11. 御者の男
文字数 4,651文字
目覚めた時、アベルは少し呆然 とした。現実に立ち返るまで、蔦模様 が薄く描かれている天井を見つめていた。昨日、何があったっけ・・・と、思い出してみる。そうだ、捕えられて、逃げて、気を休められずに何時間も過ごした。ここは安全だ・・・でも、行かないと。
アベルは気持ちの良いベッドから下りて、大河に面している窓辺に立った。そしてそこから、早朝の赤味を帯 びた光に照らされて、輝いている景色を眺めた。最初に、大橋を見下ろす。もう橋を渡っている人が多くいる。馬に乗った人と歩いている人。荷物をたくさん積んだ馬車が一番目についた。
これから僕も、あの橋を渡ってやっと先へ進める・・・また危険な旅路 へだけど。そう思い、アベルは、今度は向こう岸に目を向ける。そこには、丘陵 地帯を突き抜けるように堂々と東へ延びている、整備された広い大街道が。その街道沿いに、灰色の屋根が集まる町が一つ。ほかの細い道は、丘を上ったり下ったり、その合間 を縫 ったりして通っている。丘陵地帯の大部分を占めている緑の丘には、牛や馬といった家畜 が点々と見える。樹木が集まっている場所もまばらにあるが、今日目指すのは、王都のそばまで続いているという広大な森。正確には、その中に佇 むイスタリア城だ。視界には入っているものの、そこはまだ遥か遠くにあるような気がした。
不意に、ノックの音が響いた。
返事をすると、入ってきたのはリマールだった。
「おはよう。よく眠れた?」
「うん、たぶん時間をまったく無駄にせずにね。数秒で寝ちゃったよ。」
リマールは、それは良かった、という顔で微笑んだ。
「レイサーはもう食堂に下りてるよ。ラキアはまだだけど、ノックをしても出て来ない。」
「部屋の前を通る時に、もう一度呼んでみよう。」
二人は、二度寝、三度寝をして、まだ寝ぼけている感じのラキアを食堂へ連れて行った。
「おはようございます。」
そう執事のような笑顔で挨拶をしてくれたのは、衛兵長 のイシルドだった。関守 マルクスの姿は見当たらない。橋にはたくさんの通行人がいたので、朝早くからいろいろと求められることもあるだろう。忙 しい人なんだな・・・と思い、アベルは特に気にしなかったが、イシルドはそこで意外な説明をした。
「実は、あのあと市長のご親族に不幸があったとの連絡が入り、マルクス様は明け方、再び急遽 出かけられました。ですから、お見送りは、申し訳ございませんが私一人で。馬車はもう一台ありますし、皆さまの準備が整った頃には、代わりの御者 がもう外で待っているはずです。」
レイサーは、もうその訳を聞いた様子で食卓の席についていた。
ほかの仲間たちも案内されて椅子に座った。そして、お偉 い方々に普通に出されるのと同じような朝食を食べ、食後くつろぎもせずに、すぐ出発の準備を整えた。
館の玄関を出ると馬車が停車していて、衛兵が一人と、確かに御者が待っていた。
ところが、どうしたのか不可解そうな顔をしたイシルドは、「少々、お待ちください。」と言って、その衛兵と御者を連れて離れていったのである。
だがしばらくして戻ってきた時には、また笑顔になっていた。
「何か問題でも?」
レイサーがきいた。
「いえ。念のために護衛をお付けしましょう。」
「いや・・・馬車に衛兵がついて行ったら目立つし、そうだと教えるようなものだ。」
レイサーは御者に、大街道を避けた道を行くよう頼んだ。御者の男は、お安い御用と請け合ってくれた。その周辺の道はよく知っているらしい。
旅人たちは馬車に乗り込んだ。屋根になる幌 は折り畳み式で、この時は下ろされていたので開放的 に見えたが、代わりに囲いが高かった。高身長のレイサー以外は、頭がちょっと出るだけか、完全に隠れる。顔を見られないということでは叶 っているが、のどかな牧場の風景を眺めることもできない。
「空は楽しめるね。」と、ラキアが言った。
アベルは上空を仰 いだ。今はもう、ムラ一つない、見事に真 っ青 な快晴 の空が広がっている。たぶん、今日はずっと、この澄み切った綺麗な青空が続くと思うけど・・・。
一行は、馬に乗って誘導 してくれるイシルドと、その部下と一緒に、まずは大橋の入口にたどりついた。そこで馬から下りたイシルドは、この日の番人たちと直接何か話をし、すぐに顔を向けてきて、微笑みながら手招 きだした。
それに従 い、御者はゆっくりと馬車を大橋へと進めた。
「お気をつけて。」
イシルドがそう敬礼したのに倣 って、関所の番人たちも同じ姿勢をとった。
正体は隠したままのはずだけど、いったい自分たちは何者になったのだろう・・・。アベルは考えながらイシルドにお礼を述べ、「行ってきます。」と、自分もお返しに頭を下げた。
そうして彼らは、イシルドと衛兵たちに見送られて、橋を渡って行った。
大河の上を行くこの時は、アベルもラキアも立ち上がらずにはいられなかった。朝日を浴びて輝く視界いっぱいの川面 を、高い位置から見下ろす感じ。ここじゃないと味わえない! と思って。
向こう岸に着くと、馬車は間もなく脇道 に入った。再び大街道を避けながら行く。
起伏 の多い道を、馬車は安定した速度で進み続けている。引いてくれる馬は、とても体力があって元気だ。
ラキアは座席に膝 をついて後ろを向き、堂々と顔を出して目をきらきらさせている。時々、放牧してある牛の群れや、牧場の馬を指差してはしゃいでいる。アベルとリマールも、首を伸ばして目だけをたまに外へ向け、少しだけ丘の景色を観賞 した。そよ風が運んでくる青臭 い匂 いをくんくんと嗅 いでみる。思わず危険を忘れそうになる、そんな穏やかな旅に身を委 ねた。
レイサーだけが、いつもの愛想のない顔で・・・いつもより険しい気もするけれど・・・腕を組んだままじっとしている。
別れ道にさしかかった。また馬車が微妙 に進路を変えたようだ。
すると、これまで一人動かなかったレイサーが立ち上がった。かと思うと、彼はいきなり剣を抜いて、白刃 を御者の男に見せつけたのだ。
「おい、あんた・・・俺たちをどこへ連れて行こうとしている。」
アベルもリマールもハッと息を止め、驚いて目を向けた。
「突然どうなされました。イスタリア城と申しつけられておりますから、勿論 そこへ・・・」
「この道は、そこへは行けない。」
御者の表情が固まった。驚き焦 ったような目でレイサーを見つめたまま、言葉を失っている。
「俺はさすらい戦士で、ちょっとした貴族の出だ。この道は知っている。イスタリア城もな。俺たちを仲間のところへ連れて行く気か。」
実は、密かに不安を覚えていたレイサー。彼は、イシルドがこの御者とそばを離れた時から、ずっと警戒していた。
すると男は、いきなり御者台 から飛び降りて、道の無い方へ走り出したのである。
レイサーがすぐさま追いかけ、難 なく取り押さえて連れ戻した。
その時、かなり早いスピードで、複数の馬が近づいてくる蹄 の音が聞こえた。来た道から騎兵が数名、何やら急いで向かってくる。その顔が見分けられるようになって、衛兵の長 イシルドがいるのに気づいた。
「み、皆さんご無事で。」
イシルドが馬から降りてきた。
「これはどういうことだ。こいつは、本当は何者だ。」
レイサーがやや怒った口調できいた。
「申し訳ございません、何からお話すればいいのか。」
イシルドは肩をすくめている。
「先ほど、流されてきた水死体が発見されました。」
「水死体・・・?」
「はい、もう一人の御者でした。実は・・・」
それに続く話はこうだった。
マルクスがラジリーク市の市長の屋敷へ旅立ったあと、イシルドが部下にもう一人いる正規 の御者を呼びに行かせたのだが、その者は真夜中だというのに留守 で、困っているところにこの代わりの御者が通りかかったのである。
ただこの男、全く知らない者というわけではなかった。ラジリーク市の行商人 で、大橋を渡ることもよくあり、衛兵たちも何度も話をしたことがある男だ。
そこで彼らから離れたあの時、イシルドはいろいろと男に質問と身体検査をし、念のために見張りの護衛をつけようとしたのだが、レイサーに断られたというわけだった。
結局、その代わりの御者はラジリーク市の行商人という仮面を付けた密偵。北の君主ムバラートの支持者 である。市長の親族に不幸というのも嘘だろう。
そのあと、イシルドとレイサーは、二人がかりで男に尋問 した。男はベルニア国の君主を支持していると認めたが、今回の犯行については、よく知らないある人物に命令されたと答えた。この男は所詮 、ベルニア国に関係する怪しい組織の末端 で、間に何人も関わっており、この男からは、その統治者 に直接つながるようなことは何も聞けなかった。
そこで、彼らをどこへ連れて行くつもりだったのかと問いただすと、もっと先にある古い狩猟 小屋だと白状 した。しかし、だからといって今すぐ乗り込むわけにはいかない。たった数名の衛兵だけでは、無謀 にもほどがある。今できるのは、一度戻って調査を依頼 することと、王都へ急使を送り、アベルを狙う危険な人物や一団がうろついていないか、中でも信頼できる部隊・・・例えば、ラルティス総司令官が指揮する国境警備隊のような・・・を警戒にあたらせるよう促 すこと。その間に、古い狩猟小屋はもぬけの殻となっているだろうが。思った以上に敵は上手く連携 をとり、様々な場所に潜 んで待ち構えていると推測 できた。加えて、追って来る者たちもいる。アベルは、王都への旅が過酷 を極 めていることを実感した。
もうほかの者には任せられず、仕方なくイシルドが自ら御者を引き受けてくれた。
イシルドの馬には、今や被疑者 として捕えられた行商人の男が乗っている。三人の衛兵に囲まれている男は、観念 しておとなしく従っていた。
「マルクスさんもいないのに、関所は大丈夫なんですか。」
リマールが気になり、申し訳なさそうにきいてみた。
「はい、まあ、えー・・・大丈夫です。」
かなり無理をしているこの返事に、あんまり万全じゃないんだなとアベルも心配になった。これといった代理を立ててくることもできず、何か問題が起こらないかと不安で仕方がないに違いない。
何はともあれ、こうして危険をまた一つ回避 した一行は、気を取り直して旅を続けた。
アベルは気持ちの良いベッドから下りて、大河に面している窓辺に立った。そしてそこから、早朝の赤味を
これから僕も、あの橋を渡ってやっと先へ進める・・・また危険な
不意に、ノックの音が響いた。
返事をすると、入ってきたのはリマールだった。
「おはよう。よく眠れた?」
「うん、たぶん時間をまったく無駄にせずにね。数秒で寝ちゃったよ。」
リマールは、それは良かった、という顔で微笑んだ。
「レイサーはもう食堂に下りてるよ。ラキアはまだだけど、ノックをしても出て来ない。」
「部屋の前を通る時に、もう一度呼んでみよう。」
二人は、二度寝、三度寝をして、まだ寝ぼけている感じのラキアを食堂へ連れて行った。
「おはようございます。」
そう執事のような笑顔で挨拶をしてくれたのは、
「実は、あのあと市長のご親族に不幸があったとの連絡が入り、マルクス様は明け方、再び
レイサーは、もうその訳を聞いた様子で食卓の席についていた。
ほかの仲間たちも案内されて椅子に座った。そして、お
館の玄関を出ると馬車が停車していて、衛兵が一人と、確かに御者が待っていた。
ところが、どうしたのか不可解そうな顔をしたイシルドは、「少々、お待ちください。」と言って、その衛兵と御者を連れて離れていったのである。
だがしばらくして戻ってきた時には、また笑顔になっていた。
「何か問題でも?」
レイサーがきいた。
「いえ。念のために護衛をお付けしましょう。」
「いや・・・馬車に衛兵がついて行ったら目立つし、そうだと教えるようなものだ。」
レイサーは御者に、大街道を避けた道を行くよう頼んだ。御者の男は、お安い御用と請け合ってくれた。その周辺の道はよく知っているらしい。
旅人たちは馬車に乗り込んだ。屋根になる
「空は楽しめるね。」と、ラキアが言った。
アベルは上空を
一行は、馬に乗って
それに
「お気をつけて。」
イシルドがそう敬礼したのに
正体は隠したままのはずだけど、いったい自分たちは何者になったのだろう・・・。アベルは考えながらイシルドにお礼を述べ、「行ってきます。」と、自分もお返しに頭を下げた。
そうして彼らは、イシルドと衛兵たちに見送られて、橋を渡って行った。
大河の上を行くこの時は、アベルもラキアも立ち上がらずにはいられなかった。朝日を浴びて輝く視界いっぱいの
向こう岸に着くと、馬車は間もなく
ラキアは座席に
レイサーだけが、いつもの愛想のない顔で・・・いつもより険しい気もするけれど・・・腕を組んだままじっとしている。
別れ道にさしかかった。また馬車が
すると、これまで一人動かなかったレイサーが立ち上がった。かと思うと、彼はいきなり剣を抜いて、
「おい、あんた・・・俺たちをどこへ連れて行こうとしている。」
アベルもリマールもハッと息を止め、驚いて目を向けた。
「突然どうなされました。イスタリア城と申しつけられておりますから、
「この道は、そこへは行けない。」
御者の表情が固まった。驚き
「俺はさすらい戦士で、ちょっとした貴族の出だ。この道は知っている。イスタリア城もな。俺たちを仲間のところへ連れて行く気か。」
実は、密かに不安を覚えていたレイサー。彼は、イシルドがこの御者とそばを離れた時から、ずっと警戒していた。
すると男は、いきなり
レイサーがすぐさま追いかけ、
その時、かなり早いスピードで、複数の馬が近づいてくる
「み、皆さんご無事で。」
イシルドが馬から降りてきた。
「これはどういうことだ。こいつは、本当は何者だ。」
レイサーがやや怒った口調できいた。
「申し訳ございません、何からお話すればいいのか。」
イシルドは肩をすくめている。
「先ほど、流されてきた水死体が発見されました。」
「水死体・・・?」
「はい、もう一人の御者でした。実は・・・」
それに続く話はこうだった。
マルクスがラジリーク市の市長の屋敷へ旅立ったあと、イシルドが部下にもう一人いる
ただこの男、全く知らない者というわけではなかった。ラジリーク市の
そこで彼らから離れたあの時、イシルドはいろいろと男に質問と身体検査をし、念のために見張りの護衛をつけようとしたのだが、レイサーに断られたというわけだった。
結局、その代わりの御者はラジリーク市の行商人という仮面を付けた密偵。北の君主ムバラートの
そのあと、イシルドとレイサーは、二人がかりで男に
そこで、彼らをどこへ連れて行くつもりだったのかと問いただすと、もっと先にある古い
もうほかの者には任せられず、仕方なくイシルドが自ら御者を引き受けてくれた。
イシルドの馬には、今や
「マルクスさんもいないのに、関所は大丈夫なんですか。」
リマールが気になり、申し訳なさそうにきいてみた。
「はい、まあ、えー・・・大丈夫です。」
かなり無理をしているこの返事に、あんまり万全じゃないんだなとアベルも心配になった。これといった代理を立ててくることもできず、何か問題が起こらないかと不安で仕方がないに違いない。
何はともあれ、こうして危険をまた一つ