第三十五幕 不倶戴天(Ⅰ) ~悪鬼の王国

文字数 6,522文字

 その日、マリウス軍全体にとって驚愕の報せが届いた。切欠は1人の人物の来訪であった。

「息女!? それもムシナ伯の?」

「は、はい。本人はそう名乗っているのですが……」

 ディムロスの宮城。マリウスの執務室。現在はハルファルの街に出張しているヴィオレッタに代わってマリウスの補佐に就いているのは、ギエルから呼び戻されたエロイーズであった。

 マリウスの窮状を聞いて即ギエルから戻ってきた彼女は、右腕を失った彼の姿を見て卒倒してしまった。そのまま寝室に担ぎ込まれた彼女は、翌日には己を取り戻してヴィオレッタから詳しい事情を聞くと、マリウスを支え続ける事を彼の前で誓ったのであった。


 やや困り顔で報告するエロイーズに、マリウスは首を傾げた。

「ムシナ伯の息女が何の用で……。来訪があるって話聞いてた? というか本当に本人なのかな?」

「わざわざ騙るには微妙な身分ですし本物と見て良いかと」

 ムシナは帝国最南端の街で、それより南は蛮族達が互いに争うアマゾナスの湿地や樹海が広がるばかりの辺境都市だ。かつてマリウスもギュスタヴとの戦いの後、あの街で療養した事があった。

 セルビア郡とも直接隣接していないので、明確に敵対もしていない。確かにわざわざそんな街の太守の息女を騙る理由はないだろう。

「用件はとにかくマリウス様ご本人に話すの一点張りで……。供の兵士達も含めて皆かなりの強行軍でボロボロという有様でした。随分急ぎの要件のようですが、果たしてお通ししても良い物やら……」

 溜息を吐く。今のマリウスには敵が多い。以前までならともかく今の利き腕を失った彼に、余り怪しい者達の前に出て欲しくないという思いがエロイーズにはあった。

 だがマリウスはしばらく考え込んだ後に顔を上げて頷いた。

「……よし、いいよ。会ってみよう」

「よ、宜しいのですか? 万が一暗殺などを企んでいたら……」

 不安そうな様子になるエロイーズに、マリウスは苦笑しながら頷いた。

「勿論一切油断はしないと約束するよ。腕は失ったけど自分の身を守るくらいは出来るさ」

「……! 了解しました。でも……くれぐれもお気を付け下さい」

 余り労わり過ぎるのも彼に失礼だと自戒したエロイーズは、渋々といった感じで認めた。しかしそれでも念を押す事だけは忘れない。マリウスは再び頷く。

「解ってるさ。それじゃすぐに手配してくれるかな?」



*****



 謁見の間。壇上の上座にある豪華な椅子に腰かけたマリウス。彼の脇にはエロイーズが控えている。彼等の見下ろす先には、1人の若い女性が佇んでいた。年齢的には20には届いていない、10代後半ほどのようだ。意外にも女性用の優美な鎧姿であった。剣も帯びていたらしいが、当然宮城に入るに当たって預けられている。

 しかしエロイーズの報告通り強行軍の後らしいかなりくたびれた様子となっていた。だが女性はそんな強行軍の疲れなど微塵も感じさせない強い視線をマリウスに向けていた。

 しかし女性はその直後、露骨に馬鹿にしたように鼻を鳴らした。


「……あなたがディムロス伯、いえ、セルビア公のマリウス? 剛勇無双の英傑と聞いていたのだけれど……随分線の細い優男だこと。しかも、隻腕(・・)ですって? はぁ……噂とは当てにならない物ですわね。到底奴等(・・)に対抗できるような人物には見えませんわ。遥々ここまでやって来たというのにとんだ無駄足でしたわ」


「な――――」

 開口一番の余りにも無礼極まる態度にエロイーズが柳眉を逆立てる。謁見の間にいる他の廷臣達は一様に唖然とした表情になっている。

「何の約束もなく押し掛けてきておいて、それでも尚謁見を承諾して下さったマリウス公に対して、な、何という無礼千万な……! 控えなさいっ!!」

 鋭い一喝。マリウス軍に所属する者であれば誰でも思わず肩を縮込めてしまう迫力に、しかし女性は傲岸に胸を張って怯む様子も見せない。

「……私はそのマリウス公と話しているのですわ。関係ない三下(・・)は引っ込んでいなさいっ!」

 その言葉に廷臣達は今度はギョッとしたような視線を女性とエロイーズの交互に向ける。廷臣達の面前で面と向かって扱き下ろされたエロイーズの顔が朱に染まる。

「こ、この――」

「――エロイーズ。僕に彼女と話をさせてくれないかな?」

「……っ!」

 思わず激昂して声を荒げそうになったエロイーズだが、それに冷水を浴びせるような静かな声に硬直した。

「あ……も、申し訳ありませんでした。出過ぎた真似を……」

 我に返った彼女は恥じ入ったような、バツの悪そうな表情になって一歩下がる。それを確認してマリウスは女性に向き直る。


「……さて、それじゃ改めて。確かに僕がセルビア公のマリウス・シン・ノールズだよ。隻腕に関してはちょっと訳ありでね。出来れば追及しないでもらえると助かる。わざわざ僕を罵倒する為にここまで来た訳じゃないんだろう? 君の話を是非聞かせてくれないかな?」

 君主によっては女性の最初の態度はその場で追い出されたり、最悪手討ちにされる危険性さえあった。だがマリウスは全く平然と女性の悪罵を受け流していた。優しさや優柔不断さによる物ではない。女性の態度が虚勢(・・)である事を即座に見抜いていたからだ。

 女性が意外そうに目を瞬かせると、その表情や緊張が少しだけ緩んだように見えた。彼女は正式な貴人の礼を取った。

「……なるほど。相応の器はあるようですわね。……無礼な態度、誠に失礼致しましたわ。私はムシナ伯ヨーアキム・ペール・ブローマンの娘、アナベル・ブローマン。あなたが本当に奴等と戦える器を持った人物なのか確かめる必要があったのです」

「先程も口にしていたね。奴等、とは……?」

 マリウスの問いに女性――アナベルの目に暗い炎が宿る。


「……ガレス・ヴァル・デュライトという名に聞き覚えは?」


「っ!?」
 この国において悪名高い名にエロイーズが驚愕した。思わずマリウスの方を見つめる。彼は静かに目を細める。

「なぜ君がその名を……?」


「……結論から言いますわ。我が父ヨーアキムはあの男、ガレスに殺されました。そしてあの悪魔のような男は私達の国ごと奪い取ったのです!」


「……!」
 今度はエロイーズだけでなくマリウスも驚きに目を見開いた。アナベルは忌まわしい記憶を思い出しているらしく、その身体や声が震える。

「奴は恐ろしく腕が立つ男で、仕官して瞬く間に頭角を現し父に気に入られました。事実今まで父が攻めあぐねていたグレモリーの街を、あの男は容易く制圧してのけたのです」

 ヴィオレッタやファティマからもたらされる最新の情報では、ムシナ伯ヨーアキムはムシナと隣接県のキュバエナの2県を領有していたはずであった。グレモリーまで攻め落としていたのは初耳である。恐らく直近の出来事なのだと思われる。

 ムシナ、キュバエナ、グレモリーの3県でスロベニア郡という帝国最南端の郡を形成している。その3県を領有したヨーアキムは『スロベニア公』の称号を得る事になっていたはずだ。しかし……

「私は最初からあの男が信用できませんでした。あれは誰かに仕えるような男ではない……。そう何度も訴えましたが、刺史就任に浮かれた父は聞く耳を持ちませんでしたわ。そして……案の定ガレスは『同志』だという触れ込みで推挙させていた自分の仲間達と共に、父に反旗を翻したのです……!」

 『同志』とは間違いなくミハエルやドラメレク達の事だろう。最初から簒奪目的でヨーアキムに仕官したのだ。



 この中原では新たに勢力を興す手段として2つの方法があり、1つは勿論『旗揚げ』だ。マリウス達がやったように私兵や同志を集めて、どこか既存の勢力に戦いを挑んで都市を奪い取り実効支配するのだ。

 そしてもう1つが『簒奪』である。これも正にガレス達がやったように、既存の勢力に仕えてから君主に対して反乱を起こして勢力を乗っ取るというやり方だ。

 『旗揚げ』も決して楽ではないが、『簒奪』はより難易度が高い。周到な準備が必要になる上、露見すればその時点で終わりだ。イメージも良くないから賛同者も得られにくく、計画を実行できるような戦力を整えるまでに何年も掛かってしまうケースも珍しくない。

 それで成功すればまだ良いが、実際には時間が経てば経つほどどこからか計画が漏れる確率も上がっていく。結果何年も周到に準備した簒奪計画が一瞬で水の泡と消えて自身も処刑される、というケースが殆どだ。『簒奪』は割に合わない、というのが中原での共通認識であった。



「確かにガレスの強さは驚異的だけど、それでもこの短期間で仮にも3県を有する君主相手に『簒奪』を成功させたというのは、俄かには信じられないけど……?」

 ガレスの強さならヨーアキムの暗殺自体は機会さえあればそう難しい事ではないだろうが、それでは後が続かない。元々のヨーアキムの部下達の叛乱を招くのは必至だし、勢力を維持していく事は到底不可能だろう。そうなれば後は自滅していくだけだ。『簒奪』の準備に時間が掛かるのには相応の理由があるのだ。

 だがマリウスの冷静な指摘にアナベルは悲し気にかぶりを振った。

「ガレスだけではありません。悪魔はもう1人いたのです。奴の仲間にミハエルという男がいました。一体どのような手段を使ったのか、どのような甘言を用いたのか……。父の元々の主だった配下達は全員が既にあのミハエルによって篭絡され、懐柔されていたのです」

「……っ! ミハエル……!」

 横で話を聞いているエロイーズが青ざめた顔で身体を震わせる。かつてミハエルを失脚させるに当たっては彼女も深く関与した。間違いなくミハエルが恨んでいる人物の中に彼女も入っているはずで、それを思うと心中穏やかではいられないようだ。

「こうなってはもう父など裸の王様です。父はせめて私を逃がすべくガレス達に戦いを挑み……母ともども奴に殺されました」

「…………」

「私は僅かな手勢と共に城を脱出しました。ガレスは……奴等は逃げる私を追わなかった! ただ虫けらが一匹逃げるかの如く笑って放置したのです! 両親の血にまみれた姿で、逃げる私を嘲笑っていたのです!」

 その時の光景を思い出したのか、次第にアナベルの声の調子が激していく。彼女は涙をにじませた目でマリウスを見上げた。

「私は奴等が憎い! でも私1人では何も出来ない! 簒奪の際、奴等の会話に何度もあなたの名前が出てきました。あなたは奴等と不倶戴天の敵同士なのでしょう!? 私は奴等に復讐したいのです! お願いします! どうか私に力をお貸し下さいっ!」

 なりふり構わなくなったアナベルは、床に這いつくばらんばかりの体勢でマリウスに助力を乞う。

「マ、マリウス様……」

 その鬼気迫る様子に圧倒されたらしいエロイーズは、どうしていいか解らないようにオロオロとマリウスとアナベルを見比べていた。マリウスは嘆息した。

「……彼等から徒に敵対してこなければ、敢えてこちらから進んで戦う気はなかったけど、どうもそう言っていられない状況のようだね」

「……! そ、それでは!?」

 ガバッ! という感じに顔を上げたアナベル。その目には期待の感情が浮かんでいた。しかしマリウスは釘を刺しておくのを忘れない。

「ただし! これはもう国と国、勢力同士の戦いだ。それも互いに郡を領有する大勢力だ。個人の感情だけで一直線にガレスの元まで突撃して討つ、という訳には行かない。戦争になるんだ。相応の準備が必要になる。そして恐らく決着も1回の戦で着くようなものではなくなる」

「……はい、勿論承知しておりますわ……」

「そして……僕達に復讐の手伝い(・・・)を求めるからには、君からも僕達に対価となるものを提供してもらう。これは慈善事業ではないからね」

「……ッ! そ、それは……でも私、何も持ち出す事さえ出来なくて……財布に入っている500ジューロ程度しか持ち合わせが……」

 アナベルは一転して泣きそうな表情になって青ざめる。

「あ、あの、マリウス様……」

 エロイーズが何か言い掛けるが、マリウスは無言で左手を上げて制する。視線はアナベルに固定したままだ。

「君は鎧を纏っているね? この宮城に入るまでは剣も帯びていたとか? 武芸の心得があるのかい?」

「……え? あ……は、はい……。昔から外で身体を使って遊び回る方が好きで……。父に頼んで街にある剣術道場に通わせてもらっていたのです」

「ほう、道場に……。流派は?」

「ベ、ベカルタ流聖剣術です……」

 アーデルハイドと同じだ。ベカルタ流は女性にも門戸を開いており実戦的な訓練を施してくれる。であるならその剣術は伊達という訳ではないだろう。マリウスはニッコリと微笑んだ。

「そういう事なら話は簡単だ。君にはこれから我が軍の将として加わってもらう。そうして共にガレス軍と戦うんだ。それが君の支払う対価だ」

「……! わ、私が、この軍に……?」

「そう。この条件が呑めるなら、僕達もガレス軍との戦いに死力を尽くす事を約束するよ。どうかな?」

 どの道ガレス達とは必ず雌雄を決さなくてはならないだろうが、それには触れずに敢えて交換条件のような形に持っていく。ヴィオレッタからマリウス軍の今後の人材確保についての問題提示を受けていた事もあって、自軍の将となり得る人材を確保する絶好の機会を逃す手はない。太守の娘という事なら政務にも通じているかも知れない。


「……わ、解りましたわ。どの道私には他に行く当てもありませんし、それで両親の仇が討てるなら喜んで参加させて頂きますわ」


 果たしてアナベルは条件を了承した。マリウスは満足げに頷いた。

「よし! 契約成立だ。安心して欲しい。奴等を野放しにする事は絶対にしない。必ずやガレスを討ち取って君の両親の仇を討ってみせるよ」

「ありがとうございます、マリウス様」

 深々と頭を下げるアナベル。

「さて、それじゃ今からは臣下として扱わせてもらうよ? 今後の働きに期待しているよ、アナベル」

「……っ。は、はい。全力を尽くします」

 アナベルは一瞬表情を歪めたが、すぐに唇を噛んで堪えた。もう君主の娘として安楽に暮らす日々には戻れない。これからは1人の将として、自分の価値を証明して居場所を勝ち取って行かなくてはならないのだ。
 廷臣に案内されて謁見の間を退室していくアナベルを見送って、マリウスは一息吐いた。



「ふぅ……やれやれ。来るとは思っていたけど、予想より更に早かったな。これはヴィオレッタも呼び戻して早急に対策を立てないといけないね。アナベルとの約束もあるし。すぐに会議の手配を頼めるかな?」

「…………」

 自分に向かって話しかけるマリウスの姿をエロイーズは呆然と眺めていた。今の一幕に彼女に口を挟む余地は皆無だった。というより何も有効な手立てが浮かばず助言も出来なかった。ヴィオレッタから自分が不在の間の、マリウスの補佐を頼まれていたにも関わらず。

 彼は独りで見事な裁定を見せ、新たな人材まで確保してしまった。

(……マリウス様は君主として着実に成長なされている。もう、少なくとも私の助言など全く必要としない程に……)

「……エロイーズ?」

「っ! あ、は、はい! で、ではすぐにヴィオレッタ様に使いを出しますね!?」

 マリウスに声を掛けられた我に返ったエロイーズが慌てて動き出そうとすると、謁見の間に伝令が入ってきた。


 何とたった今呼び戻そうとしていたヴィオレッタが、ハルファルより急遽帰還したというのだ。ガレス達の動向について重大な話があるとの事だった。


 どうやら軍師としての情報網で独自にガレス達の簒奪について知ったようだ。それで慌ててハルファルを飛び出してきたのだろう。

「ははは! 流石はヴィオレッタだ! 呼び戻す手間が省けちゃったよ。全く頼りになる軍師だよ、彼女は。それじゃエロイーズ、すぐに僕の執務室に来てもらうようにヴィオレッタに伝えてきてくれるかな? 勿論君も一緒にね」

「は、はい……承りました」

 機嫌のよさそうなマリウスの様子に複雑な表情を浮かべながらも、エロイーズは言われた通りにヴィオレッタを呼びに謁見の間を退室していった。
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