第29話 うちの会社って懐が深いよね
文字数 2,979文字
「……ったく、もう子供じゃないんだぞ」
両腕を組んで立つ三浦部長は床に正座する優子さんを見下ろしていた。
「はい、ごめんなさい」
身を縮ませて反省する優子さんが応える。豆撒きというか三浦部長への襲撃から数分後、武器(豆撒き用の豆)を取り上げられた彼女は三浦部長のお叱りを受けていた。
あーあ、言わんこっちゃない。
ノートPCのキーを打つ手を止めて私は嘆息した。
私より年上の優子さんがとても幼く見えて、とにかく残念感がハンパなくてため息が長くなる。エキゾチックな雰囲気の美人が台なしだった。
「それで? 何しに来た?」
三浦部長の声はものすごく冷ややかだ。
険しい顔のイケメンがこんな声で訊いてきたら私なら震え上がってしまう。絶対無理。
「まさか本当に豆撒きしに来ただけだなんてことないよな?」
「あ、えっとね」
優子さんが三浦部長の視線から逃れるように顔を背ける。その仕草が憂いを帯びているようでちょっと色っぽい。
三浦部長の口角が一段下がった。
「何だ? はっきり言え」
「いや、だってほら去年もやった訳だし。こういうのは毎年続けて恒例行事にするのが正しい日本の在り方だと思わない?」
うわっ、マジで言ってるのこの人。
やっぱり滅茶苦茶だ。
というか、今さらだけどこんな人が人事課の課長だなんてうちの会社大丈夫かな?
そりゃまあ、仕事の面では有能かもしれないけど。
三浦部長が目を閉じてはあっと息をついた。それこそ肺の空気を全部吐き出してしまうのではないかというくらい盛大なため息だ。
「君を見てるとつくづくこの会社の懐の深さを思い知らされるよ」
「……」
あ、そういう捉え方もあるんだ。
「あーいや待って」
半ば見放しかけた様子の三浦部長の態度に優子さんが慌てて立ち上がった。
「ま、豆撒きだけじゃないよ。用事あった。今思いついたから待って」
「……」
優子さん。
今思いついたって言いませんでした?
私と同じことを思ったのか半眼で三浦部長が優子さんを睨む。無言で彼は続けるよう促した。
「あ、あのね、この前の取締役会で新たに第三事業部を作ろうって話しが出たの」
「ああ、その話か」
三浦部長が首肯した。
「でもそれはまだ先の話だろ」
「それが割と具体的なところまで進んでるのよ」
優子さんがなぜか得意げに胸を張った。
いや、そこ胸を張るところじゃないよね。
「武田常務が女性社員に部長を任せようとしてたんだけどそこに北沢副社長が待ったをかけたの。ほら、副社長には地方に飛ばされ……じゃなくて転属中の息子さんがいるでしょ? その人を本社に呼び戻して第三事業部の部長に据えたいみたいなのよ」
「ふむ」
三浦部長が中空を見遣る。考えを纏めるかのように数秒彼は黙った。
へぇ、北沢副社長って息子さんがいたんだ……。
てか、副社長の身内なのに地方に飛ばされちゃってるんだね。
軽い驚きを伴いつつ私はそんなふうに思ってしまう。
まあ、偉いさんの子供だからってみんな本社勤務じゃないといけないって規則もないしね。
そんな規則があったら私なんか居る場所もないだろうし。
「北沢くんか」
三浦部長の声が漏れる。
部内には私と三浦部長と優子さんの三人がいるだけでとても静かだ。そのせいか彼の声は小さくてもよく聞こえた。
「彼は少し変わっているというか想定外のことをする男だからな。入社してすぐに海外事業部に配属されたのにその先の海外赴任を蹴り続けているし。エリートコースを自ら潰しているのは父親に対する当てつけだって聞いたことがあるぞ」
「あーそれ私も聞いた。でもそれだとおかしくない? 親子の仲が悪かったら副社長も息子を本社に呼び戻したいなんて思わないでしょ?」
「時として感情は無意味だからな。利用できるとなればうまくいっていない関係だろうと身内も利用する。そのくらいやってのけるぞあのタヌキは」
わあ、タヌキだって。
本当のことだけどなかなかに酷い言い様だなぁ。
もしかして部長って副社長のこと良く思ってないとか?
私の疑問に答えるように優子さんが言った。
「たっちゃんは常務派だもんね。私もあの副社長は苦手かなぁ。愛想はいいんだけど目が笑ってないんだもん」
私は北沢副社長のことを考えてみた。
記憶が正しければ北沢副社長は今年で五十六歳。武田常務と同期入社のいわばライバルだ。どっしり、あるいはどどんといった表現の似合う体格の持ち主でふくよかで丸みのある顔はまさしくタヌキを連想させるものだった。
武田常務が美形なのに対して北沢副社長はどちらかと言うと愛嬌のある顔といっていい。あのどこか憎めない容貌は人心掌握において非常に役に立っていた。
しかし、彼は見た目だけではなく知略と策謀を巡らせて現在の地位にのし上がったという噂がある。
でも見た目はただのタヌキおじさんなんだよなぁ。
うーん、その息子かぁ。
やっぱりタヌキ顔なのかな?
「あの北沢ジュニアが帰って来たらまたうちの女子社員も騒がしくなるでしょうねぇ」
優子さんが少しいやらしい笑みを浮かべた。
「ただ本人は見た目のちゃらさに反して結構女性関係はクリーンなのよね。うちの新村くんとは大違いだわ」
「……」
新村くん。
あなたの上司が酷いこと言ってるよ。
「すみません、うちの課長が……あ」
靴音がしたと思ったらよく知ってる声が聞こえた。
新村くんだ。
噂をすれば何とやらではないけどなかなかのタイミングに私は思わず苦笑してしまう。
やばっ、と言いたげに顔を引きつらせた優子さんに新村くんがつかつかと詰め寄った。
「早見さん、少し目を離した隙にいなくなったと思ったら何他所で遊んでるんですか」
「えーだって節分なんだし豆撒きくらいしないと……」
「いやそれ自宅でやってください」
「一人で豆撒きしても寂しいだけよぉ」
「じゃあ誰か引っかければいいでしょうに。それで問題解決です」
「私、新村くんじゃないし」
「……」
何だろう。
なぜかすんごいくだらないやりとりを見せられてる気がする。
私はふと三浦部長に目を遣った。
彼は呆れて物も言えないといった様子で立ち尽くしている。
そんな彼に新村くんが声をかけた。
「うちの上司が失礼しました」
「あ、ああ。まあいつものことだからな」
「何か本当にすみません」
新村くんは頭を下げ、無理矢理といった感じで優子さんの頭も下げさせた。正直どっちが上司なのかわからなくなる。
優子さん、もう新村くんの上司というより出来の悪い姉みたいですよ。
「さ、戻りますよ。たんまりと仕事が残ってるんですからね。遊ぶ暇があったらキリキリ働いてください」
「待って、せめて年の数だけ豆を食べさせて」
「早見さんがそれやったらお腹壊しますよ。何粒食べることになると思ってるんですか」
「私、そんなにババアじゃないもん!」
「はいはい、そうですね。早見さんは若い若い」
「ひどっ、何その微塵も心のこもってない返事!」
新村くんに引きずられるようにして優子さんは第二事業部を後にした。
三浦部長のデスクのまわりにはまだ優子さんによって撒かれた豆が転がっており、彼女の襲撃が現実にあったことだと物語っている。
デスクについた部長が心底疲れたようにわあっとため息を吐いた。
うんざりした口調のつぶやきが漏れる。
「この会社、本当に懐が深いなぁ」
「……」
私もそう思います。
両腕を組んで立つ三浦部長は床に正座する優子さんを見下ろしていた。
「はい、ごめんなさい」
身を縮ませて反省する優子さんが応える。豆撒きというか三浦部長への襲撃から数分後、武器(豆撒き用の豆)を取り上げられた彼女は三浦部長のお叱りを受けていた。
あーあ、言わんこっちゃない。
ノートPCのキーを打つ手を止めて私は嘆息した。
私より年上の優子さんがとても幼く見えて、とにかく残念感がハンパなくてため息が長くなる。エキゾチックな雰囲気の美人が台なしだった。
「それで? 何しに来た?」
三浦部長の声はものすごく冷ややかだ。
険しい顔のイケメンがこんな声で訊いてきたら私なら震え上がってしまう。絶対無理。
「まさか本当に豆撒きしに来ただけだなんてことないよな?」
「あ、えっとね」
優子さんが三浦部長の視線から逃れるように顔を背ける。その仕草が憂いを帯びているようでちょっと色っぽい。
三浦部長の口角が一段下がった。
「何だ? はっきり言え」
「いや、だってほら去年もやった訳だし。こういうのは毎年続けて恒例行事にするのが正しい日本の在り方だと思わない?」
うわっ、マジで言ってるのこの人。
やっぱり滅茶苦茶だ。
というか、今さらだけどこんな人が人事課の課長だなんてうちの会社大丈夫かな?
そりゃまあ、仕事の面では有能かもしれないけど。
三浦部長が目を閉じてはあっと息をついた。それこそ肺の空気を全部吐き出してしまうのではないかというくらい盛大なため息だ。
「君を見てるとつくづくこの会社の懐の深さを思い知らされるよ」
「……」
あ、そういう捉え方もあるんだ。
「あーいや待って」
半ば見放しかけた様子の三浦部長の態度に優子さんが慌てて立ち上がった。
「ま、豆撒きだけじゃないよ。用事あった。今思いついたから待って」
「……」
優子さん。
今思いついたって言いませんでした?
私と同じことを思ったのか半眼で三浦部長が優子さんを睨む。無言で彼は続けるよう促した。
「あ、あのね、この前の取締役会で新たに第三事業部を作ろうって話しが出たの」
「ああ、その話か」
三浦部長が首肯した。
「でもそれはまだ先の話だろ」
「それが割と具体的なところまで進んでるのよ」
優子さんがなぜか得意げに胸を張った。
いや、そこ胸を張るところじゃないよね。
「武田常務が女性社員に部長を任せようとしてたんだけどそこに北沢副社長が待ったをかけたの。ほら、副社長には地方に飛ばされ……じゃなくて転属中の息子さんがいるでしょ? その人を本社に呼び戻して第三事業部の部長に据えたいみたいなのよ」
「ふむ」
三浦部長が中空を見遣る。考えを纏めるかのように数秒彼は黙った。
へぇ、北沢副社長って息子さんがいたんだ……。
てか、副社長の身内なのに地方に飛ばされちゃってるんだね。
軽い驚きを伴いつつ私はそんなふうに思ってしまう。
まあ、偉いさんの子供だからってみんな本社勤務じゃないといけないって規則もないしね。
そんな規則があったら私なんか居る場所もないだろうし。
「北沢くんか」
三浦部長の声が漏れる。
部内には私と三浦部長と優子さんの三人がいるだけでとても静かだ。そのせいか彼の声は小さくてもよく聞こえた。
「彼は少し変わっているというか想定外のことをする男だからな。入社してすぐに海外事業部に配属されたのにその先の海外赴任を蹴り続けているし。エリートコースを自ら潰しているのは父親に対する当てつけだって聞いたことがあるぞ」
「あーそれ私も聞いた。でもそれだとおかしくない? 親子の仲が悪かったら副社長も息子を本社に呼び戻したいなんて思わないでしょ?」
「時として感情は無意味だからな。利用できるとなればうまくいっていない関係だろうと身内も利用する。そのくらいやってのけるぞあのタヌキは」
わあ、タヌキだって。
本当のことだけどなかなかに酷い言い様だなぁ。
もしかして部長って副社長のこと良く思ってないとか?
私の疑問に答えるように優子さんが言った。
「たっちゃんは常務派だもんね。私もあの副社長は苦手かなぁ。愛想はいいんだけど目が笑ってないんだもん」
私は北沢副社長のことを考えてみた。
記憶が正しければ北沢副社長は今年で五十六歳。武田常務と同期入社のいわばライバルだ。どっしり、あるいはどどんといった表現の似合う体格の持ち主でふくよかで丸みのある顔はまさしくタヌキを連想させるものだった。
武田常務が美形なのに対して北沢副社長はどちらかと言うと愛嬌のある顔といっていい。あのどこか憎めない容貌は人心掌握において非常に役に立っていた。
しかし、彼は見た目だけではなく知略と策謀を巡らせて現在の地位にのし上がったという噂がある。
でも見た目はただのタヌキおじさんなんだよなぁ。
うーん、その息子かぁ。
やっぱりタヌキ顔なのかな?
「あの北沢ジュニアが帰って来たらまたうちの女子社員も騒がしくなるでしょうねぇ」
優子さんが少しいやらしい笑みを浮かべた。
「ただ本人は見た目のちゃらさに反して結構女性関係はクリーンなのよね。うちの新村くんとは大違いだわ」
「……」
新村くん。
あなたの上司が酷いこと言ってるよ。
「すみません、うちの課長が……あ」
靴音がしたと思ったらよく知ってる声が聞こえた。
新村くんだ。
噂をすれば何とやらではないけどなかなかのタイミングに私は思わず苦笑してしまう。
やばっ、と言いたげに顔を引きつらせた優子さんに新村くんがつかつかと詰め寄った。
「早見さん、少し目を離した隙にいなくなったと思ったら何他所で遊んでるんですか」
「えーだって節分なんだし豆撒きくらいしないと……」
「いやそれ自宅でやってください」
「一人で豆撒きしても寂しいだけよぉ」
「じゃあ誰か引っかければいいでしょうに。それで問題解決です」
「私、新村くんじゃないし」
「……」
何だろう。
なぜかすんごいくだらないやりとりを見せられてる気がする。
私はふと三浦部長に目を遣った。
彼は呆れて物も言えないといった様子で立ち尽くしている。
そんな彼に新村くんが声をかけた。
「うちの上司が失礼しました」
「あ、ああ。まあいつものことだからな」
「何か本当にすみません」
新村くんは頭を下げ、無理矢理といった感じで優子さんの頭も下げさせた。正直どっちが上司なのかわからなくなる。
優子さん、もう新村くんの上司というより出来の悪い姉みたいですよ。
「さ、戻りますよ。たんまりと仕事が残ってるんですからね。遊ぶ暇があったらキリキリ働いてください」
「待って、せめて年の数だけ豆を食べさせて」
「早見さんがそれやったらお腹壊しますよ。何粒食べることになると思ってるんですか」
「私、そんなにババアじゃないもん!」
「はいはい、そうですね。早見さんは若い若い」
「ひどっ、何その微塵も心のこもってない返事!」
新村くんに引きずられるようにして優子さんは第二事業部を後にした。
三浦部長のデスクのまわりにはまだ優子さんによって撒かれた豆が転がっており、彼女の襲撃が現実にあったことだと物語っている。
デスクについた部長が心底疲れたようにわあっとため息を吐いた。
うんざりした口調のつぶやきが漏れる。
「この会社、本当に懐が深いなぁ」
「……」
私もそう思います。