第一幕 新たなる絆(Ⅰ) ~逃避行

文字数 5,572文字

「はぁ……! はぁ……! はぁ……!」

 夜の闇の中に、少女の激しい息遣いと街道を疾走する足音だけが響き渡る。

 足が痛い。もう一時間近く走り通しであった。呼吸が苦しく、汗に濡れた服が夜風に冷たい。しかしそれでも少女は足を止める訳には行かなかった。

 乗っていた馬は大分前に乗り潰してしまった。夜通し駆けてきた結果だ。それだけ急いでも少女は全く安心できなかった。

 脚を引きずるように走りながら、後ろを振り返る。そこには闇が(わだかま)っているだけで、何も見えない。何の音もしない。いや、時折風に揺られて街道の脇に生える木の葉がざわめく。

「……っ!」
 その度に少女は恐怖にそのあどけない容貌を歪めながら後ろを振り向く。そして何もいない事に安堵し、再び走り出す。その繰り返しであった。


 途上でなんとか身を隠せそうな場所を見つけて休息を取った。気づくと朝になっていた。疲れ果てて眠ってしまったらしい。幸いアイツ(・・・)には見つからなかったようだ。

 少女はホッと一息入れて、近くの川で顔を洗って喉を潤す。街の新鮮な井戸水が恋しかった。

 涙が出てきた。しかしそれを乱暴に拭うと、残り僅かな乾パンにかぶりついた。


 その後はまた逃亡(・・)を開始する。もう少しで目的の街に着くはずだ。街に紛れ込んでしまえば、アイツだってそうそう自分を探せなくなるし、手も出しづらくなるはずだ。

 向かっている街は最近太守が交代したばかり(・・・・・・・・・・)で、色々人手不足らしいからよそ者の少女でも働き口を見つけられるかも知れない。

 そんな事を考えながら必死に走っていると、やがて寂れた農村跡に差し掛かった。今向かっている街の前太守(・・・)が戦争を繰り返して、働き手を全て徴収されてしまった為に打ち捨てられた村だ。

「…………」

 少女はしばし考え込んだ。一刻も早く街へ入らなくてはならないが、何しろ疲れ果てていた。それにもしかしたら食べ物や井戸なんかも残っているかも知れない。

 アイツの気配はない。少し休憩して物色していっても大丈夫だろう。そう判断した少女は、何か目ぼしい物がないか廃村を探索し始めた。

 しかし以前に盗賊でも入ったのか、家屋の中は荒らされ放題で碌に何も残っていなかった。井戸の場所も解らない。落胆によって余計に疲れてしまった少女は、とりあえず目についた家屋の中に入ると、そのまま壁に背を預けて座り込んでしまった。

 そして再び自分の今の境遇や、喪われた物を想って涙に暮れた。

 どれくらいそうしていただろうか。少女はようやく気力を奮い起こして重い腰を上げる。脚を引きずるようにして建物から出ると、再び街へと向かおうとする。だが……

「……っ!?」

 少女の目が驚愕と……恐怖に見開かれる。その視線の先、10メートル程の所に佇む1人の人物がいた。その手には黒光りする不気味な刃。

「あ……あぁ……ひ……」

 少女は絶望の呻きを上げて後ずさる。遂に……遂に追いつかれてしまったのだ。こんな廃村で無駄に時間を食ったばかりに……

 少女も護身用に小剣を帯びていたが、絶対に勝てるはずがない。かといってここまで迫られてしまったら逃げる事も不可能だ。目の前が絶望で真っ暗になる。

 目の前の人物はそんな少女に考える時間すら与えてはくれなかった。容赦なく迫る黒い刃。少女は勝てないと解っていても、生存本能から泣きそうな顔で小剣を抜き放った――




****


 

 地方都市ディムロス。つい一月程前に旗揚げによって太守が代替わりし、ついでにこのディムロス県を治める【県令】自体が替わった。

 ディムロス伯マリウス軍(・・・・・)が統治するこの県は、前太守の失政や度重なる出征の影響などによってかなり荒廃していた。

 働き手の徴兵や野盗の横行などによって、傘下の町村の多くが困窮、もしくは廃村に追い込まれた所もある。

 いくら太守が代替わりしたと言っても、一月程度では県の様相がそう変わるはずもなく、全体として見ればこのディムロス県は荒れ果てていると言って良かった。

 こんな状態を放置していてはいつまで経っても国力が回復しないどころか、周辺勢力の格好の餌食だ。


 新たにディムロス伯となったマリウスは、徹底した国力回復政策を打ち出していた。そして側近のエロイーズを内務担当に任命し、街の経済の立て直しを命じる。

 エロイーズは自らの蓄えていた私財を惜しげもなく投じ、産業の振興を積極的に行っていた。また評判の良い商人と契約を結び、職人を招致し、街の大規模改修を始めるなど大量の雇用を創出した。

 職にあぶれた民が盗賊に身をやつす時代だ。噂を聞きつけた移民、難民が職を求めて街の前に列を成した。

 人口が増え、それらの人々にきちんと仕事を与えれば税収が増える。だがただ闇雲に人口を増やせばいいというものでもない。

 問題はそれを捌ききれるかどうか。流入する移民に対して産業の振興が追いつかなくなれば、結局職にあぶれてスラム街が広がるだけだ。また衣食住の問題も付きまとう。

 ある意味ではここからが内務担当エロイーズの腕の見せ所と言えた。目の回るような忙しさだが、彼女はかつて無い程に充実感を感じているようで、寝る間を惜しんで精力的に内政に取り組んでいた。

 国全体(といっても今は街一つと周辺の町村のみだが)の方針と意思決定は、君主(・・)であるマリウスと、その補佐役として正式に軍師に任命されたヴィオレッタの仕事だ。

 発足したてで人手の足りない状況だ。勿論決定するだけでなく、自分達も直接政務に携わった。

 特にヴィオレッタは軍師として周辺勢力の動向調査や情報網の確立、将来的に打って出る際の戦略の考案、そして外交まで担当しており、エロイーズに負けない忙しさであった。


 そして武官のアーデルハイドとソニアはというと、彼女らの主な仕事は兵の調練と治安維持活動であった。また城壁や各地の砦の補修・建設も彼女らの仕事だ。

 どれも重要な仕事だが、特に今の状況では治安の回復と維持が急務である。賊がのさばり犯罪が横行する荒れた街に住みたいとは誰も思わない。逆に折角入ってきた住民がどんどん逃げていってしまう。そんな状況ではどれだけ産業の振興しようとしても意味がない。

 まずはマリウス軍がきちんと犯罪を取り締まり、民の生活と安全を守れる、頼れる勢力だという事を知って貰わねばならない。

 ソニアは主に彼女の私兵となった荒くれ者達を率いて、ディムロス街中の巡察を担当していた。難民の起こす犯罪や、元の住人と移民難民の間で起こるトラブル等の取り締まりも彼女の役目だ。

 アーデルハイドの方は主に衛兵隊を率いて街の外……つまりは県内の街道や町村等の巡回任務を担当している。

 街道宿や旅人、行商人を狙う追い剥ぎの類いや、村や田畑を狙う山賊の類いに目を光らせるのが仕事だ。何事もなくとも、衛兵を率いて巡回を行っているだけで抑止効果がある。

 マリウスの采配の元、同志達はそれぞれの分野で遺憾なく能力を発揮し、ディムロスは急速に発展の兆しを見せ始めていた。

 これが今のマリウス達を取り巻く現状であった。




 そんな状況下、アーデルハイドは特に荒れた区画を中心に巡回任務を行っていた。

「この辺りも酷い有様だな……。一刻も早くこのような場所を無くしていかねばな」

 アーデルハイドと彼女が率いる部隊は、度重なる徴兵と重税によって住民が打ち捨ててしまった廃村のある辺りまで来ていた。しかも一時期盗賊団の根城になっていた時期もあるらしく、荒廃の極みであった。

 元は街に作物を供給する農村の一つであったようだが、村は勿論田畑も荒れ果てて見る影もない。こうした場所の治安を回復させ、再び農地として機能できるように立て直していくのも彼女らの役目だ。

 徐々に近付いてくる廃村の無残な有様を眺めながら、アーデルハイドは使命感を新たにしていた。

 その時!


 ――……ぁぁぁっ!!


「……!」
 廃村の方角から風に乗って聞こえてきた微かな音……

 アーデルハイドの優れた感覚は、それが人の……それも女性の悲鳴(・・・・・)である事を聞き分けた。

「何事だ!? あの村跡からか!」
「あ、隊長!?」

 アーデルハイドは咄嗟に馬の腹を蹴って駆け出していた。麾下の衛兵たちは呆気にとられている。彼等は徒歩なので自分単独で突出する事になるが、今の悲鳴は切羽詰まった様子であった。歩兵に合わせている猶予はないと判断した。

 弓矢を手に愛馬を駆って廃村に突入したアーデルハイド。すぐに広場と思しき場所に到達する。そこで彼女が見た光景は……


「――ッ!?」

 傷だらけの年端も行かない少女が、武器を持った黒ずくめの男に襲われている場面であった。男は顔の下半分も黒い覆面で覆っており、見るからに剣呑な風体であった。

 少女の方も軽鎧姿で意外にも小剣を手に抵抗しているようだったが、男との腕の差は歴然で容易く剣を弾かれてしまう。

 金属音と共に少女の手からはね飛んだ剣が地面に落ちる。これで少女は丸腰だ。

 身を護る手段すら失った少女の顔が青ざめ、泣きそうに歪められる。しかし黒ずくめの男は一切の容赦なく少女に向けて、やはり黒塗りの刀のような武器を突き出そうとする。

「っ!!」


 ――その瞬間アーデルハイドの脳裏をよぎったのは、故郷の村でドラメレクによって容赦なく刺殺された妹の姿であった。


 目の前の少女と妹の姿が重なる。


「や、やめろぉぉぉぉぉっ!!」


 彼女は何か考えるよりも早く、男に向かって矢を射掛けていた。

「むっ……?」

 放たれた鋭い矢はしかし、男が武器を振るうとアッサリ弾かれた。だが問題ない。少女への攻撃を中断させ、男の注意をこちらに向けられればそれで充分だ。

 アーデルハイドは素早く馬から飛び降りると剣を抜いて、男に斬り掛かった。

「怪しい賊め! 我が剣を受けてみよっ!」

 誰何(すいか)などする必要もない。相手は怪しい風体で年若い少女を殺そうとするような男だ。間違いなく男が悪人だ。問答無用で剣を振り下ろす。だが……

「ふ……」

 男はアーデルハイドの斬撃を軽々といなした。

「何っ!?」

 その辺の賊程度なら一撃で仕留められる自信があった彼女は、本気で斬り掛かったにも関わらずあっさりと防がれた事に動揺する。

 その動揺の隙を突いて男が反撃してきた。気付いた時には男に間合いを詰められていた。反応する間もなかった。

(ドラメレクよりも速い――!?)

 その事実にゾッとした。明らかに只の賊ではあり得ない。こんな辺鄙な場所で、こんな達人級の相手と戦う事になろうとは……!

 彼女に出来た事は、咄嗟に剣を立てて身を護る事だけであった。

「く……うわぁっ!?」

 男の剣閃は殆ど彼女には視認できない速さだった。次の瞬間剣に物凄い衝撃が加わり、防いだ剣ごと大きく後方に弾き飛ばされ、たたらを踏んだ。

 体勢を立て直す間もなく男が追撃してくる。

「くぅ……!」
 瞬く間に防戦一方となるアーデルハイド。いや、防戦(それ)すら危うい状況だ。

 男の刃が閃く度に、彼女の真紅の鎧に傷が入り、鎧に守られていない部分が斬り裂かれ鮮血が舞う。辛うじて致命傷を防ぐので精一杯だ。

「うっ!?」

 だがそれもここまでだった。男の剣撃に押されて後退を続けていた彼女の背中が、廃屋の壁にぶつかる。これ以上下がれず、もう逃げ場がない。男が容赦なく刃を振りかぶる。

「……っ!」
 思わず目を瞑ってしまうアーデルハイド。だがそこに……


「隊長!? 隊長を守れっ!」

 遅ればせながら到着した部下の兵士達が槍や剣を手に殺到してきた。

「ちっ……」

 男が舌打ちした。そしてアーデルハイドから離れると素早く身を翻し、まるで飛び跳ねるかの如き挙動で、あっという間に廃屋の向こうに消えていった。

 咄嗟の判断力といい、その驚異的な身のこなしといい、やはりただの賊ではない。


「はぁ! はぁ! はぁ! ……た、助かったの、か?」

 凄まじいプレッシャーと命の危機から解放されたアーデルハイドは、荒い息を吐きながら思わずその場に片膝を着いてしまう。

「隊長、大丈夫ですか!? 賊を逃がすな! 追えっ!」

 兵士達が駆け寄ってくる。

「あ、ああ、お陰で助かったぞ。賊は追わなくていい。恐らく無駄だ」

 あの身のこなしからして捕捉は困難だろう。仮に追いついたとしても中途半端な戦力では返り討ちに遭うだけだ。

「……それよりその少女を保護しろ! 無事か!?」

 命令しつつ、自らも少女に駆け寄る。

 少女は気絶して倒れていた。どうやら助かった安心で緊張の糸が切れてしまい、気を失ってしまったようだ。

 身体を改めると、あちこち負傷はしていたが幸い大きな怪我は負っていないようだった。だが顔も髪も、衣装もボロボロで、かなり過酷な旅をしていたらしい事が窺えた。気を失ったのは体力と気力の消耗も影響しているようだ。

「大分消耗しているな……。このような少女が一体どんな事情で……」

 見た所ハイランド人のようだが、あのような手練れの刺客に追われていた事といい、何かやんごとなき訳がありそうだ。だが同時にアーデルハイドはこの少女を見て気付いた事があった。


(この少女……似ている)


 どことなくだが、彼女の死に別れた妹に似ているのだ。年の頃は15、6といった所か。もし妹が生きていれば丁度同じくらいの年齢だったはずだ。

 勿論妹は幼くして死んだので、成長していれば顔も変わっていただろうが、それを解っていても何となく面影があるように感じるのだ。もし妹が生きて成長していたらこんな顔になったのではないか、そう感じる面立ちであった。

「……とりあえず今日の巡回は中止だ。この少女には治療と休養、そして栄養が必要だ。街へ戻るぞ!」

 どの道、あの手練れの刺客の事もマリウスに報告せねばならない。部下達に指示して少女を保護したアーデルハイドは、一路ディムロスへと戻るのであった。
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