。

「ここで奴等を見逃せば我が国に大きな被害が出る事が予想されます。故に……こちらから先制攻撃を仕掛けて奴等を撃破します」

「でも……大丈夫ですか? いくら先制攻撃を仕掛けるとは言っても、敵も同数くらいいるとなるとこちらも無傷では済みません。それでは軍師様からの任務が……」

 兵士の1人が、キーアの逡巡と同じ疑問を呈する。だが彼女はかぶりを振った。

「ここで奴等を見逃す事の方が大きな問題です。これは決定です。奴等に奇襲を仕掛けます」

 この場の指揮官であるキーアがそう決めたのであれば兵士達はそれに従う他ない。キーアは兵士達を引き連れて、極力物音を立てないようにして敵が野営している場所まで近付いていった。






 一方、野営をしているガレス軍の越境部隊……。

「全く……次席軍師(・・・・)たるこの儂が、何故こんな険しい山奥まで歩かされねばならんのだ。ミハエルの奴め……」

 岩山の開けた場所で野営をしている兵士達の中心で、厳つい髭面の武将……ゲオルグは自分にこんな役目を割り当てたミハエルへの恨み節をぶつぶつ呟いていた。

 彼としては主力の西軍をミハエルが受け持つなら、東軍の軍師を任せてもらえると思っていたのだ。だがあちらは足止めだけなのでドラメレクだけで充分だと言われ、その代わりに言い渡された任務がこれ(・・)であった。


「……大体こんな事をしていて本当に来る(・・)のか? ここまで昇るだけでもとんでもない労力だったというのに、更に中腹を渡ってこの山を下ってスロベニアに奇襲を仕掛けようなどと……正気の沙汰とは思えんがな」

 だがミハエルは自信ありげに断言していた。必ずこの山脈を越えて敵の奇襲部隊がやって来ると。ゲオルグはその奇襲の妨害(・・)を任務としていた。

 妨害といっても、ただ陣を敷いて敵を待ち構えているのではない。それだとこちらが奇襲を読んでいたと敵にバレて警戒されてしまう。待ち構えている相手にわざわざ接触してくる馬鹿はいない。警戒した敵はこちらとの接触を避けて、迂回してスロベニア領内に侵入してしまう可能性が高い。何と言ってもヴラン山脈は広いので、迂回されたら捕捉するのは難しくなる。

 ではどうするか。まずは敵の注意をこちらに向けなければならない。その為に敢えて(・・・)目立つ場所で野営の炊事の煙を立ち昇らせる。

 敵はこちらに気付き、尚且つこんな場所で野営をしている理由について勝手に類推してくれるだろう。即ち……ガレス軍もこの山脈を越えてセルビア側に奇襲を仕掛けようとしていると。

 そうなれば甘っちょろい(・・・・・・)マリウス軍の女共は、誰であれそれを見過ごす事は絶対あり得ない。必ず自分達からこちらの懐に飛び込んでくるはずだ。

 ミハエルはそう確信していた。ゲオルグは彼の立てた作戦に従って、こうして野営の振り(・・)をして敵を待ち構えているのだった。

 だが一向に現れる気配の無い敵の姿に、ゲオルグも部隊の兵士達もダレ始めていた。彼も兵士達も、まさかこの険しい山脈を抜けて敵がやって来るはずなどないと高を括っているのだ。そしてミハエルの取り越し苦労を嘲笑うと共に、その為にこんな所まで来させられた事をグチグチと罵っているのであった。


 そんな状況の中、何度目かの野営をしている最中の事……

 ――ヒュンッ!!

 矢の風切り音。同時に歩哨役として暇そうに立っていた兵士の喉元に矢が突き刺さった。

「……!」

 兵士が倒れ、槍や鎧が地面に打ち付けられて金属音が鳴る。だがそれにゲオルグ達が反応する前に、岩山の陰から現れた敵部隊が武器を振りかざしながら襲撃してきた。

 マリウス軍の奇襲部隊だ!

(馬鹿な……本当に現れおった! この山脈を抜けてきたのか!?)

 ミハエルの読みは正しかったのだ。ゲオルグは慌てて剣を取って立ち上がる。幸い鎧は脱いでいなかったのでそのまま戦闘に移行はできる。周囲では他の兵士達も慌てて銅鑼を鳴らしつつ、武器を取って応戦に向かっていた。

 その時マリウス軍の奇襲部隊の先頭にいる人物の姿がゲオルグの視界にも入ってきた。それは見覚えのある顔だった。

「あの小娘は……! ぬふふ、儂は運がいい。またとない復讐の機会だ!」

 ゲオルグはその口の端を吊り上げると、自ら剣を振り回して敵に向かって突撃していった。


 大規模な軍同士がぶつかり合う両街道から遥か彼方の山の中腹でも、互いの存亡を賭けたもう一つの戦いが始まった……
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