第20話 私、出世しちゃう?
文字数 2,706文字
二皿目の焼き鳥が運ばれたあたりで武田常務が切り出した。
「そういや事業拡大の一環として第三事業部を立ち上げようって話があってね」
実に楽しそうに笑んでいる。彼を知らない人が今の表情だけ見ればとても五十五歳とは思わないだろう。私でさえ疑いたくなるのだから。
「こちらとしてはできればその部長に女性を抜擢したいんだ。理想としては第一か第二事業部の経験があって独自のカラーを出せる人がいい。人事の早見さんみたいに個性がありつつも周囲を纏める力を持っている人にやってもらいたいんだ」
なるほど、と私は内心うなずく。
優子さんは結構滅茶苦茶な人だけど人事課の課長としてはちゃんとやっていた。彼女の仕事ぶりを悪く言う人はいない。それどころかむしろ周囲の評価はかなり良かった。
第一か第二事業部の経験者という条件を除けばぴったりの人材だ。
まあ、優子さんの部下は大変そうだけどね。
仕事はできるけど、基本はブレーキの壊れたダンプカーな訳だし。
あれ?
違ったっけ?
そういやキューピットがどうのとかあったような……。
ま、いっか。
私がそんなふうに考えていると武田常務が訊いてきた。
「大野さんはこのままずっと誰かの下についているつもりかい?」
「えっ」
思わぬ質問に頓狂な声が出た。
びっくりした私はきっと間抜け面をしていたのだろう。武田常務が愉快げに口角を上げた。
さっきの話の流れからすると私を第三事業部の部長にしたいのかな。
え?
私、出世しちゃう?
いきなり部長になっちゃう?
なんて。
そんなことないよね。
私が何も言えずにいると武田常務がくいとお猪口を傾けた。
「君とは年に数回しか顔を合わせていないけど印象には残ってたんだ。君に絡んでいた中森さんと違って華やかさに欠けるかもしれないが、一生懸命なところは伝わってくる。その姿勢は周囲の人間にも良い影響を与えるんじゃないかな。そしてそれがある種の成功に結びつけば、うちの会社にとってもプラスになると思うんだ」
「……」
ワォ。
常務、それ買い被りすぎです。
私、そんなに期待されるような女じゃないですよ。
というかちょい待って。
今、華やかさに欠けるって言いましたよね?
それ、失礼じゃないですか。
不穏な気配を察したのか武田常務が苦笑しつつ謝った。
「あーごめん、別に君が可愛くないという意味ではないよ。ただ単に派手さの問題というか」
「ええっと、私って地味ですか?」
「……」
え。
どうしてそこで黙るんですか。
フォローしてくださいよ。
私、泣きますよ。
号泣しちゃいますよ。
私が無言で抗議しているとスマホの振動音が聞こえた。
武田常務が懐からスマホを取り出す。私の代わりに苦情を告げているみたいにスマホが震え続けていた。
「ちょっと失礼」
そう私に詫びてから彼は通話に出た。少し遅れてお店の店主が他の客の注文を復唱する。
「もしもし……ああ、そのことなら問題ないよ。えっ、ここかい? まあどこだっていいじゃないか……いや、千鳥の大将の声なんてしたかなぁ」
いったんスマホから耳を離すと武田常務は悪戯っぽく口の端を上げた。何の話かはわからないがこのやりとりを楽しんでいるのはわかる。
「それで、君はどうしたいの……うん、そうかもだけどそこまでする必要あるかなぁ。過保護すぎなのも本人のためにならないと思うけど。」
「……」
ん?
過保護?
何の話?
私が頭に疑問符を浮かべているとさらに話が続いた。
「……ああそう、じゃあ仕方ないね。どうしてもと言うなら私は止めないよ」
武田常務がちらと私に横目を走らせる。
えっ、何?
新たな疑問符がぴょこんと私の頭に現れるのと同時に武田常務が笑みを広げた。
あ、これは悪い笑みだ。
確信にも近い直感が私の酔いを醒ます。呼応するように武田常務がスマホの通話を切り、言った。
「もう一人来るけど、いいよね?」
*
その人は割と早く来た。
「常務、お待たせしてすみません」
ちょうど空いていた私の隣の席に三浦部長が腰を下ろす。かなり急いでいたのか息を切らせていた。
「別に待ってはいなかったんだけどね」
やや冷淡な口調で武田常務が返す。三浦部長はさして気にした様子もなく自分の分の酒と料理を注文した。
「大野」
手持ち無沙汰をごまかすように三浦部長が私に訊いてくる。
「社内でケンカしたって本当か?」
「……」
あれってケンカなのかなぁ?
私は返答に困って三浦部長から目を逸らす。中空にやった視線はカウンターの向こうの天井へと辿り着いた。薄く汚れた天井の二カ所には照明があり、間に挟まるように業務用のエアコンが設置されている。
ああそうか厨房って熱がこもりやすいもんね。
エアコンも普通のじゃ間に合わないか。
ついでにお叱りモードになってる部長の熱も冷やしてくれないかな。
「君もいい大人なんだから、あまり醜態を晒すようなことはしないほうがいいぞ。どこで誰が見ているかわからないんだからな」
「……はい」
とりあえず返事をしながら胸の内で謝る。
部長、ごめんなさい。
私、めっちゃ大勢の人に見られてました。
たぶん今ごろ噂のネタにされてます。
「そりゃ意見のぶつかるときや食い違ったりするときもあるだろう。だがな、そういうのをうまくやり過ごせるようでないと人間関係はやっていけないんだ。いちいちケンカをしていたらまっとうな社会生活なんてできないぞ。君ももうアラサーなんだから大人にならないと」
「……はい」
何気にお小言マシンガンになってる?
あと妙に「アラサー」の部分が強調されていたような気がするんですけど。
気のせいですよね?
「だいたい君はだなぁ」
「まあまあ、その辺にしておいてあげようね」
お小言マシンガンを連射しようとした三浦部長を武田常務が制した。
「それにどうやら事情があるようだし」
「ええと、私もどうしてあんなことになったのかわからないんです」
私は中森さんとのことを思い出しながら部長に説明した。
彼女は「彼」に私がちょっかいを出したと思い込んでいた。
でも、私はそんなことをしていない。完全に中森さんの誤解だ。
そもそも「彼」が誰なのかさえ私は知らないのである。
「本当に心当たりはないんだな?」
私が説明を終えると念押しするように三浦部長が訊いてきた。
「だ・か・ら、ありませんって」
うんざりしつつ私は答えた。
まだ納得しきれてない様子の三浦部長だったが私が不快さを露わにしていたからかそれ以上追求してこなかった。
うーん。
もしかして私って部長に信用されてないのかなぁ。
若干の、いやかなりの寂しさを感じながら私は深くため息をつくのであった。
「そういや事業拡大の一環として第三事業部を立ち上げようって話があってね」
実に楽しそうに笑んでいる。彼を知らない人が今の表情だけ見ればとても五十五歳とは思わないだろう。私でさえ疑いたくなるのだから。
「こちらとしてはできればその部長に女性を抜擢したいんだ。理想としては第一か第二事業部の経験があって独自のカラーを出せる人がいい。人事の早見さんみたいに個性がありつつも周囲を纏める力を持っている人にやってもらいたいんだ」
なるほど、と私は内心うなずく。
優子さんは結構滅茶苦茶な人だけど人事課の課長としてはちゃんとやっていた。彼女の仕事ぶりを悪く言う人はいない。それどころかむしろ周囲の評価はかなり良かった。
第一か第二事業部の経験者という条件を除けばぴったりの人材だ。
まあ、優子さんの部下は大変そうだけどね。
仕事はできるけど、基本はブレーキの壊れたダンプカーな訳だし。
あれ?
違ったっけ?
そういやキューピットがどうのとかあったような……。
ま、いっか。
私がそんなふうに考えていると武田常務が訊いてきた。
「大野さんはこのままずっと誰かの下についているつもりかい?」
「えっ」
思わぬ質問に頓狂な声が出た。
びっくりした私はきっと間抜け面をしていたのだろう。武田常務が愉快げに口角を上げた。
さっきの話の流れからすると私を第三事業部の部長にしたいのかな。
え?
私、出世しちゃう?
いきなり部長になっちゃう?
なんて。
そんなことないよね。
私が何も言えずにいると武田常務がくいとお猪口を傾けた。
「君とは年に数回しか顔を合わせていないけど印象には残ってたんだ。君に絡んでいた中森さんと違って華やかさに欠けるかもしれないが、一生懸命なところは伝わってくる。その姿勢は周囲の人間にも良い影響を与えるんじゃないかな。そしてそれがある種の成功に結びつけば、うちの会社にとってもプラスになると思うんだ」
「……」
ワォ。
常務、それ買い被りすぎです。
私、そんなに期待されるような女じゃないですよ。
というかちょい待って。
今、華やかさに欠けるって言いましたよね?
それ、失礼じゃないですか。
不穏な気配を察したのか武田常務が苦笑しつつ謝った。
「あーごめん、別に君が可愛くないという意味ではないよ。ただ単に派手さの問題というか」
「ええっと、私って地味ですか?」
「……」
え。
どうしてそこで黙るんですか。
フォローしてくださいよ。
私、泣きますよ。
号泣しちゃいますよ。
私が無言で抗議しているとスマホの振動音が聞こえた。
武田常務が懐からスマホを取り出す。私の代わりに苦情を告げているみたいにスマホが震え続けていた。
「ちょっと失礼」
そう私に詫びてから彼は通話に出た。少し遅れてお店の店主が他の客の注文を復唱する。
「もしもし……ああ、そのことなら問題ないよ。えっ、ここかい? まあどこだっていいじゃないか……いや、千鳥の大将の声なんてしたかなぁ」
いったんスマホから耳を離すと武田常務は悪戯っぽく口の端を上げた。何の話かはわからないがこのやりとりを楽しんでいるのはわかる。
「それで、君はどうしたいの……うん、そうかもだけどそこまでする必要あるかなぁ。過保護すぎなのも本人のためにならないと思うけど。」
「……」
ん?
過保護?
何の話?
私が頭に疑問符を浮かべているとさらに話が続いた。
「……ああそう、じゃあ仕方ないね。どうしてもと言うなら私は止めないよ」
武田常務がちらと私に横目を走らせる。
えっ、何?
新たな疑問符がぴょこんと私の頭に現れるのと同時に武田常務が笑みを広げた。
あ、これは悪い笑みだ。
確信にも近い直感が私の酔いを醒ます。呼応するように武田常務がスマホの通話を切り、言った。
「もう一人来るけど、いいよね?」
*
その人は割と早く来た。
「常務、お待たせしてすみません」
ちょうど空いていた私の隣の席に三浦部長が腰を下ろす。かなり急いでいたのか息を切らせていた。
「別に待ってはいなかったんだけどね」
やや冷淡な口調で武田常務が返す。三浦部長はさして気にした様子もなく自分の分の酒と料理を注文した。
「大野」
手持ち無沙汰をごまかすように三浦部長が私に訊いてくる。
「社内でケンカしたって本当か?」
「……」
あれってケンカなのかなぁ?
私は返答に困って三浦部長から目を逸らす。中空にやった視線はカウンターの向こうの天井へと辿り着いた。薄く汚れた天井の二カ所には照明があり、間に挟まるように業務用のエアコンが設置されている。
ああそうか厨房って熱がこもりやすいもんね。
エアコンも普通のじゃ間に合わないか。
ついでにお叱りモードになってる部長の熱も冷やしてくれないかな。
「君もいい大人なんだから、あまり醜態を晒すようなことはしないほうがいいぞ。どこで誰が見ているかわからないんだからな」
「……はい」
とりあえず返事をしながら胸の内で謝る。
部長、ごめんなさい。
私、めっちゃ大勢の人に見られてました。
たぶん今ごろ噂のネタにされてます。
「そりゃ意見のぶつかるときや食い違ったりするときもあるだろう。だがな、そういうのをうまくやり過ごせるようでないと人間関係はやっていけないんだ。いちいちケンカをしていたらまっとうな社会生活なんてできないぞ。君ももうアラサーなんだから大人にならないと」
「……はい」
何気にお小言マシンガンになってる?
あと妙に「アラサー」の部分が強調されていたような気がするんですけど。
気のせいですよね?
「だいたい君はだなぁ」
「まあまあ、その辺にしておいてあげようね」
お小言マシンガンを連射しようとした三浦部長を武田常務が制した。
「それにどうやら事情があるようだし」
「ええと、私もどうしてあんなことになったのかわからないんです」
私は中森さんとのことを思い出しながら部長に説明した。
彼女は「彼」に私がちょっかいを出したと思い込んでいた。
でも、私はそんなことをしていない。完全に中森さんの誤解だ。
そもそも「彼」が誰なのかさえ私は知らないのである。
「本当に心当たりはないんだな?」
私が説明を終えると念押しするように三浦部長が訊いてきた。
「だ・か・ら、ありませんって」
うんざりしつつ私は答えた。
まだ納得しきれてない様子の三浦部長だったが私が不快さを露わにしていたからかそれ以上追求してこなかった。
うーん。
もしかして私って部長に信用されてないのかなぁ。
若干の、いやかなりの寂しさを感じながら私は深くため息をつくのであった。