第33話 男はどいつもこいつもみんな狼だからな
文字数 2,134文字
タクシーでアパートまで送るという北沢さんの申し出を私は断った。
「じゃあせめて駅まで送らせてくれよ。いいだろ?」
「あ、はい」
少し気圧されて私はうなずいてしまう。
私の片手はまだ北沢さんのコートのポケットの中だった。
しかも北沢さんの手と繋がったままだ。時々彼が指で私の手のひらを擦ってくるのでそれが妙にくすぐったい。痛いのなら拒否できるのだけれどそうではないから困ってしまう。
ううっ、三浦部長ごめんなさい。
別に部長と恋人関係でも何でもないのに罪悪感を覚えてしまう。
私は北沢さんの手から逃れようとしかけてはやめるを繰り返した。
交差点を一つ曲がって駅へと伸びる一本道に出る。大通りということもあって交通量は大分増えていた。
歩道を歩いているのに北沢さんが私を車から庇うように身を寄せてくる。もちろん彼が歩いているのは車道側だ。カレー店を出てから、いや会社からカレー店に向かうときも彼はずっと車道側を歩いてくれた。
私たちの横をカップルらしき男女が通り過ぎていく。
もしかしてあの人たちの目にも私たちがカップルに見えるのかな?
不意にそんな考えが浮かんで顔が熱くなる。せっかくこの状況に慣れてきた心臓がまたとくんと高鳴った。一度速まったリズムはそのまま収束することなく一段また一段と加速していく。
とくとくとくとくと打ちつける鼓動は私から思考を奪おうとする。何とか踏み留まって北沢さんへと傾き欠けた心と体を私は引き戻した。
無理に何か言ってみる。
「ききき、今日は冷えますね」
我ながら酷いセリフである。
でもこれを口にするのでさえ相当に苦労したのだ。
うん、頑張った私。
北沢さんが口の端を上げた。
「おいおい、声が震えてるぞ。そんなに寒いのか?」
「さささ、寒いですよ」
嘘である。
まあ安物の薄いコートだから寒いのかもしれないけどドキドキしすぎてそれどころではなかったりする。
実際の寒さよりも身体の火照りのほうが問題なのだ。
や、やっぱり北沢さんの手から逃れてポケットの外に手を出さないと駄目かな。
ちらと彼のコートのポケットに目をやる。彼の手と私の手が入ったポケットはその存在を主張するかのように大きく膨らんでいた。
「そうだな」
北沢さんの二重瞼の目が私のコートを見つめる。数秒の沈黙の後に彼は言った。
「コート、もっとあったかそうなの買ってやろうか?」
「えっ」
「それすげぇ薄いだろ。そんなんじゃ凍えちまうぞ」
口調が乱暴だけど声音には私への気遣いが感じられた。先輩は優しい。地方に飛ばされる前も今も彼は優しい。
優しいから薄いコートを着ている私に新しいコートを買い与えようとしてくれている。
それはとてもありがたいことだ。
ありがたいことなんだけど……。
「えっと、お気持ちは嬉しいんですけど遠慮しておきますね」
「ん? 別に遠慮しなくてもいいんだぞ。お前のために買ってやりたいだけなんだからな」
「それ、他の子が聞いたら誤解しちゃいますよ」
「誤解も何もお前にしか言わないし」
「そういうところですよ」
私が口を尖らせて指摘すると北沢さんは不思議そうに首を傾げた。その仕草はちょっと可愛い。
買ってやると要らないを繰り返しているうちに駅に着いた。コンコースには沢山の人がいてほんの僅かだけど外より暖かい。北沢さんの抵抗はあったけど私はさすがに恥ずかしくて堪らないので繋いだ手を放してもらった。
北沢さんの温もりを失った手はその温度を求めるように冷えていった。しかし、私はあえてそのことを考えないように努める。
代わりに頭を下げた。
「先輩、今日はごちそうさまでした」
「本当ならまゆかをお持ち帰りしたいんだけどな」
先輩が悪戯っぽく笑む。
「まあ明日も早いしまた今度でいいか」
「いやそれも遠慮したいんですけど」
「ははは、まゆかは遠慮深いなぁ」
北沢さんは心底愉快そうに笑って私の頭を手でポンポンと叩いた。まるで小さな子供のような扱いなのになぜか嫌ではない私がいて自分でもびっくりしてしまう。
耳まで熱くなっていくのを覚えながら私は唇をつんとさせた。
北沢さんが少しだけ真面目な表情をする。キリッとしたイケメンの顔はなかなかに素敵である。これが三浦部長ならご飯三杯はいける。
「俺は明日朝イチの便で福岡に戻る。しばらく会えなくなるけど泣いて寂しがるなよ」
「あのー、泣いたりなんかしませんよ」
「そこは泣いていい。むしろ泣け」
「……」
先輩、無茶苦茶です。
まあいい、と北沢さんは言って一つ息をすると言葉を接いだ。
「それと俺のいない間におかしな男に引っかかるなよ。男なんてどいつもこいつもみんな狼なんだからな」
「……」
じゃあ先輩も狼なんですね。
とはさすがに言えず。
喉まで出かかったのは内緒だ。
改札で私たちは別れた。
北沢さんは片手を振って駅の奥へと向かう私を見送ってくれた。
「あいつ自覚ない上に隙が多いからな。俺が留守しているうちに……なんて勘弁だぜ」
一度私が振り返ったときに北沢さんが何かをつぶやいていたみたいだけどその内容まではわからなかった。
ま、いっか。
先輩、福岡でも頑張ってくださいね。
無言でエールを贈ると私はホームへと続く階段を上り始めるのであった。
「じゃあせめて駅まで送らせてくれよ。いいだろ?」
「あ、はい」
少し気圧されて私はうなずいてしまう。
私の片手はまだ北沢さんのコートのポケットの中だった。
しかも北沢さんの手と繋がったままだ。時々彼が指で私の手のひらを擦ってくるのでそれが妙にくすぐったい。痛いのなら拒否できるのだけれどそうではないから困ってしまう。
ううっ、三浦部長ごめんなさい。
別に部長と恋人関係でも何でもないのに罪悪感を覚えてしまう。
私は北沢さんの手から逃れようとしかけてはやめるを繰り返した。
交差点を一つ曲がって駅へと伸びる一本道に出る。大通りということもあって交通量は大分増えていた。
歩道を歩いているのに北沢さんが私を車から庇うように身を寄せてくる。もちろん彼が歩いているのは車道側だ。カレー店を出てから、いや会社からカレー店に向かうときも彼はずっと車道側を歩いてくれた。
私たちの横をカップルらしき男女が通り過ぎていく。
もしかしてあの人たちの目にも私たちがカップルに見えるのかな?
不意にそんな考えが浮かんで顔が熱くなる。せっかくこの状況に慣れてきた心臓がまたとくんと高鳴った。一度速まったリズムはそのまま収束することなく一段また一段と加速していく。
とくとくとくとくと打ちつける鼓動は私から思考を奪おうとする。何とか踏み留まって北沢さんへと傾き欠けた心と体を私は引き戻した。
無理に何か言ってみる。
「ききき、今日は冷えますね」
我ながら酷いセリフである。
でもこれを口にするのでさえ相当に苦労したのだ。
うん、頑張った私。
北沢さんが口の端を上げた。
「おいおい、声が震えてるぞ。そんなに寒いのか?」
「さささ、寒いですよ」
嘘である。
まあ安物の薄いコートだから寒いのかもしれないけどドキドキしすぎてそれどころではなかったりする。
実際の寒さよりも身体の火照りのほうが問題なのだ。
や、やっぱり北沢さんの手から逃れてポケットの外に手を出さないと駄目かな。
ちらと彼のコートのポケットに目をやる。彼の手と私の手が入ったポケットはその存在を主張するかのように大きく膨らんでいた。
「そうだな」
北沢さんの二重瞼の目が私のコートを見つめる。数秒の沈黙の後に彼は言った。
「コート、もっとあったかそうなの買ってやろうか?」
「えっ」
「それすげぇ薄いだろ。そんなんじゃ凍えちまうぞ」
口調が乱暴だけど声音には私への気遣いが感じられた。先輩は優しい。地方に飛ばされる前も今も彼は優しい。
優しいから薄いコートを着ている私に新しいコートを買い与えようとしてくれている。
それはとてもありがたいことだ。
ありがたいことなんだけど……。
「えっと、お気持ちは嬉しいんですけど遠慮しておきますね」
「ん? 別に遠慮しなくてもいいんだぞ。お前のために買ってやりたいだけなんだからな」
「それ、他の子が聞いたら誤解しちゃいますよ」
「誤解も何もお前にしか言わないし」
「そういうところですよ」
私が口を尖らせて指摘すると北沢さんは不思議そうに首を傾げた。その仕草はちょっと可愛い。
買ってやると要らないを繰り返しているうちに駅に着いた。コンコースには沢山の人がいてほんの僅かだけど外より暖かい。北沢さんの抵抗はあったけど私はさすがに恥ずかしくて堪らないので繋いだ手を放してもらった。
北沢さんの温もりを失った手はその温度を求めるように冷えていった。しかし、私はあえてそのことを考えないように努める。
代わりに頭を下げた。
「先輩、今日はごちそうさまでした」
「本当ならまゆかをお持ち帰りしたいんだけどな」
先輩が悪戯っぽく笑む。
「まあ明日も早いしまた今度でいいか」
「いやそれも遠慮したいんですけど」
「ははは、まゆかは遠慮深いなぁ」
北沢さんは心底愉快そうに笑って私の頭を手でポンポンと叩いた。まるで小さな子供のような扱いなのになぜか嫌ではない私がいて自分でもびっくりしてしまう。
耳まで熱くなっていくのを覚えながら私は唇をつんとさせた。
北沢さんが少しだけ真面目な表情をする。キリッとしたイケメンの顔はなかなかに素敵である。これが三浦部長ならご飯三杯はいける。
「俺は明日朝イチの便で福岡に戻る。しばらく会えなくなるけど泣いて寂しがるなよ」
「あのー、泣いたりなんかしませんよ」
「そこは泣いていい。むしろ泣け」
「……」
先輩、無茶苦茶です。
まあいい、と北沢さんは言って一つ息をすると言葉を接いだ。
「それと俺のいない間におかしな男に引っかかるなよ。男なんてどいつもこいつもみんな狼なんだからな」
「……」
じゃあ先輩も狼なんですね。
とはさすがに言えず。
喉まで出かかったのは内緒だ。
改札で私たちは別れた。
北沢さんは片手を振って駅の奥へと向かう私を見送ってくれた。
「あいつ自覚ない上に隙が多いからな。俺が留守しているうちに……なんて勘弁だぜ」
一度私が振り返ったときに北沢さんが何かをつぶやいていたみたいだけどその内容まではわからなかった。
ま、いっか。
先輩、福岡でも頑張ってくださいね。
無言でエールを贈ると私はホームへと続く階段を上り始めるのであった。