第18話 常務は新村くんに似てる 中森さんは極道の女が似合いそう
文字数 2,565文字
パァンパァン。
ゆっくりと打ち鳴らされたその音に私も詰め寄ってきた彼女も硬直する。まるで魔法をかけられたかのように私たちの時が止まった。
制止した世界で拍手した人物だけが動く。
人だかりから悠然とした態度で現れた彼は私たちに近づいてきた。
一歩が大きい。一八〇センチはあろう身長のせいもあるが年齢を感じさせない歩き方だ。
「中森さん」
手の届きそうな距離まで来ると彼は彼女に言った。
「理由はわからないが人前で醜態を晒すこともないと思うよ」
時が動き出す。
中森と呼ばれた彼女はむすっとした表情で私から離れた。一つ息を吐き、ギロリと私を睨んでから彼に向き直る。
「でも、武田常務。この人、私の彼に手を出したんですよ。酷いと思いませんか」
あ、声を変えたな。
さっきまでの怨霊じみた低い声はどうした。
「確かにそれは酷いね」
中森さんの言葉に肯定すると常務は私にたずねた。静かに、それでいて無回答など許さないといったふうに。
「中森さんの彼氏に手を出したの?」
「出してません」
私は即答した。嘘はついていないしつく理由もない。声を大にして身の潔白を主張したいほどだった。
「そもそも彼女の言っている彼が誰かすらわからないんです。いきなり言いがかりを付けられて正直迷惑なんですが」
「はぁ?」
中森さんが声を荒げる。切り替えスイッチでも付いているかのようにまた声が低まった。今度は怨霊というより極道の女だ。ドスを隠し持っていないことを祈ろう。
「あなた泣かされたいの?」
私に掴みかかろうと伸ばした彼女の腕を武田常務が素早く押さえる。確か彼は今年で五十五歳のはずだが俊敏な動作だった。
入社してから常務と顔を合わせたことはそう多くない。けれど彼が一部の女子社員から慕われているのは知っている。私の周りにも彼のファンはいた。わざわざ調べなくても情報が耳に入ってくる。おかげである程度以上のプロフィールは把握していた。
武田常務は学生時代にサッカーの全国大会に出場している。社会人になってからはサッカーから離れているがトレーニングは欠かしていない。外見は細身でもそのチャコールグレイのスーツの下にはしっかりと鍛え抜かれた筋肉が隠れているのだ。
中森さんが武田常務の手から逃れようとするものの彼は離さなかった。
「理由はどうあれ暴力はやめようね」
やんわりと言うと武田常務がにこりとした。ひょっとすると三浦部長のほうが年上なのではないかと錯覚してしまうほど若々しい笑顔である。
おまけに超絶美形だ。
髪も黒々としていて薄毛や白髪とも無縁。私の実家の父がここにいたらきっと悔し涙を流すに違いない。何せ武田常務とほぼ同年代なのに彼の生え際は風前の灯火なのだから。
「ああっ、もう!」
一声吠えると中森さんが抵抗を止めた。極道の女モードも解除したようだ。やはり低音より高音のほうが彼女に似合っている。こっちの声で通せば可愛いのに。
「わかりました、わかりましたからもう放してください!」
「乱暴なことしない?」
「しません」
彼女が応じると武田常務は念押しするように訊いた。
「落ち着いて話をするって約束できる?」
中森さんが大きくうなずく。しぶしぶといった感じだが嘘はついていないようだ。
武田常務が腕を放した。
自分を庇うように中森さんが腕組みする。不服そうに武田常務を睨むが尖らせた口からは何も発しなかった。妙に色っぽくなっているのは指摘しないでおこう。
数秒の沈黙があたりを支配する。
私は中森さんと武田常務を交互に眺めた。できるだけ速やかにこの一件が終わってくれないものかと思う。武田常務の登場によって忘れていた三浦部長のお見合い話が今になって頭に蘇った。
そういえばあれって武田常務がすすめてきたんだよね。
私の視線は彼の側で止まる。笑みを絶やさない武田常務は何となく新村くんに似ている気がした。ただ、滲み出る貫禄というか圧のようなものが新村くんにはない。この辺はさすが五十五歳と言うべきか。
「ん?」
武田常務が不思議そうに声を漏らす。
私は慌てて目を逸らした。その先には中森さんがいて応戦するように鋭く返してくる。
「何よ」
「あっ、いえ」
気圧されて私は中空へと視線を逃がす。再びボルテージの上がりかけた中森さんが一歩詰め寄ろうとしてきたのでやばいと判じた。しかし、彼女は思い止まったらしくすぐに身を引いた。武田常務の存在が抑止力となったのかもしれない。
大きく肩を揺らして中森さんはため息をついた。それはもう盛大なため息だ。
「あーやめやめ。何かもう気が削がれちゃった。今日はこの辺で勘弁してあげる。あんた、武田常務に感謝するのね」
「……」
中森さん。
それ、悪役の逃げ口上みたい。
とは言えず。
てか、言ったら怒るだろうなぁ。
中森さんはくるりと背を向けて一度エレベーターの前に立った。呼び出しボタンに指を伸ばしかけ、思い直したかのように引っ込める。
ばつの悪そうな素振りで私を一瞥すると彼女はエレベーターの隣にある階段へと足を向けた。どうにもしまりのない退場であるがつっこんでも良いことは何一つないのでスルーしようと私は決める。
無駄に疲れた。
ああ、三浦部長に癒されたい。
まあ、無理だけど。部長って癒やし系キャラじゃないし。
揉め事も終わったしもう帰ろう、と意識をエレベーターへと向けた私にこつんと武田常務の声がノックした。
「大野さん」
「あっ、はい」
振り返ると武田常務のにこにこ顔が出迎えた。ああ、本当にこういうところは新村くんと似てる。
「彼女のこと悪く思わないでね。ああ見えて普段はとってもいい子なんだ。経理課でも後輩の面倒をよく見るし、先輩たちからも評判がいいし」
「……」
いや印象滅茶苦茶悪いんですけど。
白い特攻服を着せて木刀を握らせたら立派なレディースが完成しますよ。背中に「喧嘩上等」とかあったら完璧です。
それともあれですか?
ちゃちゃっと髪形をいじってから和服で極道の女感を演出しますか? 彼女なら「舐めたらあかんぜよ」ってセリフもばっちり決めてくれると思いますよ。
「……」
じいっと武田常務が見つめてくる。
一言。
「君、ものすごく失礼なこと想像してない?」
私はあさってへと視線を飛ばした。
言葉にせず謝る。
ごめんなさーい。
ゆっくりと打ち鳴らされたその音に私も詰め寄ってきた彼女も硬直する。まるで魔法をかけられたかのように私たちの時が止まった。
制止した世界で拍手した人物だけが動く。
人だかりから悠然とした態度で現れた彼は私たちに近づいてきた。
一歩が大きい。一八〇センチはあろう身長のせいもあるが年齢を感じさせない歩き方だ。
「中森さん」
手の届きそうな距離まで来ると彼は彼女に言った。
「理由はわからないが人前で醜態を晒すこともないと思うよ」
時が動き出す。
中森と呼ばれた彼女はむすっとした表情で私から離れた。一つ息を吐き、ギロリと私を睨んでから彼に向き直る。
「でも、武田常務。この人、私の彼に手を出したんですよ。酷いと思いませんか」
あ、声を変えたな。
さっきまでの怨霊じみた低い声はどうした。
「確かにそれは酷いね」
中森さんの言葉に肯定すると常務は私にたずねた。静かに、それでいて無回答など許さないといったふうに。
「中森さんの彼氏に手を出したの?」
「出してません」
私は即答した。嘘はついていないしつく理由もない。声を大にして身の潔白を主張したいほどだった。
「そもそも彼女の言っている彼が誰かすらわからないんです。いきなり言いがかりを付けられて正直迷惑なんですが」
「はぁ?」
中森さんが声を荒げる。切り替えスイッチでも付いているかのようにまた声が低まった。今度は怨霊というより極道の女だ。ドスを隠し持っていないことを祈ろう。
「あなた泣かされたいの?」
私に掴みかかろうと伸ばした彼女の腕を武田常務が素早く押さえる。確か彼は今年で五十五歳のはずだが俊敏な動作だった。
入社してから常務と顔を合わせたことはそう多くない。けれど彼が一部の女子社員から慕われているのは知っている。私の周りにも彼のファンはいた。わざわざ調べなくても情報が耳に入ってくる。おかげである程度以上のプロフィールは把握していた。
武田常務は学生時代にサッカーの全国大会に出場している。社会人になってからはサッカーから離れているがトレーニングは欠かしていない。外見は細身でもそのチャコールグレイのスーツの下にはしっかりと鍛え抜かれた筋肉が隠れているのだ。
中森さんが武田常務の手から逃れようとするものの彼は離さなかった。
「理由はどうあれ暴力はやめようね」
やんわりと言うと武田常務がにこりとした。ひょっとすると三浦部長のほうが年上なのではないかと錯覚してしまうほど若々しい笑顔である。
おまけに超絶美形だ。
髪も黒々としていて薄毛や白髪とも無縁。私の実家の父がここにいたらきっと悔し涙を流すに違いない。何せ武田常務とほぼ同年代なのに彼の生え際は風前の灯火なのだから。
「ああっ、もう!」
一声吠えると中森さんが抵抗を止めた。極道の女モードも解除したようだ。やはり低音より高音のほうが彼女に似合っている。こっちの声で通せば可愛いのに。
「わかりました、わかりましたからもう放してください!」
「乱暴なことしない?」
「しません」
彼女が応じると武田常務は念押しするように訊いた。
「落ち着いて話をするって約束できる?」
中森さんが大きくうなずく。しぶしぶといった感じだが嘘はついていないようだ。
武田常務が腕を放した。
自分を庇うように中森さんが腕組みする。不服そうに武田常務を睨むが尖らせた口からは何も発しなかった。妙に色っぽくなっているのは指摘しないでおこう。
数秒の沈黙があたりを支配する。
私は中森さんと武田常務を交互に眺めた。できるだけ速やかにこの一件が終わってくれないものかと思う。武田常務の登場によって忘れていた三浦部長のお見合い話が今になって頭に蘇った。
そういえばあれって武田常務がすすめてきたんだよね。
私の視線は彼の側で止まる。笑みを絶やさない武田常務は何となく新村くんに似ている気がした。ただ、滲み出る貫禄というか圧のようなものが新村くんにはない。この辺はさすが五十五歳と言うべきか。
「ん?」
武田常務が不思議そうに声を漏らす。
私は慌てて目を逸らした。その先には中森さんがいて応戦するように鋭く返してくる。
「何よ」
「あっ、いえ」
気圧されて私は中空へと視線を逃がす。再びボルテージの上がりかけた中森さんが一歩詰め寄ろうとしてきたのでやばいと判じた。しかし、彼女は思い止まったらしくすぐに身を引いた。武田常務の存在が抑止力となったのかもしれない。
大きく肩を揺らして中森さんはため息をついた。それはもう盛大なため息だ。
「あーやめやめ。何かもう気が削がれちゃった。今日はこの辺で勘弁してあげる。あんた、武田常務に感謝するのね」
「……」
中森さん。
それ、悪役の逃げ口上みたい。
とは言えず。
てか、言ったら怒るだろうなぁ。
中森さんはくるりと背を向けて一度エレベーターの前に立った。呼び出しボタンに指を伸ばしかけ、思い直したかのように引っ込める。
ばつの悪そうな素振りで私を一瞥すると彼女はエレベーターの隣にある階段へと足を向けた。どうにもしまりのない退場であるがつっこんでも良いことは何一つないのでスルーしようと私は決める。
無駄に疲れた。
ああ、三浦部長に癒されたい。
まあ、無理だけど。部長って癒やし系キャラじゃないし。
揉め事も終わったしもう帰ろう、と意識をエレベーターへと向けた私にこつんと武田常務の声がノックした。
「大野さん」
「あっ、はい」
振り返ると武田常務のにこにこ顔が出迎えた。ああ、本当にこういうところは新村くんと似てる。
「彼女のこと悪く思わないでね。ああ見えて普段はとってもいい子なんだ。経理課でも後輩の面倒をよく見るし、先輩たちからも評判がいいし」
「……」
いや印象滅茶苦茶悪いんですけど。
白い特攻服を着せて木刀を握らせたら立派なレディースが完成しますよ。背中に「喧嘩上等」とかあったら完璧です。
それともあれですか?
ちゃちゃっと髪形をいじってから和服で極道の女感を演出しますか? 彼女なら「舐めたらあかんぜよ」ってセリフもばっちり決めてくれると思いますよ。
「……」
じいっと武田常務が見つめてくる。
一言。
「君、ものすごく失礼なこと想像してない?」
私はあさってへと視線を飛ばした。
言葉にせず謝る。
ごめんなさーい。