第38話 バキッ!
文字数 2,537文字
宴がお開きとなってカレー店を出ると夜空にぽっかりとお月様が浮かんでいた。
私の後ろで三浦部長がポチと話をしている。専門的な用語が飛び交っていて、よく知らない人が聞いたら宇宙人の会話と間違えてしまいそうだ。
その解読を諦めて加藤さんのほうを見ればネズミおじさんと贔屓の野球チームについて語り合っていた。
二人とも同じ球団のファンらしく今年こそはと息巻いている。やれピッチャーがどうのバッターがどうのと地味にうるさい。合間に挟んでくる古い選手名なんていかにもな名前でいつの時代の奴なんだとつっこみたくなる。
でもまあ百年も昔じゃないんだろうなぁ。よくわからんけど。
野球に対してそこまで思い入れのない私には選手の名前も野球用語も宇宙の神秘と大して変わらない。
せっかく三浦部長がいるのに今一つ楽しくない私はさてどうしようかなと考えた。
お腹も一杯だし、そろそろ帰りたいな。
振り返って三浦部長とポチを眺める。むすっとした表情がデフォルトの三浦部長と犬顔であまり人間らしい感じのしないポチが並ぶと何だか周囲の温度が五度くらい低くなっているような気分になる。二人が仕事に熱意を込めているのに全然熱が伝わってこない。むしろ寒くなっているような気がしてくるから不思議だ。
「大野さん」
不意打ちみたいに声をかけられて私はビクリとする。電話が入って場を外していたロバが戻って来ていた。カレー店でビールを三杯空けている彼は若干テンションが高い。
「カレー美味しかったですね。今日はご馳走様でした」
「いえいえ」
私は僅かに頬を引きつらせながら応じる。一応愛想良くしたつもりなのだがちゃんと出来ているのか自信はない。
でもまあカレーが美味しかったのは同感だ。
今度また来よう。できれば三浦部長と二人っきりで。
ロバが自然な動きで私に近寄ってくる。
私は彼への意思表示を込めてあえてわかるように一歩身を退いた。
ロバの顔に変化はない。
この人は全く私の気持ちがわからないのだろうか。
それとも、わかっていてなお私に近づこうとしているのか。
真意を測りかねて私はぎこちない笑みを深くする。相手が取引先の人でなければとうの昔に拒否しているのに……と内心で毒づいた。ちなみに私の想像の中でロバは十回以上グーで殴られている。
「思ったんですけど」
ロバが私にだけ聞こえるような声でささやいた。吐きかけられた息がビール臭い。しかもカレーの匂いも加わっているから始末が悪い。
「大野さんって食べるのが大好きですか?」
「……」
わぁ、失礼な奴。
確かに食べることは好きだけど、そんなふうに言われると私が食いしん坊みたいじゃない。
私は自分の両手を後ろに回してぎゅうっと手の甲をつねった。痛みで沸き上がる怒りを抑え込む。そうでもしないとやってられない。
上目遣いでロバを見つめた。
「あははぁっ、釜本さんって変なこと言うんですね。誰だって食べるのは好きなんじゃないですか?」
「ま、まあそうなんだけど。大野さんは特にそう見えたっていうか……」
おや?
ロバの様子がおかしいぞ。
「……ったく、すんげー可愛いじゃねぇか。こんな女持ち帰らないでいられるかよ」
ロバが何かブツブツとつぶやくが、その声は低すぎて私にはよく聞こえない。
何て言ったんだろうと首を傾げているとロバが私の手をとった。
「えっ」
急に手を引っ張られて戸惑う私の意志など無関係にロバがずんずんと歩きだす。三浦部長たちは私たちに気づかないようで誰も咎める者はいなかった。
抵抗してもロバの力は強い。私の細腕では逆らえない。
「あの、釜本さん?」
私が声をかけるが返事はない。
角を曲がりみんなの姿が完全に見えなくなる。心音が嫌なくらい大きく響いていた。
ロバに握られた手が熱い。そこから浸透するように彼の温度が伝わってくる。手を引っ込めたいのにそれが出来ないくらい怖い。
私は引っ張ってくるロバの後頭部を見上げる。茶色がかった黒い髪が妙に猛獣の毛並みのように見える。ロバの癖に肉食系だなんて反則だ。でもどこにその苦情を訴えればいいのか私にはわからない。
少なくともロバでは駄目だ。
私の訴えなど軽く一蹴されてしまう。
恐怖と不安がない交ぜになって私を蹂躙する。自分はこんなことになっても冷静でいられると思っていた。でも実際こうなってみると同様でうまく対処できない。私って駄目じゃん、と自覚すると涙が浮かんできた。
ロバが私をどうしたいのか。
その答えは聞かなくてもわかる。
いくら私が鈍くてもさすがにこの状況に陥れば否応なく理解できる。これは鈍感とか鈍感じゃないとかは関係ない。
……部長。
空いているほうの手をぎゅっと握った。
気力を振り絞って拳を振り上げるが威圧とも呼ぶべき圧が私の勇気を萎えさせる。けれど再度気持ちを奮い立たせて私は拳を……。
「おいっ、何をしてる!」
鋭い怒声が私の後ろから飛んできた。まるで言葉で殴られたみたいにロバがビクリとする。止まった足に私は応じられず前のめりになってロバの背にぶつかった。それを合図にしたみたいにロバの手が私の手から離れる。
ロバが荒々しく肩で息をした。彼の興奮があたりを振るわせているようだった。空気にすら彼の熱を感じる。
駆け足が私に近づいてきた。
想像よりもずっと速いその足音が全力疾走だと認識するより先にバキッという鈍い打撃音へと変じる。
えっ?
「まゆかをどこに連れて行くつもりだ!」
殴られて路面に倒れたロバを三浦部長が見下ろしている。至近距離にいるのが怖いくらい表情が険しい。
ロバが呻きつつ起き上がる。三浦部長が私を庇うようにロバとの間に割って入った。心なしか部長からも威圧が放たれているように感じる。
「……」
「……ちっ」
数秒睨み合い、ロバが舌打ちした。ロバなのに目をぎらぎらとさせている。
三浦部長から遅れてネズミおじさんたちもやって来た。遠目から私たちを見ていたらしいネズミおじさんが悪巧みをするように目を細める。下卑た笑みがどうにも不快だ。
「釜本の馬鹿の後始末はともかくとしてぇ、三浦部長ぉ、案外君も安っぽい人間なんだねぇ」
にやけたその顔には明らかな嘲りがあった。
「これ、高くつくよぉ」
私の後ろで三浦部長がポチと話をしている。専門的な用語が飛び交っていて、よく知らない人が聞いたら宇宙人の会話と間違えてしまいそうだ。
その解読を諦めて加藤さんのほうを見ればネズミおじさんと贔屓の野球チームについて語り合っていた。
二人とも同じ球団のファンらしく今年こそはと息巻いている。やれピッチャーがどうのバッターがどうのと地味にうるさい。合間に挟んでくる古い選手名なんていかにもな名前でいつの時代の奴なんだとつっこみたくなる。
でもまあ百年も昔じゃないんだろうなぁ。よくわからんけど。
野球に対してそこまで思い入れのない私には選手の名前も野球用語も宇宙の神秘と大して変わらない。
せっかく三浦部長がいるのに今一つ楽しくない私はさてどうしようかなと考えた。
お腹も一杯だし、そろそろ帰りたいな。
振り返って三浦部長とポチを眺める。むすっとした表情がデフォルトの三浦部長と犬顔であまり人間らしい感じのしないポチが並ぶと何だか周囲の温度が五度くらい低くなっているような気分になる。二人が仕事に熱意を込めているのに全然熱が伝わってこない。むしろ寒くなっているような気がしてくるから不思議だ。
「大野さん」
不意打ちみたいに声をかけられて私はビクリとする。電話が入って場を外していたロバが戻って来ていた。カレー店でビールを三杯空けている彼は若干テンションが高い。
「カレー美味しかったですね。今日はご馳走様でした」
「いえいえ」
私は僅かに頬を引きつらせながら応じる。一応愛想良くしたつもりなのだがちゃんと出来ているのか自信はない。
でもまあカレーが美味しかったのは同感だ。
今度また来よう。できれば三浦部長と二人っきりで。
ロバが自然な動きで私に近寄ってくる。
私は彼への意思表示を込めてあえてわかるように一歩身を退いた。
ロバの顔に変化はない。
この人は全く私の気持ちがわからないのだろうか。
それとも、わかっていてなお私に近づこうとしているのか。
真意を測りかねて私はぎこちない笑みを深くする。相手が取引先の人でなければとうの昔に拒否しているのに……と内心で毒づいた。ちなみに私の想像の中でロバは十回以上グーで殴られている。
「思ったんですけど」
ロバが私にだけ聞こえるような声でささやいた。吐きかけられた息がビール臭い。しかもカレーの匂いも加わっているから始末が悪い。
「大野さんって食べるのが大好きですか?」
「……」
わぁ、失礼な奴。
確かに食べることは好きだけど、そんなふうに言われると私が食いしん坊みたいじゃない。
私は自分の両手を後ろに回してぎゅうっと手の甲をつねった。痛みで沸き上がる怒りを抑え込む。そうでもしないとやってられない。
上目遣いでロバを見つめた。
「あははぁっ、釜本さんって変なこと言うんですね。誰だって食べるのは好きなんじゃないですか?」
「ま、まあそうなんだけど。大野さんは特にそう見えたっていうか……」
おや?
ロバの様子がおかしいぞ。
「……ったく、すんげー可愛いじゃねぇか。こんな女持ち帰らないでいられるかよ」
ロバが何かブツブツとつぶやくが、その声は低すぎて私にはよく聞こえない。
何て言ったんだろうと首を傾げているとロバが私の手をとった。
「えっ」
急に手を引っ張られて戸惑う私の意志など無関係にロバがずんずんと歩きだす。三浦部長たちは私たちに気づかないようで誰も咎める者はいなかった。
抵抗してもロバの力は強い。私の細腕では逆らえない。
「あの、釜本さん?」
私が声をかけるが返事はない。
角を曲がりみんなの姿が完全に見えなくなる。心音が嫌なくらい大きく響いていた。
ロバに握られた手が熱い。そこから浸透するように彼の温度が伝わってくる。手を引っ込めたいのにそれが出来ないくらい怖い。
私は引っ張ってくるロバの後頭部を見上げる。茶色がかった黒い髪が妙に猛獣の毛並みのように見える。ロバの癖に肉食系だなんて反則だ。でもどこにその苦情を訴えればいいのか私にはわからない。
少なくともロバでは駄目だ。
私の訴えなど軽く一蹴されてしまう。
恐怖と不安がない交ぜになって私を蹂躙する。自分はこんなことになっても冷静でいられると思っていた。でも実際こうなってみると同様でうまく対処できない。私って駄目じゃん、と自覚すると涙が浮かんできた。
ロバが私をどうしたいのか。
その答えは聞かなくてもわかる。
いくら私が鈍くてもさすがにこの状況に陥れば否応なく理解できる。これは鈍感とか鈍感じゃないとかは関係ない。
……部長。
空いているほうの手をぎゅっと握った。
気力を振り絞って拳を振り上げるが威圧とも呼ぶべき圧が私の勇気を萎えさせる。けれど再度気持ちを奮い立たせて私は拳を……。
「おいっ、何をしてる!」
鋭い怒声が私の後ろから飛んできた。まるで言葉で殴られたみたいにロバがビクリとする。止まった足に私は応じられず前のめりになってロバの背にぶつかった。それを合図にしたみたいにロバの手が私の手から離れる。
ロバが荒々しく肩で息をした。彼の興奮があたりを振るわせているようだった。空気にすら彼の熱を感じる。
駆け足が私に近づいてきた。
想像よりもずっと速いその足音が全力疾走だと認識するより先にバキッという鈍い打撃音へと変じる。
えっ?
「まゆかをどこに連れて行くつもりだ!」
殴られて路面に倒れたロバを三浦部長が見下ろしている。至近距離にいるのが怖いくらい表情が険しい。
ロバが呻きつつ起き上がる。三浦部長が私を庇うようにロバとの間に割って入った。心なしか部長からも威圧が放たれているように感じる。
「……」
「……ちっ」
数秒睨み合い、ロバが舌打ちした。ロバなのに目をぎらぎらとさせている。
三浦部長から遅れてネズミおじさんたちもやって来た。遠目から私たちを見ていたらしいネズミおじさんが悪巧みをするように目を細める。下卑た笑みがどうにも不快だ。
「釜本の馬鹿の後始末はともかくとしてぇ、三浦部長ぉ、案外君も安っぽい人間なんだねぇ」
にやけたその顔には明らかな嘲りがあった。
「これ、高くつくよぉ」