第27話 両方はブタになります
文字数 2,548文字
今年の節分は二月二日だ。
節分の朝は今シーズンで一番の冷え込みとなった。
暦の上とはいえ明日から春だとはとても思えない寒さに身を震えさせつつ私はアパートを出る。
手持ちの中で最も暖かい服装にしたかったけれどあまりにも仕事向きにならなかったので諦めていつも通りの格好にしていた。
そういや前に三浦部長と買い物に行ったときに見たブランド物のコートとマフラーは暖かそうだったなぁ。
あれ、三浦部長の想い人への誕生日プレゼントなんだよね。
いいなぁ。
いつものように老齢の守衛さんに挨拶して社屋へと入る。ガラス張りの自動ドアをくぐっただけなのに天国か極楽かと疑いたくなるほどの暖かさが私を包んだ。思わずふうっと息をつく。
人の群れを避けるようにエレベーターではなく階段のほうへと進む。私の所属する第二事業部は八階だ。
四階の踊り場で一度足を止めたとき下から足音が響いた。コツコツと音を鳴らして誰かが上がってくる。
何となく気になってそちらへ顔を向けているとむすっとした表情の三浦部長が現れた。彼も私に気づいたようで声がかかる。
「大野か、おはよう」
「おはようございます」
私が会釈すると彼は踊り場まで昇ってきた。
「朝からまゆかの顔を見られるなんて超ラッキー」
「はい?」
三浦部長のぼそぼそ言う声は小さすぎて私には聞き取れない。
聞き返すべきかと迷っていると三浦部長が言った。
「今朝は特に冷えるな」
「あ、はい」
部長の言葉に私は応える。満足げにうなずいてから彼は少しだけ声を低めた。
「この前武田常務と焼き鳥屋で飲んだだろ」
「はい」
あの店は当たりだった。
「実はあの近くにチキンカレーの美味い店があるんだ。カレー好きの人向けの接待で利用したいんだが僕もどんな感じの店かわからなくてね。悪いが下見を付き合ってくれないか?」
「……」
ワォ。
朝っぱらから食事のお誘いですか?
じゃなくて。
あ、うん。わかってるわかってる。
これ仕事だよね。
けど、ちょっと……いやかなり嬉しい。
「大野?」
返事をしなかった私に三浦部長が訝しそうな視線を投げてくる。顔に赤みがあるのは私がすぐに返答せずにいたことに怒ったのだろう。
私は慌てて答えた。
「わかりました。お供します」
「そうか」
僅かに三浦部長の頬が緩む。
「じゃあ金曜日に」
「今日でいいですよ。私、空いてますし」
「そ、そうなのか? なら、そうしよう」
思わぬお誘いに私はうっかり気持ちが前のめりになってしまったようだ。やや気圧された様子の三浦部長が声を上擦らせた。
やばいと判じて私はわたわたと片手を振る。
「あ、いや、別に部長と食事できるからって舞い上がっているとかじゃないですよ。純粋に仕事だから仕方なく付き合うんですからね」
自分でもちょいツンデレっぽい言い様だなぁと胸の内で反省する。
でもすでに口から出てしまった言葉は引っ込められない。
「わ、私、朝イチで提出しないとまずい書類があるんで失礼します」
「あ、あぁ」
急にばつが悪い気がして私は急ぎ足で階段を駆け上がった。
「そうだよなぁ、やっぱり仕事だから付き合ってくれるんだよなぁ。変に期待したら気持ち悪がられるよなぁ」
一人踊り場に残された三浦部長の声は私には届かなかった。
*
そろそろお昼になろうかという時間に外に出ていた三浦部長が第二事業部のフロアに戻って来た。
ノートPCの画面とにらめっこしながら取引先と電話をしていた私はちらと三浦部長を見遣る。両手に大きなレジ袋を持った彼は自分のデスクまで進むとどさりとレジ袋を置いた。
立ったままパンパンと手を叩く。
「みんな、ちょっと手を止めてくれ」
彼の呼びかけにその場にいた全員が三浦部長を見た。部下の注目を浴びた彼はコホンと咳払いをして二袋あるレジ袋を持ち上げた。
「去年を憶えている者はわかってると思うが今年も恵方巻を用意した。食べられる者は食べてくれ。あと去年の反省でフルーツロールも買ってみた。こちらは好き嫌いやアレルギーで恵方巻がダメという人向けだ。」
ほぼ一斉に部員たちが歓声を上げる。
「部長、ナイスタイミング!」
「ちょうどお腹が空いてきたんだよね」
「恵方巻って去年と同じ店の奴かな」
「部長太っ腹」
「ゴチになりますぅ!」
「お返しにバレンタインではあたしをプレゼントしますね」
ちょい待って。
最後の人、何気にとんでもないこと言ってなかった?
油断できないんですけど。
私は声のしたほうをギロリと睨んだ。
営業事務の女の子たちが三人いて誰が発したのか判別つかない。あの子たちは声も似てるから発言者を特定するのは難しいだろう。
そうこうしているうちに手空きの者から順番に三浦部長のデスクへと並び始めた。
ちょっとした食糧の配給のような光景に私は自然と頬が緩んでくる。
一本ずつ恵方巻あるいはフルーツロールを渡す三浦部長の表情はむすっとしていたが彼を知っている者ならば平常運転だとわかるレベルだった。
女子部員の一人がスマホで吉方を調べその方角をみんなに教える。数人が早くも恵方巻を食べ始めた。
電話を終えた私も恵方巻をもらいに行く。
「あんまり慌てて食べようとするなよ」
二十センチほどの長さの恵方巻を手渡しながら三浦部長が注意してくる。部内の暖房が効きすぎているからか顔がほんのりと赤くなっていた。
「それとどうもフルーツロールを買いすぎたようだ。良かったらこれも食べてくれないか?」
「えっ」
ちなみにフルーツロールも二十センチくらいの長さである。
朝ご飯はコンビニお握りが三個だったので恵方巻だけで十分足りていた。だが、三浦部長の切れ長の目は眼力があってとても拒めそうにない。
「あの、でも、私だけ両方取るのはまずいんじゃ……」
「余らせるよりはマシだ。気にするな」
「……」
一応の抵抗を試みるもあっけなく失敗する。
やむなく私は苦笑いしつつ恵方巻とフルーツロールを受け取った。二本とも結構ずしりとしていてなかなかに食べ応えがありそうだ……というか食べすぎ?
ま、片方は後でってことにすればいいよね。
食べすぎで仕事にならなくなっても困るし。
「どうせだったらまゆかと二人っきりで食べたかったなぁ」
三浦部長のつぶやきは小さすぎて私にはよく聞こえなかった。
節分の朝は今シーズンで一番の冷え込みとなった。
暦の上とはいえ明日から春だとはとても思えない寒さに身を震えさせつつ私はアパートを出る。
手持ちの中で最も暖かい服装にしたかったけれどあまりにも仕事向きにならなかったので諦めていつも通りの格好にしていた。
そういや前に三浦部長と買い物に行ったときに見たブランド物のコートとマフラーは暖かそうだったなぁ。
あれ、三浦部長の想い人への誕生日プレゼントなんだよね。
いいなぁ。
いつものように老齢の守衛さんに挨拶して社屋へと入る。ガラス張りの自動ドアをくぐっただけなのに天国か極楽かと疑いたくなるほどの暖かさが私を包んだ。思わずふうっと息をつく。
人の群れを避けるようにエレベーターではなく階段のほうへと進む。私の所属する第二事業部は八階だ。
四階の踊り場で一度足を止めたとき下から足音が響いた。コツコツと音を鳴らして誰かが上がってくる。
何となく気になってそちらへ顔を向けているとむすっとした表情の三浦部長が現れた。彼も私に気づいたようで声がかかる。
「大野か、おはよう」
「おはようございます」
私が会釈すると彼は踊り場まで昇ってきた。
「朝からまゆかの顔を見られるなんて超ラッキー」
「はい?」
三浦部長のぼそぼそ言う声は小さすぎて私には聞き取れない。
聞き返すべきかと迷っていると三浦部長が言った。
「今朝は特に冷えるな」
「あ、はい」
部長の言葉に私は応える。満足げにうなずいてから彼は少しだけ声を低めた。
「この前武田常務と焼き鳥屋で飲んだだろ」
「はい」
あの店は当たりだった。
「実はあの近くにチキンカレーの美味い店があるんだ。カレー好きの人向けの接待で利用したいんだが僕もどんな感じの店かわからなくてね。悪いが下見を付き合ってくれないか?」
「……」
ワォ。
朝っぱらから食事のお誘いですか?
じゃなくて。
あ、うん。わかってるわかってる。
これ仕事だよね。
けど、ちょっと……いやかなり嬉しい。
「大野?」
返事をしなかった私に三浦部長が訝しそうな視線を投げてくる。顔に赤みがあるのは私がすぐに返答せずにいたことに怒ったのだろう。
私は慌てて答えた。
「わかりました。お供します」
「そうか」
僅かに三浦部長の頬が緩む。
「じゃあ金曜日に」
「今日でいいですよ。私、空いてますし」
「そ、そうなのか? なら、そうしよう」
思わぬお誘いに私はうっかり気持ちが前のめりになってしまったようだ。やや気圧された様子の三浦部長が声を上擦らせた。
やばいと判じて私はわたわたと片手を振る。
「あ、いや、別に部長と食事できるからって舞い上がっているとかじゃないですよ。純粋に仕事だから仕方なく付き合うんですからね」
自分でもちょいツンデレっぽい言い様だなぁと胸の内で反省する。
でもすでに口から出てしまった言葉は引っ込められない。
「わ、私、朝イチで提出しないとまずい書類があるんで失礼します」
「あ、あぁ」
急にばつが悪い気がして私は急ぎ足で階段を駆け上がった。
「そうだよなぁ、やっぱり仕事だから付き合ってくれるんだよなぁ。変に期待したら気持ち悪がられるよなぁ」
一人踊り場に残された三浦部長の声は私には届かなかった。
*
そろそろお昼になろうかという時間に外に出ていた三浦部長が第二事業部のフロアに戻って来た。
ノートPCの画面とにらめっこしながら取引先と電話をしていた私はちらと三浦部長を見遣る。両手に大きなレジ袋を持った彼は自分のデスクまで進むとどさりとレジ袋を置いた。
立ったままパンパンと手を叩く。
「みんな、ちょっと手を止めてくれ」
彼の呼びかけにその場にいた全員が三浦部長を見た。部下の注目を浴びた彼はコホンと咳払いをして二袋あるレジ袋を持ち上げた。
「去年を憶えている者はわかってると思うが今年も恵方巻を用意した。食べられる者は食べてくれ。あと去年の反省でフルーツロールも買ってみた。こちらは好き嫌いやアレルギーで恵方巻がダメという人向けだ。」
ほぼ一斉に部員たちが歓声を上げる。
「部長、ナイスタイミング!」
「ちょうどお腹が空いてきたんだよね」
「恵方巻って去年と同じ店の奴かな」
「部長太っ腹」
「ゴチになりますぅ!」
「お返しにバレンタインではあたしをプレゼントしますね」
ちょい待って。
最後の人、何気にとんでもないこと言ってなかった?
油断できないんですけど。
私は声のしたほうをギロリと睨んだ。
営業事務の女の子たちが三人いて誰が発したのか判別つかない。あの子たちは声も似てるから発言者を特定するのは難しいだろう。
そうこうしているうちに手空きの者から順番に三浦部長のデスクへと並び始めた。
ちょっとした食糧の配給のような光景に私は自然と頬が緩んでくる。
一本ずつ恵方巻あるいはフルーツロールを渡す三浦部長の表情はむすっとしていたが彼を知っている者ならば平常運転だとわかるレベルだった。
女子部員の一人がスマホで吉方を調べその方角をみんなに教える。数人が早くも恵方巻を食べ始めた。
電話を終えた私も恵方巻をもらいに行く。
「あんまり慌てて食べようとするなよ」
二十センチほどの長さの恵方巻を手渡しながら三浦部長が注意してくる。部内の暖房が効きすぎているからか顔がほんのりと赤くなっていた。
「それとどうもフルーツロールを買いすぎたようだ。良かったらこれも食べてくれないか?」
「えっ」
ちなみにフルーツロールも二十センチくらいの長さである。
朝ご飯はコンビニお握りが三個だったので恵方巻だけで十分足りていた。だが、三浦部長の切れ長の目は眼力があってとても拒めそうにない。
「あの、でも、私だけ両方取るのはまずいんじゃ……」
「余らせるよりはマシだ。気にするな」
「……」
一応の抵抗を試みるもあっけなく失敗する。
やむなく私は苦笑いしつつ恵方巻とフルーツロールを受け取った。二本とも結構ずしりとしていてなかなかに食べ応えがありそうだ……というか食べすぎ?
ま、片方は後でってことにすればいいよね。
食べすぎで仕事にならなくなっても困るし。
「どうせだったらまゆかと二人っきりで食べたかったなぁ」
三浦部長のつぶやきは小さすぎて私にはよく聞こえなかった。