第34話 私に拒否権はないの?
文字数 2,510文字
翌日。
立春を迎えたというのに空気は全然春らしくなかった。
昨日のフルーツロールを朝食に摂ると安物の薄いコートに身を包んでアパートを出る。凜とした空気に自然と気が引き締まった。
吐く息が白い。
そして肌を刺すように北風が冷たい。
寒さに身を震わせながら駅に向かった。ホームに滑り込んできた電車に寒さから逃れるように乗車し満員電車の息苦しさを覚えつつ寒さから一時避難できたことにほっとする。
車窓越しに流れていく街並みを眺めた。
色彩の淡い家屋やビルに挟まれるようにぽっかりと公園の緑が見える。遠くにはパチンコ屋の大きな看板。
それらが彼方へ消えてしまうとテレビで目にしたことのある大手チェーンのファミレスが姿を現した。その奥には無駄に広い駐車場のあるスーパー。私はまだ利用したことはないがお店の規模だけで判じるなら品数は多いのかもしれない。
マンションらしき濃い灰色の建物が数棟あって何回か視界を塞ぐ。
合間に覗けた空は抜けるように青かった。
先輩、今ごろ福岡かなぁ。
ふとそんなことが頭に浮かび昨夜の彼の手の感触を思い出す。
あ、駄目だと意識するより先に顔が熱くなった。比例するように胸がとくんと鳴り鼓動を速める。
もし三浦部長を好きにならなかったら先輩を好きになったかもしれない。
私は頭を振った。
もし、を言ってもどうしようもないことはある。私が好きなのは三浦部長だ。北沢さんじゃない。
北沢さんは私の先輩。
とても優しい先輩。
それ以上でもそれ以下でもない。
……そうですよね、先輩?
突如、ブルブルと細かな振動がコートのポケットから伝わってくる。
私はスマホを取り出して画面を確認した。
中森さんからのメッセージだ。
あんた、他の男と食事に行ったんだって?
とりあえず後で面貸しなさい。
「……」
怒りマークを添えられた文面に私は頬を引きつらせる。一気に顔の熱が冷めた。それどころか背筋が寒くなってくる。
え?
もしかして昨日のあれ誰かに見られた?
中森さんに告げ口された?
数秒動けなくなった私はきっと石化していたのだろう。直接姿を見せなくても相手を石にできる中森さんは目デューサとしてかなり優秀だと思う。
うちの会社で働かせているのがもったいない。
「……」
設定雑な気もするけど。
レディースとか極道の女はどこ行った?
*
「大野」
朝イチに作成した書類を営業事務の子に回して自分のデスクに戻ろうとしたとき三浦部長に呼び止められる。くいくいと手招きする三浦部長に逆らえず私は彼の元へ向かった。
「あの、何ですか?」
「うん、超可愛い。癒される」
「はい?」
三浦部長の声は小さすぎて私にはよく聞こえない。
これ、そろそろやめてくれないかな。
聞き返すべきかどうか迷いつつも私はこの三浦部長の悪癖とも思われるつぶやきに一言物申したくなった。
「ええっと、いつも思ってたんですけど部長ってよく小声で何か言ってますよね」
「えっ」
三浦部長が肩をびくりとさせる。彼は表情を強ばらせて私から目を逸らした。
「そそそ、そうか? そそそ、そんな自覚はないんだがな」
「……」
いやその狼狽えっぷり、自覚ありますよね?
だいぶ声も裏返ってますけど。
私は少し踏み込んでみた。
「もしかして私への悪口ですか? だったら遠慮しなくても大丈夫ですよ。私、特に気にしたりしませんから」
大嘘である。
しかし、ぼそぼそ言われるくらいならはっきり言われたほうがマシなのは確かだ。
こそこそされるよりは精神衛生的にも楽である。
仕事ができないとかミスが多いとかなら自分でもわかっているし。
スタイルが貧相とかでもまあ本当のことだし。
ううっ、地味にメンタルダメージが……。
後で美味しい物でも食べよう。
強いお酒も飲もう。
お酒は終業後にだけど。
三浦部長の顔が赤くなった。どうやら部下に生意気を言われたからムカついたらしい。
「か、可愛くて堪らないなんてはっきり言えないだろ。というかあれか、このタイミングで告白しろってことか? 誘っているのか?」
「ん?」
またぼそぼそとつぶやく三浦部長に私は疑念を強めた。
そんなに私に聞かれたくないことを口にしているのだろうか。
うーん、私ってそこまで嫌われているのかぁ。
すんごいショックだなぁ。
「お、大野」
わざとらしくコホンと咳払いすると三浦部長は私をじっと見つめた。
顔の赤みが濃くなっていく。
「……」
うわっ、これは相当にご立腹だ。
指摘しないほうが良かったのかな?
「ぼぼぼ僕は君のことが……」
「失礼しまーすっ!」
三浦部長が声をどもらせていると聞き慣れた声が割り込んできた。
中森さんだ。
振り返った私と目が合うと彼女はつかつかと歩み寄ってきた。小脇に大判のバインダーを抱えていて、それで殴られたらとても痛そうだとか思ってしまう。
あれ?
中森さんの茶髪、うねうねの蛇になってない?
「三浦部長、これうちの課長からです」
彼女はバインダーを両手で持ち直すと三浦部長に差し出した。
「あ、ああ。ご苦労様」
やや戸惑い気味に応えて三浦部長が受け取る。彼はバインダーを広げて中の書類を確認するとパタンと閉じた。
「柱谷課長に無理を聞いてありがとうと伝えてくれ」
「はい」
中森さんは短く返事をすると私に視線を投げた。彼女の頭の上の蛇たちが一斉に「シャーッ!」と威嚇してくる。
ううっ、怖い。
てゆーかここで石にしたりしないよね?
「ところで三浦部長、彼女……大野さんをちょっと借りて良いですか?」
中森さんがとても同一人物とは思えない笑顔で尋ねた。
「ものすごく大事な話しがあるので」
「……べ、別に構わないが」
あ、三浦部長が中森さんに気圧された。
ひくひくと三浦部長が頬をひくつかせている。顔の赤みも薄れてむしろ青くなりかけていた。
わぁ、中森さん強い。
三浦部長まで怖がらせてる。
話が纏まったとばかりに中森さんが私の手をとった。異常なほどに優しい目つきで私を見て彼女は微笑む。それは恐怖を抱かずにいられない恐ろしさを伴った可愛らしい微笑みだった。
「じゃあちょっと面貸してね」
「……」
わ、私に拒否権はないの?
立春を迎えたというのに空気は全然春らしくなかった。
昨日のフルーツロールを朝食に摂ると安物の薄いコートに身を包んでアパートを出る。凜とした空気に自然と気が引き締まった。
吐く息が白い。
そして肌を刺すように北風が冷たい。
寒さに身を震わせながら駅に向かった。ホームに滑り込んできた電車に寒さから逃れるように乗車し満員電車の息苦しさを覚えつつ寒さから一時避難できたことにほっとする。
車窓越しに流れていく街並みを眺めた。
色彩の淡い家屋やビルに挟まれるようにぽっかりと公園の緑が見える。遠くにはパチンコ屋の大きな看板。
それらが彼方へ消えてしまうとテレビで目にしたことのある大手チェーンのファミレスが姿を現した。その奥には無駄に広い駐車場のあるスーパー。私はまだ利用したことはないがお店の規模だけで判じるなら品数は多いのかもしれない。
マンションらしき濃い灰色の建物が数棟あって何回か視界を塞ぐ。
合間に覗けた空は抜けるように青かった。
先輩、今ごろ福岡かなぁ。
ふとそんなことが頭に浮かび昨夜の彼の手の感触を思い出す。
あ、駄目だと意識するより先に顔が熱くなった。比例するように胸がとくんと鳴り鼓動を速める。
もし三浦部長を好きにならなかったら先輩を好きになったかもしれない。
私は頭を振った。
もし、を言ってもどうしようもないことはある。私が好きなのは三浦部長だ。北沢さんじゃない。
北沢さんは私の先輩。
とても優しい先輩。
それ以上でもそれ以下でもない。
……そうですよね、先輩?
突如、ブルブルと細かな振動がコートのポケットから伝わってくる。
私はスマホを取り出して画面を確認した。
中森さんからのメッセージだ。
あんた、他の男と食事に行ったんだって?
とりあえず後で面貸しなさい。
「……」
怒りマークを添えられた文面に私は頬を引きつらせる。一気に顔の熱が冷めた。それどころか背筋が寒くなってくる。
え?
もしかして昨日のあれ誰かに見られた?
中森さんに告げ口された?
数秒動けなくなった私はきっと石化していたのだろう。直接姿を見せなくても相手を石にできる中森さんは目デューサとしてかなり優秀だと思う。
うちの会社で働かせているのがもったいない。
「……」
設定雑な気もするけど。
レディースとか極道の女はどこ行った?
*
「大野」
朝イチに作成した書類を営業事務の子に回して自分のデスクに戻ろうとしたとき三浦部長に呼び止められる。くいくいと手招きする三浦部長に逆らえず私は彼の元へ向かった。
「あの、何ですか?」
「うん、超可愛い。癒される」
「はい?」
三浦部長の声は小さすぎて私にはよく聞こえない。
これ、そろそろやめてくれないかな。
聞き返すべきかどうか迷いつつも私はこの三浦部長の悪癖とも思われるつぶやきに一言物申したくなった。
「ええっと、いつも思ってたんですけど部長ってよく小声で何か言ってますよね」
「えっ」
三浦部長が肩をびくりとさせる。彼は表情を強ばらせて私から目を逸らした。
「そそそ、そうか? そそそ、そんな自覚はないんだがな」
「……」
いやその狼狽えっぷり、自覚ありますよね?
だいぶ声も裏返ってますけど。
私は少し踏み込んでみた。
「もしかして私への悪口ですか? だったら遠慮しなくても大丈夫ですよ。私、特に気にしたりしませんから」
大嘘である。
しかし、ぼそぼそ言われるくらいならはっきり言われたほうがマシなのは確かだ。
こそこそされるよりは精神衛生的にも楽である。
仕事ができないとかミスが多いとかなら自分でもわかっているし。
スタイルが貧相とかでもまあ本当のことだし。
ううっ、地味にメンタルダメージが……。
後で美味しい物でも食べよう。
強いお酒も飲もう。
お酒は終業後にだけど。
三浦部長の顔が赤くなった。どうやら部下に生意気を言われたからムカついたらしい。
「か、可愛くて堪らないなんてはっきり言えないだろ。というかあれか、このタイミングで告白しろってことか? 誘っているのか?」
「ん?」
またぼそぼそとつぶやく三浦部長に私は疑念を強めた。
そんなに私に聞かれたくないことを口にしているのだろうか。
うーん、私ってそこまで嫌われているのかぁ。
すんごいショックだなぁ。
「お、大野」
わざとらしくコホンと咳払いすると三浦部長は私をじっと見つめた。
顔の赤みが濃くなっていく。
「……」
うわっ、これは相当にご立腹だ。
指摘しないほうが良かったのかな?
「ぼぼぼ僕は君のことが……」
「失礼しまーすっ!」
三浦部長が声をどもらせていると聞き慣れた声が割り込んできた。
中森さんだ。
振り返った私と目が合うと彼女はつかつかと歩み寄ってきた。小脇に大判のバインダーを抱えていて、それで殴られたらとても痛そうだとか思ってしまう。
あれ?
中森さんの茶髪、うねうねの蛇になってない?
「三浦部長、これうちの課長からです」
彼女はバインダーを両手で持ち直すと三浦部長に差し出した。
「あ、ああ。ご苦労様」
やや戸惑い気味に応えて三浦部長が受け取る。彼はバインダーを広げて中の書類を確認するとパタンと閉じた。
「柱谷課長に無理を聞いてありがとうと伝えてくれ」
「はい」
中森さんは短く返事をすると私に視線を投げた。彼女の頭の上の蛇たちが一斉に「シャーッ!」と威嚇してくる。
ううっ、怖い。
てゆーかここで石にしたりしないよね?
「ところで三浦部長、彼女……大野さんをちょっと借りて良いですか?」
中森さんがとても同一人物とは思えない笑顔で尋ねた。
「ものすごく大事な話しがあるので」
「……べ、別に構わないが」
あ、三浦部長が中森さんに気圧された。
ひくひくと三浦部長が頬をひくつかせている。顔の赤みも薄れてむしろ青くなりかけていた。
わぁ、中森さん強い。
三浦部長まで怖がらせてる。
話が纏まったとばかりに中森さんが私の手をとった。異常なほどに優しい目つきで私を見て彼女は微笑む。それは恐怖を抱かずにいられない恐ろしさを伴った可愛らしい微笑みだった。
「じゃあちょっと面貸してね」
「……」
わ、私に拒否権はないの?