p57 殺し文句

文字数 1,380文字

 旧江戸川沿いのバス通りから、どうやって自宅のゴミ屋敷に着いたのか記憶がない。


 いつの間にか日は暮れ、夜の(とばり)が降りている。灰は止み、小雨が降り出していた。
 濡れた体が寒くてたまらない。


 意識が『起きている』と自覚した時には、既に玄関の前に(たたず)んでいた。
 頭に巡るのは、キャピタルのド下手くそなウェラーマン。
 合いの手にシューベルトの軍隊行進曲と天城越え。
 

 メチャクチャである。


 (さわ)りだけだったが、せっかくローンの上手なウェラーマンを聞けたのに。


「なんでこんなときに、あんなウンコハミング」


 去年たぬキノコの浮島で、ナラタケの根状菌糸足(こんじょうきんしそく)と綱引きをしたときのことを、再び思い出してしまった。


 あの時も、キャピタルの圧倒的な力を羨望(せんぼう)の眼差しで見ていた。
 キャピタルが羨ましくてしょうがなくて、立場が交換できたらいいのにと、情けない願いを抱いていた自分と改めて向き合わされて・・・・・・。


 その後、色々あってソロが目を覚ましたら、キャピタルが泣きそうな顔で自分を見下ろしていた。


 ケンカ腰で少し会話をした(のち)、涙とウェラーマンのハミングが降って来た。
 思い出したくない液体も降って来た。


 なのに、さっき、あんな目で。
 あんな、ひどい。
 汚らしいものを見るような、信じられないものを見るような。
 天敵に向けるような敵意と悪意。
 それ以上は何も思い出したくなくて、ソロは庭のノウゼンカズラに駆け寄って、地面の中にいる母の菌糸に泣き(すが)った。
「お母さん」
「何か言って」
「さっき・・・・・・」
 寒さもいとわず、濡れた体でソロは母の菌糸を求めて地面に()いつくばった。
「オレに何か言って」
 嗚咽(おえつ)が止まらない。
 体の痛みより、キャピタルに向けられた眼差しの敵意と悪意が、しばらく大人しくしていた生爪が()がれたような痛みを呼び起こしていた。


 あの、いつまでも治らない火傷のような痛みが、肩の傷みと一緒に体中に広がり出している。
 柴田兄弟の圧倒的な力に絶望して、弱い自分にも失望していた。


「お母さん・・・・・・」


 涙がゴーグルに()まって、傷口にしみる。
 ソロはバッタが顔に付くのも構わずにマスクとゴーグルを外した。


 その時、ソロの体が浮いた。


 何者かに器用に抱き上げられて、ソロの(あご)は肩に落ち着き、背中をポンと軽くたたかれた。


「泣き虫のお嬢さん」


 リョウの声だった。


「今度はみ空行(そらゆ)く捕食者かよ・・・・・・」


 しかし、命の危機を感じるどころか、このまま征服されてしまいたいという捨て鉢な気持ちしかない。今朝、バンクとキャピタルの食欲を見て、自分の生きる姿勢を見直さなければとまで思ったのに、生きることに対して投げやりな気持ちしか残っていない。


 さっきだって、食べられたくないと強く思ったはずなのに・・・・・・。


「泣き虫はリョウだろ」


「そうだっけ」


「幻覚のくせに口答えしやがって。オレの見たい幻覚なんだから、オレが掛けてほしい言葉だけ言って」


「なんて言って欲しいの」


「会いたかった、愛してる、って・・・・・・」


 ソロの頬を伝って、涙はリョウの肩まで濡らした。


「幻覚のくせに、なんでこんなに(あった)かいんだよ・・・・・・」


 ソロの涙は治りかけの傷と混じって、薄赤い液体となっていた。


「泣いていいんだよ、ソロ」


「オレの真似すんな」


「泣きたいんだろ」


 リョウに抱き上げられたまま、ソロは屋内へ運搬(うんぱん)された。

 



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