第48話 これで借りは返したわよ
文字数 3,569文字
優子さんが帰ってから私は経理課に行った。
「やあ、大野くん」
フロアに入ると可愛い系イケメンの柱谷課長が立ち上がって出迎えてくれる。彼はニコニコとしながら手に持っていたスマホを後ろ手に隠した。
「ん? 柱谷課長、今何か隠しませんでした?」
「あははーっ、何のことかな」
「……」
手を後ろに回したまま柱谷課長が何かをしている。微かに聞こえるのはスマホを高速でタップする音だ。
これ、スマホを操作してるんだよね?
わぁ、器用だなぁ。
などと感心してみたり。
「そ、それで? 経理課に何の用かな?」
「えっと、中森さんに会いに来ました」
「あ、うん。中森くんね」
表情を全く崩さずに柱谷課長が無人のデスクへと顔を向ける。きちんと片づけられたそこは何となく中森さんの性格が表れているかのようだった。
私は尋ねた。
「不在ですか?」
「不在だねぇ。まあ、まだ出社してないだけなんだけど」
男性アイドルみたいな声が妙に寂しげだ。
うーん、中森さんいないのかぁ。
お礼を言いたかったんだけどな。
私が残念に思っていると柱谷課長が操作を終えたのかスマホをポケットに仕舞った。ニコニコ笑顔のまま小さく息をつく。
まるでミッションを一つクリアしたかのようだ。
「そういえば」
彼はどこかごまかすように言った。
「大野くん大変だったねぇ」
これ、私と三浦部長がクビになりかけた件だよね。
「あ、はい、大変……」
でした、と続けようとした私の返事より早くとんでもないセリフが飛んできた。
「取引先にホテルに連れ込まれたんだって?」
「なっ」
「三浦部長が乗り込まなかったら食べられちゃってたねぇ」
「……」
えーと。
どうしよう、変な噂が広まってるかも。
とりあえず訂正することにした。
「あのー課長どこで聞いたか知りませんけどその話間違ってますから。私、別にホテルに連れ込まれてないですよ」
「そうなの?」
柱谷課長の目が丸くなった。
わぁ、この人変な噂信じてたんだ。
ショックだなぁ。
私が軽く凹んでいるとテンション低めの声がフロアの入り口から聞こえてきた。
「おはようございます」
細かくウェーブした茶髪もへなっとした感じになっていてどこか元気がない。
これ蛇になってたらへばっていたのかな?
「中森くん、朝から大分お疲れだね。でもそんな君も色気があって素敵だよ」
「課長、朝っぱらから気持ち悪いこと言うのやめてください」
心底うんざりしたように返すと中森さんは自分のデスクへと向かう。ふらふらとした足取りはかなり危なっかしい。
中森さん、昨夜は寝てないとか?
ヨツビシへの大量のクレームと密告は昨夜のうちに行われていた。その速さと威力を短時間でコントロールするのは相当難しかったのではないか。
それに長谷部さんの件も。
私はあれも中森さんの仕業だと思っている。
ただ、中森さんは北沢副社長に恩義を感じていた。それなのに北沢副社長側の人間を貶めたりするだろうか?
その行為は自分の恩人に対する背信にならないのか?
無言で疑問を並べていると中森さんが私に告げた。
「話なら後にしてね。今はあんたに付き合う余裕ないから」
「そ、そっか。じゃあ、また後で」
うん。
中森さんにこれ以上無理させたら駄目だよね。
私はフロアの外に出ようとして足を止めた。
せめてこれだけは言っておかないと。
「中森さん、ありがとうね」
「お礼もいいから」
しっしっと手で追い払うような仕草をして中森さんが応じる。本当に面倒そうな様子なので私は内心苦笑してしまった。
廊下へと足を向けると背後で「それから」と声がする。
私にかな? と思い立ち止まりかけたが違った。
「課長、いくらあたしの出社が遅いからってメッセージを連発するのはやめてくれませんか。正直、すごい迷惑です。それともあれですか? 嫌がらせですか? いくら課長があたしの上司でもやっていいことと悪いことがあるんですよ。そんなこともわからないくらい残念な頭なんですか? 全く、良いのは顔だけだなんてどうしようもなさすぎですよ。そんなんだから未だに独身なんですよ。そもそも……」
ワォ。
これ関わっちゃ駄目な奴だ。
私はそそくさと経理課を後にした。
柱谷課長、お気の毒様。
でもメッセージの連発は私も嫌だなぁ。
*
お昼に経理課に行ってみると中森さんは少し回復していた。
「ここじゃ何だから場所を変えない?」
中森さんの提案に反対する理由もなく私は先を歩きだした彼女について行く。
私たちは会社からほど近い喫茶店に場を移した。古めかしいお店だけど店内の雰囲気はいい。所々に置かれたウサギの小物が何とも可愛らしかった。店主の趣味だろうか。
中森さんは店のマスターらしき白髪の男性と話をすると店の奥手の階段へと向かった。私も白髪の男性に会釈しつつ中森さんの後を追う。
階段の先はいくつかの小部屋のある廊下だった。中森さんは迷うことなく一番奥の小部屋へと進んだ。灰色のウサギのプレートのついたドアを開けて中に入る。
室内にはアンティーク調の椅子とテーブルがあるだけだった。暖色系の壁紙の貼られた壁も実にシンプルだ。
「そこ、座ってて」
手で示された椅子に私は腰を下ろす。
中森さんはすぐに座らず立ったままスマホを操作した。指捌きが速い。これがPCのキーボードならちょっとしたハッカーに見えただろう。
何分かして納得したように口許を緩めると彼女は私の反対側に品良く座った。それを待っていたかのように店員が入室して来て二人分のお冷と紅茶セットそれに数種類のサンドイッチをテーブルの上に並べていく。
「ごゆっくりどうぞ」
「ありがとう」
「あ、ありがとうございます」
店員が部屋を出て行くと中森さんはスマホを私の方に差し出して二つのカップに紅茶を注ぐ。その動きはとても上品で映画のワンシーンを見ているようだった。
「それ、ヨツビシの広報がさっき正式に発表した謝罪文。これでカドベニの脅威は無くなったはずよ」
画面にはヨツビシのサイトが映っていた。
硬い文体の文章にはヨツビシ工業の社員が取引先の女子社員に猥褻目的で連れ去ろうとしたこと、それにその上司が事件を揉み消そうとしていたことが記されていた。
件の社員と上司には厳罰が下されるとも書かれている。
私は顔を上げて中森さんを見た。
「これ、中森さんがやったんだよね?」
言ってから自分でも間抜けな質問だったと思う。
うん、お友達ネットワークの力なんだよね。
でも、やっぱり怖いなぁ。
「別に大したことしてないわよ」
涼しい顔で中森さんが紅茶を飲む。
店内に流れるBGMと相まってその姿がとても優雅に見えた。けれどそれは単なる優雅さではない。そこはかとなく危険な雰囲気を孕んだ優雅さだ。
ま、中森さん自体がレディースで極道な女で目デューサな人だもんね。
怖い怖い。
などと思っていると中森さんが睨んできた。
「あんた、失礼なこと考えてない?」
「そ、そんなことないよ」
私は慌てて首を振った。
あわわ、妙なところで鋭いなぁ。
「ま、いいわ。とにかくこれで借りは返したわよ」
「えっ」
「あんたと三浦部長をくっつけて新村くんの目を醒まさせようって気持ちには変わりないけど、以前酔っ払った福西(ネズミおじさんのこと)に絡まれていたあたしを助けてくれたでしょ? あと、家に帰れなくなったあたしを止めてくれた。借りっぱなしって結構気持ち悪いのよね」
「そんな、貸しだなんて思ってないよ」
「あんたがそうでもあたしは気になるの」
中森さんの目つきがさらに鋭くなった。
「それとも何? 新村くんに振られかけてるあたしに憐れみでもかけてるつもり?」
「……」
あ、あれ?
何かおかしな方向に向かってない?
うーん、新村くん関連になると途端に敵意が剥き出しになるからなぁ。
私は頬を引きつらせながら話を逸らした。
「えっと、大阪支社の長谷部さんの異動がなしになったんだけど、あれも中森さんがやったんだよね」
「あたしじゃないわよ」
中森さんの目が泳いだ。
うわっ、わかりやすい嘘だ。
「どうしてあたしが北沢副社長の意向に逆らうようなことをしないといけないの。あんた馬鹿じゃない? 胸だけでなく頭も残念だなんて可哀想に」
「……」
え。
そこまで言われるの?
ちょっと酷くない?
そりゃ、中森さんに比べたら私の胸はぺったんだけど。
「でも、どこかの義理堅い人が手を回してくれたんでしょうね」
ふっ、と中森さんが笑む。
「その人にはその人の仁義があるのよ。だから表立ったことは出来ない。そのあたりは理解して欲しいわね」
「あ、うん」
そっか。
中森さんにも事情はあるもんね。
私は少し芽生えた怒りをごまかすように紅茶に口をつける。
ふわっと口内に広がる紅茶の味が気持ちを鎮めてくれるような気がした。
「やあ、大野くん」
フロアに入ると可愛い系イケメンの柱谷課長が立ち上がって出迎えてくれる。彼はニコニコとしながら手に持っていたスマホを後ろ手に隠した。
「ん? 柱谷課長、今何か隠しませんでした?」
「あははーっ、何のことかな」
「……」
手を後ろに回したまま柱谷課長が何かをしている。微かに聞こえるのはスマホを高速でタップする音だ。
これ、スマホを操作してるんだよね?
わぁ、器用だなぁ。
などと感心してみたり。
「そ、それで? 経理課に何の用かな?」
「えっと、中森さんに会いに来ました」
「あ、うん。中森くんね」
表情を全く崩さずに柱谷課長が無人のデスクへと顔を向ける。きちんと片づけられたそこは何となく中森さんの性格が表れているかのようだった。
私は尋ねた。
「不在ですか?」
「不在だねぇ。まあ、まだ出社してないだけなんだけど」
男性アイドルみたいな声が妙に寂しげだ。
うーん、中森さんいないのかぁ。
お礼を言いたかったんだけどな。
私が残念に思っていると柱谷課長が操作を終えたのかスマホをポケットに仕舞った。ニコニコ笑顔のまま小さく息をつく。
まるでミッションを一つクリアしたかのようだ。
「そういえば」
彼はどこかごまかすように言った。
「大野くん大変だったねぇ」
これ、私と三浦部長がクビになりかけた件だよね。
「あ、はい、大変……」
でした、と続けようとした私の返事より早くとんでもないセリフが飛んできた。
「取引先にホテルに連れ込まれたんだって?」
「なっ」
「三浦部長が乗り込まなかったら食べられちゃってたねぇ」
「……」
えーと。
どうしよう、変な噂が広まってるかも。
とりあえず訂正することにした。
「あのー課長どこで聞いたか知りませんけどその話間違ってますから。私、別にホテルに連れ込まれてないですよ」
「そうなの?」
柱谷課長の目が丸くなった。
わぁ、この人変な噂信じてたんだ。
ショックだなぁ。
私が軽く凹んでいるとテンション低めの声がフロアの入り口から聞こえてきた。
「おはようございます」
細かくウェーブした茶髪もへなっとした感じになっていてどこか元気がない。
これ蛇になってたらへばっていたのかな?
「中森くん、朝から大分お疲れだね。でもそんな君も色気があって素敵だよ」
「課長、朝っぱらから気持ち悪いこと言うのやめてください」
心底うんざりしたように返すと中森さんは自分のデスクへと向かう。ふらふらとした足取りはかなり危なっかしい。
中森さん、昨夜は寝てないとか?
ヨツビシへの大量のクレームと密告は昨夜のうちに行われていた。その速さと威力を短時間でコントロールするのは相当難しかったのではないか。
それに長谷部さんの件も。
私はあれも中森さんの仕業だと思っている。
ただ、中森さんは北沢副社長に恩義を感じていた。それなのに北沢副社長側の人間を貶めたりするだろうか?
その行為は自分の恩人に対する背信にならないのか?
無言で疑問を並べていると中森さんが私に告げた。
「話なら後にしてね。今はあんたに付き合う余裕ないから」
「そ、そっか。じゃあ、また後で」
うん。
中森さんにこれ以上無理させたら駄目だよね。
私はフロアの外に出ようとして足を止めた。
せめてこれだけは言っておかないと。
「中森さん、ありがとうね」
「お礼もいいから」
しっしっと手で追い払うような仕草をして中森さんが応じる。本当に面倒そうな様子なので私は内心苦笑してしまった。
廊下へと足を向けると背後で「それから」と声がする。
私にかな? と思い立ち止まりかけたが違った。
「課長、いくらあたしの出社が遅いからってメッセージを連発するのはやめてくれませんか。正直、すごい迷惑です。それともあれですか? 嫌がらせですか? いくら課長があたしの上司でもやっていいことと悪いことがあるんですよ。そんなこともわからないくらい残念な頭なんですか? 全く、良いのは顔だけだなんてどうしようもなさすぎですよ。そんなんだから未だに独身なんですよ。そもそも……」
ワォ。
これ関わっちゃ駄目な奴だ。
私はそそくさと経理課を後にした。
柱谷課長、お気の毒様。
でもメッセージの連発は私も嫌だなぁ。
*
お昼に経理課に行ってみると中森さんは少し回復していた。
「ここじゃ何だから場所を変えない?」
中森さんの提案に反対する理由もなく私は先を歩きだした彼女について行く。
私たちは会社からほど近い喫茶店に場を移した。古めかしいお店だけど店内の雰囲気はいい。所々に置かれたウサギの小物が何とも可愛らしかった。店主の趣味だろうか。
中森さんは店のマスターらしき白髪の男性と話をすると店の奥手の階段へと向かった。私も白髪の男性に会釈しつつ中森さんの後を追う。
階段の先はいくつかの小部屋のある廊下だった。中森さんは迷うことなく一番奥の小部屋へと進んだ。灰色のウサギのプレートのついたドアを開けて中に入る。
室内にはアンティーク調の椅子とテーブルがあるだけだった。暖色系の壁紙の貼られた壁も実にシンプルだ。
「そこ、座ってて」
手で示された椅子に私は腰を下ろす。
中森さんはすぐに座らず立ったままスマホを操作した。指捌きが速い。これがPCのキーボードならちょっとしたハッカーに見えただろう。
何分かして納得したように口許を緩めると彼女は私の反対側に品良く座った。それを待っていたかのように店員が入室して来て二人分のお冷と紅茶セットそれに数種類のサンドイッチをテーブルの上に並べていく。
「ごゆっくりどうぞ」
「ありがとう」
「あ、ありがとうございます」
店員が部屋を出て行くと中森さんはスマホを私の方に差し出して二つのカップに紅茶を注ぐ。その動きはとても上品で映画のワンシーンを見ているようだった。
「それ、ヨツビシの広報がさっき正式に発表した謝罪文。これでカドベニの脅威は無くなったはずよ」
画面にはヨツビシのサイトが映っていた。
硬い文体の文章にはヨツビシ工業の社員が取引先の女子社員に猥褻目的で連れ去ろうとしたこと、それにその上司が事件を揉み消そうとしていたことが記されていた。
件の社員と上司には厳罰が下されるとも書かれている。
私は顔を上げて中森さんを見た。
「これ、中森さんがやったんだよね?」
言ってから自分でも間抜けな質問だったと思う。
うん、お友達ネットワークの力なんだよね。
でも、やっぱり怖いなぁ。
「別に大したことしてないわよ」
涼しい顔で中森さんが紅茶を飲む。
店内に流れるBGMと相まってその姿がとても優雅に見えた。けれどそれは単なる優雅さではない。そこはかとなく危険な雰囲気を孕んだ優雅さだ。
ま、中森さん自体がレディースで極道な女で目デューサな人だもんね。
怖い怖い。
などと思っていると中森さんが睨んできた。
「あんた、失礼なこと考えてない?」
「そ、そんなことないよ」
私は慌てて首を振った。
あわわ、妙なところで鋭いなぁ。
「ま、いいわ。とにかくこれで借りは返したわよ」
「えっ」
「あんたと三浦部長をくっつけて新村くんの目を醒まさせようって気持ちには変わりないけど、以前酔っ払った福西(ネズミおじさんのこと)に絡まれていたあたしを助けてくれたでしょ? あと、家に帰れなくなったあたしを止めてくれた。借りっぱなしって結構気持ち悪いのよね」
「そんな、貸しだなんて思ってないよ」
「あんたがそうでもあたしは気になるの」
中森さんの目つきがさらに鋭くなった。
「それとも何? 新村くんに振られかけてるあたしに憐れみでもかけてるつもり?」
「……」
あ、あれ?
何かおかしな方向に向かってない?
うーん、新村くん関連になると途端に敵意が剥き出しになるからなぁ。
私は頬を引きつらせながら話を逸らした。
「えっと、大阪支社の長谷部さんの異動がなしになったんだけど、あれも中森さんがやったんだよね」
「あたしじゃないわよ」
中森さんの目が泳いだ。
うわっ、わかりやすい嘘だ。
「どうしてあたしが北沢副社長の意向に逆らうようなことをしないといけないの。あんた馬鹿じゃない? 胸だけでなく頭も残念だなんて可哀想に」
「……」
え。
そこまで言われるの?
ちょっと酷くない?
そりゃ、中森さんに比べたら私の胸はぺったんだけど。
「でも、どこかの義理堅い人が手を回してくれたんでしょうね」
ふっ、と中森さんが笑む。
「その人にはその人の仁義があるのよ。だから表立ったことは出来ない。そのあたりは理解して欲しいわね」
「あ、うん」
そっか。
中森さんにも事情はあるもんね。
私は少し芽生えた怒りをごまかすように紅茶に口をつける。
ふわっと口内に広がる紅茶の味が気持ちを鎮めてくれるような気がした。