3. あやかしの沼

文字数 2,644文字

 ラキアは何かぶつぶつ言いながら、虚空(こくう)に文字を描くように指先を動かし、それから両手を組み合わせて(いん)(むす)んだ。

 光の玉が、ランプに火を(とも)したようにパッと生まれた。ラキアの胸の前に。

 次ぎの瞬間、レイサーもアベルも、そしてラキアでさえもゾッとした。 

 (あか)りで分かったリマールは、真顔(まがお)だ。

 だが、その首回りにいた何か悪いものは、うっとおしそうな顔をして、とりあえずは消え去ってくれた。

 これで解決(かいけつ)・・・と思いきや。

「あ・・・ああ・・・。」

 今度はアベルがおかしい・・・!

 アベルは変な悲鳴をもらして立ち上がり、後ずさりしたかと思うと、くるりと背中を返して駆け出したのである。

「今度はこっちか・・・!」
 レイサーは(あわ)てて追いかけた。

 一方、正気(しょうき)を取り戻したリマールだが、とたんに地面に両手をついて、()きそうなほど(はげ)しく()きこみだした。

 アベルは森の小道を闇雲(やみくも)に突っ走っていく。

 灯りも無くほとんど真っ暗なのに、アベルにははっきりと見えているものがあった。
 牙を()きだした大蛇(だいじゃ)のようなもの。甲冑(かっちゅう)を着たガイコツ。恐ろしくて気味(きみ)の悪いものたちが次々と現れては宙を舞い、前から横から(おそ)ってくる。だがそれは、ラキアに見えているものとは全く違った。ラキアが見たのは、こんな説明のつく幻影(げんえい)ではない。

 レイサーがとにかくアベルを追いかけていると、前方に木が生えていない場所が見えてきた。(かろ)うじて分かった。周りの木々は、そこを縁取(ふちど)るように立ち並んでいる。その形は楕円(だえん)・・・しまった!

 そうか、鉛色(なまりいろ)(ぬま)

 レイサーは、声にせずとも(さけ)ばずにはいられなかった。
 非現実的だったので結局あまり気に()まらなかったが、ここは話に聞いていた例の危険区域だ!

「アベル、止まれ!沼に突っ込む気か!」

 幸い、レイサーの方が遥かに身体能力が優れていたおかげで、風のように追いつくことができた。後ろから上着につかみかかりながら、もう片腕を回してぐいと腰を引き寄せ思いきり横へ。

 倒されても、アベルはこの世の終わりを見たかのようにひいひい悲鳴を上げている。右に左に首を振り、立ち上がってまだ逃げようとするので、レイサーは馬乗りになった。

 そこへ足音が聞こえて、レイサーが振り向くと、追いかけてきたラキアの姿が見えた。
 
 ところが何事か、突然けたたましい悲鳴を上げたラキアは、両手で顔を(おお)ってしゃがみ込んでしまった。

 ラキアも沼の存在に気づいたのだ。なにしろ、少女の目には〝あやかし〟と言われる、その全てが実際に見えていた。

 沼の上に、また何か分からない恐ろしいものがうようよと(うごめ)いている。目や口のようなものはあるのに人の顔をしていない、動物でもない、見たこともない気味の悪いもの。きっとあの水の中にはもっといる。近寄(ちかよ)りたくない。

「ラキア!」

 レイサーが叫んでいる。

 一人気を確かに保っているレイサーだが、どうしようもなく(あせ)り、(あわ)てた。

「おい、ラキア、しっかりしてくれ!」

 ダメだ、こっちを見ようとしない。

「頼む、助けてくれ! ラキア!」 

 その時、ようやく気づいた。

松明(たいまつ)(とも)せば悪いものは近づいて来ない・・・ 〟

 そうだ・・・!

「ラキア、火、火だ! 火を出してくれ! 関所でやったアレを!」

 ラキアがやっと(こた)えた。一向に顔は(そむ)けたままだが、必死で恐怖に打ち勝ち、泣きながらでも腕を動かして、印を結びながらまたぶつぶつと呪文なるものを口にし始めたのである。

 松明の炎のようなものだけが、宙にいくつも現れた。それが三人を囲うように、等間隔(とうかんかく)の位置について燃えている。レイサーにしてみれば、それもまた奇妙で不気味な光景だ。

 アベルが、やっと(あば)れるのをやめた。

「大丈夫か。」

 アベルはハアハア息を乱して目を閉じたままだが、確かに二度うなずいた。

「ラキア、大丈夫か。」

 レイサーは一人、あっちもこっちも気遣(きづか)わなければならない。

 ラキアは幼い子のように、うずくまったまま声を上げて泣いている。しかも震えて、自分の両腕をしきりにさすっている。

 気分が良くなったと思ったのは、単に体が慣れただけだった。だがまた、この大きな衝撃(しょうげき)のせいで体内バランスが急激(きゅうげき)に崩れだした。悪寒(おかん)がひどくなり、吐き気とまではいかなくても、胃がムカムカする。でも一番はやっぱり、何より怖い・・・!

 それを見たレイサーも、仕方がなかったとはいえ後悔(こうかい)した。霊を見ることができるという霊能力者。ラキアに起こった異変は、きっとその能力ゆえの、あやかしに対する拒絶反応(きょぜつはんのう)。ラキアの体は、例の沼を通りかかっていることを知らせてくれていた。なのに、離れるどころか近くにとどまってしまった。完全に判断(はんだん)ミスだ。

 そうすると、悪さをしたり近寄ってこなくなっただけで、まだ周りに何かいるのか。レイサーは沼の方を見て、それからラキアを真正面から抱きしめに行った。
「何か怖いものが見えているなら、このまま、ここを離れよう。」 

 そこへリマールが歩いてきた。手には即席(そくせき)松明(たいまつ)を持っている。リマールも執事(しつじ)の話を思い出したようだ。

「リマール、アベルを(たの)む。」

 レイサーに言われて、リマールは背中だけを起こしたアベルのそばへ寄った。

 間もなく、それぞれ立ち上がった。まだ動揺(どうよう)している様子のアベルをリマールが、ラキアをレイサーが支えながら道を戻り始めた。

 彼らは(すみ)やかに荷物をまとめ、大急ぎで馬たちに(くら)をつけた。一刻(いっこく)も早く、ここから脱出したい。こんな実在する呪われた世界から。

「さあ、今すぐ場所を変えよう。」
 アベルとリマールにそう言うと、レイサーはほとんど抱き上げてラキアを馬に乗せた。

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登場人物紹介

アベル(アベルディン)。15歳の主人公。難病の治療のため、1歳の時にイルマ山に住む賢者のもとに預けられたウィンダー王国の王子。神秘の山で育ったため、風の声が聞けるという特殊能力を持つ。弓の名手。

リマール。イルマ山に住む賢者(名医)のもとで勉強している見習いの薬剤師。そのおかげで、とある難病の薬を作ることができる数少ない薬剤師のうちの一人。薬草に詳しい17歳。

レイサー。王族とも親しいベレスフォード家の末っ子。4人の男兄弟の中で、一人だけ騎士の叙任を辞退した屈強のさすらい戦士。そのため、実家のカルヴァン城を出て、イルマ山の麓にある(中途半端な)ツリーハウスを住居としている。

ラキア。ローウェン村の見習い精霊使い。5歳児と変わらない言動ばかりする13歳の少女。

アレンディル。アベルの兄。希少な薬でしか治す可能性がないと言われる難病にかかり、余命一年と宣告された若き王。

ルファイアス。ベレスフォード家の長男。先代王ラトゥータスと、現国王アレンディルの近衛兵。英雄騎士。

ラルティス。ベレスフォード家の次男。南の国境警備隊の総司令官。

エドリック。ベレスフォード家の三男。正規軍の隊長。

アヴェレーゼ。ベレスフォード家の長女。王の近衛兵の一人と結婚した若奥様。

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