第32話 つーか、チュウって何?
文字数 3,293文字
私の目の前にネズミおじさんがいる。
電車の中で中森さんに絡んでいたあのネズミおじさんがいる。
あまりのことにうまく反応できずにいるとネズミおじさんことヨツビシ工業の福西部長がにこにこしながら私に目を向けた。ねっとりとした視線に軽い寒気を覚える。
うわっ、駄目だ。
ここから逃げ出したい。
というかさっさと消えて欲しい。
息しないで欲しい。
私はともすれば悲鳴を発しそうな自分を全力で抑えた。テーブルの下で両手をぎゅっと握る。
我慢我慢我慢……と胸の内で呪文のように繰り返した。
いっそ本当に呪文を唱えられれば良いのだけれど残念ながら私にそんなスキルはない。あったらとっくに使っている。ネズミおじさんなんて一瞬でサヨウナラだ。
「福西部長、彼女は私の後輩の大野です」
北沢さんが片手で示しつつ私を紹介した。まるで英文を直訳したような紹介に少しだけ気が紛れる。
私は短く息を吸って一息に挨拶した。
「カドベニ本社第二事業部企画営業の大野です」
慌てて名刺を取り出してネズミおじさんに差し出した。私的にもぎこちない上にやや雑な渡し方だったと思う。作法にうるさい人なら眉をひそめるかもしれない。
でもビジネスマナー的にアレかもしれないがこっちは余裕がないのだ。目をつぶってもらうしかない。
てか、相手はネズミおじさんだし。
それにしてもヨツビシの部長さんかぁ。
人は見かけによらないなぁ。
「うん、よろしくねぇ」
私はネズミおじさんと名刺を交換した。
わあ、本当にこの人ってヨツビシの部長なんだ。
名刺に書かれた「ヨツビシ工業東京本社産業機械部部長福西忠」の文字が妙に嘘臭く見える。
つーか、忠って何?
チュウって、名前までネズミなの?
そんなことを考えているとネズミおじさんが言った。
「君可愛いねぇ。僕、君みたいに可愛い子は大好きだよぉ」
ぞわっ。
全身の毛が逆立ちそうな不快感に襲われ私は硬直する。
やだこの人気持ち悪い。
誰か駆除して欲しい。
「あ、何か緊張しているみたいですね」
北沢さんが苦笑した。
「すみません。彼女普段はこんなんじゃないんですけど。うーん、福西部長が大物だから仕方ないのかな?」
「はははっ、僕はそんなに大物じゃないよぉ」
「何を仰います。天下のヨツビシの部長なんて誰でもなれるものではないですよ」
「北沢さんは口が上手だねぇ」
北沢さんとネズミおじさんが和やかに話している。
私は二人の会話に入ることもできずただ見ているしかなかった。欲を言えばもう話を終わりにしてネズミおじさんにはご退場願いたい。
「部長、そろそろこっちに来てください」
パーテーションの奥から別の人が現れてネズミおじさんを呼ぶ。
「あーうん、今行くよぉ」
そう返してネズミおじさんがばつの悪そうに笑んだ。その表情も気持ち悪かったのだが私は態度に出さぬようぐっと堪える。
じゃあまた今度ねぇ、と友だちに接するような軽い言葉を残してネズミおじさんは奥へと進んでいった。
パーテーションの向こうに彼が消えると私は心の底からほっとしてはあっと深いため息をつく。またネズミおじさんに絡まれたくないのでさっさと食事を済ませてしまおうとスプーンを手に取った。
それにしてもすごい偶然だなぁ。
あと私のこと憶えてなかったみたいで良かった。
もしあの電車でのこと憶えていたら今ごろどうなっていたか。
まあ、酔っ払ったネズミおじさんに絡まれていたのは中森さんだし私は大したことしてないんだけどね。
うん、大丈夫大丈夫。
……大丈夫、だよね?
不安がなくはないけどとりあえずは無事に乗り切ったと安堵を重ねる。スプーンでカレーを一口食べると北沢さんが訊いてきた。
「ひょっとしてああいう人苦手か?」
「んっ」
びくりとして危うく咽せそうになる。
何とか口の中のものを飲み込むと私は抗議する目で北沢さんを睨んだ。
眉をハの字にして北沢さんが苦笑いする。彼はスプーンでカレー皿の淵をコツコツと叩いた。その音が「あー悪い悪い」と謝っているふうにも聞こえる。
「いや何かまゆかが嫌そうにしていたからさ。お前すっげぇ顔してたぞ」
「……」
え?
私、そんなにすごい顔してた?
自分では気をつけていたつもりなんだけど。
北沢さんは私の動揺を読み取ったのか口の端を少し上げた。二重瞼の目を細めさも愉快そうに肩を揺らす。
「おいおい本当に嫌だったのかよ。お前相手は取引先の部長だぞ。最低限バレないようにしろよ」
「……」
ええっと。
バレないようにしていたんですけど。
それと私は北沢さんがネズミおじさんのことを「あの人ちょっとおかしいから大変だろ?」と言っていたのを思い出した。
なるほど確かにあの人はちょっとおかしい。
口調のせいもあるけど彼の纏う雰囲気からもやばさがビシビシ伝わって来る。あれは素人が相手をしてはいけないタイプだ。
少なくとも私が相手をしてはいけない。
ぼそっと北沢さんが何かをつぶやいた。
「ああいう奴からこいつを守ってやらないとな。そのためにも早く本社勤務に戻らないと」
「ん? 今何て?」
よく聞こえなかったので尋ねると北沢さんは曖昧に笑った。
「いや苦手なタイプを前にしたまゆかの顔も捨て難いと思ってな」
「ええっ、それ地味に馬鹿にしてませんか?」
「いやいや、むしろ褒めてるつもりだぞ。お前はどんな表情でも可愛いってな」
「むう」
私は唇を尖らせた。
先輩、やっぱり馬鹿にしてますよね?
*
食事を終えると私たちは店を出た。
幸いなことにネズミおじさんとまた顔を合わせることもなかったので私はかなりほっとしている。
チキンカレーは美味しかったけどネズミおじさんのせいでお店の印象は最悪だった。しばらくあの店に行くことはないだろう。
まあお店は全く悪くないんだけどね。
全部ネズミおじさんが悪い。
明日から暦の上では春なのだが二月の空気は冷たい。
ぴゅうと風邪が吹けば薄いコートで凌げるはずもなく私はぶるっと身震いした。やはりコートは新調しないと凍えてしまうかもしれない。
ああ、三浦部長が買ったコートはきっと暖かいだろうなぁ。
などとつい思ってしまう。
けど、あのコートは高級ブランド品だし、私じゃ手が届かないものなぁ。
夜もまだ早い時刻だからか通りを歩く人の姿は案外多い。スーツ姿の人たちが陽気に有名大学の校歌を歌っていた。様子から同じ大学出身者なのではないかと推測できる。
遠くで救急車のサイレンが鳴る。
輪唱でもするように近所の犬が吠えだした。一匹また一匹と遠吠えがリレーされていく。
ぼんやりとその吠え声を聞いていると北沢さんが私の手を握ってきた。
「……っ!」
吃驚して見上げると悪戯っ子みたいな笑顔と出会った。イケメンの北沢さんにそんな顔をされるとどんな悪戯も許してしまいたくなってくる。
「手、冷たいな」
そう言って北沢さんは私の手を握ったまま自分のコートのポケットに手を突っ込む。彼の温もりがじんわりと伝わって否応なく胸をとくんとさせた。
驚きで麻痺していた恥ずかしさがしだいにはっきりしていく。
「あ、あの先輩?」
耳が熱い。それだけではなく顔中が熱い。
早鐘のように打ち続ける心音が頭の奥まで響いてくる。くらくらとしてきた私は口をぱくぱくとさせてしまい言葉を接げなくなった。
北沢さんがポケットの中で自分の指を私の手のひらに擦りつけてくる。くすぐったさと恥ずかしさが同時に押し寄せてきてどうしたらいいかわからなくなってきた。
「まゆか」
先輩の声が甘い。いつもよりずっと甘い。
「俺、本社から離れて思い知ったんだ。自分がどれだけ大切に想っていたかってな。傍にいたい、ちゃんと傍にいて守りたい、離れていたからこそそのことを強く認識したんだ」
「……」
どうしよう。
頭がぼうっとしていて先輩が何を言っているのか理解できない。
て、手を繋いだのは私が寒そうにしていたからだよね?
これ、先輩の優しさなんだよね?
深い意味は無いよね?
かろうじて浮かんできた言葉はどれも疑問形で何だか的外れな気がして私は声にするのを諦めたのであった。
電車の中で中森さんに絡んでいたあのネズミおじさんがいる。
あまりのことにうまく反応できずにいるとネズミおじさんことヨツビシ工業の福西部長がにこにこしながら私に目を向けた。ねっとりとした視線に軽い寒気を覚える。
うわっ、駄目だ。
ここから逃げ出したい。
というかさっさと消えて欲しい。
息しないで欲しい。
私はともすれば悲鳴を発しそうな自分を全力で抑えた。テーブルの下で両手をぎゅっと握る。
我慢我慢我慢……と胸の内で呪文のように繰り返した。
いっそ本当に呪文を唱えられれば良いのだけれど残念ながら私にそんなスキルはない。あったらとっくに使っている。ネズミおじさんなんて一瞬でサヨウナラだ。
「福西部長、彼女は私の後輩の大野です」
北沢さんが片手で示しつつ私を紹介した。まるで英文を直訳したような紹介に少しだけ気が紛れる。
私は短く息を吸って一息に挨拶した。
「カドベニ本社第二事業部企画営業の大野です」
慌てて名刺を取り出してネズミおじさんに差し出した。私的にもぎこちない上にやや雑な渡し方だったと思う。作法にうるさい人なら眉をひそめるかもしれない。
でもビジネスマナー的にアレかもしれないがこっちは余裕がないのだ。目をつぶってもらうしかない。
てか、相手はネズミおじさんだし。
それにしてもヨツビシの部長さんかぁ。
人は見かけによらないなぁ。
「うん、よろしくねぇ」
私はネズミおじさんと名刺を交換した。
わあ、本当にこの人ってヨツビシの部長なんだ。
名刺に書かれた「ヨツビシ工業東京本社産業機械部部長福西忠」の文字が妙に嘘臭く見える。
つーか、忠って何?
チュウって、名前までネズミなの?
そんなことを考えているとネズミおじさんが言った。
「君可愛いねぇ。僕、君みたいに可愛い子は大好きだよぉ」
ぞわっ。
全身の毛が逆立ちそうな不快感に襲われ私は硬直する。
やだこの人気持ち悪い。
誰か駆除して欲しい。
「あ、何か緊張しているみたいですね」
北沢さんが苦笑した。
「すみません。彼女普段はこんなんじゃないんですけど。うーん、福西部長が大物だから仕方ないのかな?」
「はははっ、僕はそんなに大物じゃないよぉ」
「何を仰います。天下のヨツビシの部長なんて誰でもなれるものではないですよ」
「北沢さんは口が上手だねぇ」
北沢さんとネズミおじさんが和やかに話している。
私は二人の会話に入ることもできずただ見ているしかなかった。欲を言えばもう話を終わりにしてネズミおじさんにはご退場願いたい。
「部長、そろそろこっちに来てください」
パーテーションの奥から別の人が現れてネズミおじさんを呼ぶ。
「あーうん、今行くよぉ」
そう返してネズミおじさんがばつの悪そうに笑んだ。その表情も気持ち悪かったのだが私は態度に出さぬようぐっと堪える。
じゃあまた今度ねぇ、と友だちに接するような軽い言葉を残してネズミおじさんは奥へと進んでいった。
パーテーションの向こうに彼が消えると私は心の底からほっとしてはあっと深いため息をつく。またネズミおじさんに絡まれたくないのでさっさと食事を済ませてしまおうとスプーンを手に取った。
それにしてもすごい偶然だなぁ。
あと私のこと憶えてなかったみたいで良かった。
もしあの電車でのこと憶えていたら今ごろどうなっていたか。
まあ、酔っ払ったネズミおじさんに絡まれていたのは中森さんだし私は大したことしてないんだけどね。
うん、大丈夫大丈夫。
……大丈夫、だよね?
不安がなくはないけどとりあえずは無事に乗り切ったと安堵を重ねる。スプーンでカレーを一口食べると北沢さんが訊いてきた。
「ひょっとしてああいう人苦手か?」
「んっ」
びくりとして危うく咽せそうになる。
何とか口の中のものを飲み込むと私は抗議する目で北沢さんを睨んだ。
眉をハの字にして北沢さんが苦笑いする。彼はスプーンでカレー皿の淵をコツコツと叩いた。その音が「あー悪い悪い」と謝っているふうにも聞こえる。
「いや何かまゆかが嫌そうにしていたからさ。お前すっげぇ顔してたぞ」
「……」
え?
私、そんなにすごい顔してた?
自分では気をつけていたつもりなんだけど。
北沢さんは私の動揺を読み取ったのか口の端を少し上げた。二重瞼の目を細めさも愉快そうに肩を揺らす。
「おいおい本当に嫌だったのかよ。お前相手は取引先の部長だぞ。最低限バレないようにしろよ」
「……」
ええっと。
バレないようにしていたんですけど。
それと私は北沢さんがネズミおじさんのことを「あの人ちょっとおかしいから大変だろ?」と言っていたのを思い出した。
なるほど確かにあの人はちょっとおかしい。
口調のせいもあるけど彼の纏う雰囲気からもやばさがビシビシ伝わって来る。あれは素人が相手をしてはいけないタイプだ。
少なくとも私が相手をしてはいけない。
ぼそっと北沢さんが何かをつぶやいた。
「ああいう奴からこいつを守ってやらないとな。そのためにも早く本社勤務に戻らないと」
「ん? 今何て?」
よく聞こえなかったので尋ねると北沢さんは曖昧に笑った。
「いや苦手なタイプを前にしたまゆかの顔も捨て難いと思ってな」
「ええっ、それ地味に馬鹿にしてませんか?」
「いやいや、むしろ褒めてるつもりだぞ。お前はどんな表情でも可愛いってな」
「むう」
私は唇を尖らせた。
先輩、やっぱり馬鹿にしてますよね?
*
食事を終えると私たちは店を出た。
幸いなことにネズミおじさんとまた顔を合わせることもなかったので私はかなりほっとしている。
チキンカレーは美味しかったけどネズミおじさんのせいでお店の印象は最悪だった。しばらくあの店に行くことはないだろう。
まあお店は全く悪くないんだけどね。
全部ネズミおじさんが悪い。
明日から暦の上では春なのだが二月の空気は冷たい。
ぴゅうと風邪が吹けば薄いコートで凌げるはずもなく私はぶるっと身震いした。やはりコートは新調しないと凍えてしまうかもしれない。
ああ、三浦部長が買ったコートはきっと暖かいだろうなぁ。
などとつい思ってしまう。
けど、あのコートは高級ブランド品だし、私じゃ手が届かないものなぁ。
夜もまだ早い時刻だからか通りを歩く人の姿は案外多い。スーツ姿の人たちが陽気に有名大学の校歌を歌っていた。様子から同じ大学出身者なのではないかと推測できる。
遠くで救急車のサイレンが鳴る。
輪唱でもするように近所の犬が吠えだした。一匹また一匹と遠吠えがリレーされていく。
ぼんやりとその吠え声を聞いていると北沢さんが私の手を握ってきた。
「……っ!」
吃驚して見上げると悪戯っ子みたいな笑顔と出会った。イケメンの北沢さんにそんな顔をされるとどんな悪戯も許してしまいたくなってくる。
「手、冷たいな」
そう言って北沢さんは私の手を握ったまま自分のコートのポケットに手を突っ込む。彼の温もりがじんわりと伝わって否応なく胸をとくんとさせた。
驚きで麻痺していた恥ずかしさがしだいにはっきりしていく。
「あ、あの先輩?」
耳が熱い。それだけではなく顔中が熱い。
早鐘のように打ち続ける心音が頭の奥まで響いてくる。くらくらとしてきた私は口をぱくぱくとさせてしまい言葉を接げなくなった。
北沢さんがポケットの中で自分の指を私の手のひらに擦りつけてくる。くすぐったさと恥ずかしさが同時に押し寄せてきてどうしたらいいかわからなくなってきた。
「まゆか」
先輩の声が甘い。いつもよりずっと甘い。
「俺、本社から離れて思い知ったんだ。自分がどれだけ大切に想っていたかってな。傍にいたい、ちゃんと傍にいて守りたい、離れていたからこそそのことを強く認識したんだ」
「……」
どうしよう。
頭がぼうっとしていて先輩が何を言っているのか理解できない。
て、手を繋いだのは私が寒そうにしていたからだよね?
これ、先輩の優しさなんだよね?
深い意味は無いよね?
かろうじて浮かんできた言葉はどれも疑問形で何だか的外れな気がして私は声にするのを諦めたのであった。