第22話 息しないと死んじゃうよ

文字数 2,630文字

 焼き鳥屋の前で常務と別れ、三浦部長に駅まで送ってもらった私は沈んだ気分のまま一人電車に乗った。

 終電間際の車内は汗とアルコールの混ざったような独特の臭いに満ちている。アパートの最寄り駅までの短い時間であっても我慢するのが辛い。私は空いたシートに座らず降りる側とは反対側のドアに背中を預けた。

 まだぼんやりと残る酔いに眠気を誘われそうになりつつ向かいのドアの上の電光掲示板を眺める。次の到着駅を表示するカラフルでデジタルな文字が規則的な動きで流れていた。

 部長、お見合いしないんだ。

 微かな安堵がため息とともに吐き出される。

 私が三浦部長にそっぽを向かれるほど嫌われているというショックも少しだけ……ほんの少しだけ軽減できたような気がした。常務の親戚の娘さんが部長に会いたがっているみたいだけどとりあえず部長にその気がないのだから大丈夫。

 ガタンと電車が揺れて私はバランスを崩しかける。慌てて手を伸ばしてドアの横の手すりを掴んだ。

 手すりの金属質の冷たさと誰かがつけたであろう汗のややぬめっとした感触が私の不快感を刺激した。

 再度大きくため息。

 きっとこの息もその辺のおじさんとか酔っ払いの息と混じってしまうのだろう。私が汚されるようで気持ち悪い。

 ああ、意固地にならずに部長とタクシーに乗るべきだったかなぁ。

 今さらながらに自分のしたことを後悔する。三浦部長は私をタクシーで送ってくれると言っていた。それなのに断ってしまったのは何だか辛かったから。

 彼を嫌いになったとかではない。
 それどころか私は三浦部長が大好きだ。

 大好きだから彼に嫌われているのが辛い。

 あの焼き鳥屋での三浦部長の態度が頭の中で再生され、私はまたため息をついた。

 肩を落として足元に目を遣る。ガタンゴトンと規則正しいリズムが揺れを伴って繰り返されていた。

 ああ、私がもっと素敵な女だったらなぁ。

 三浦部長の横に並べるような女だったらなぁ。

 自分に対する自信なんて私にはない。私はまだまだだ。足りないものが多いし頑張っていかなければならないものも多い。

 今のままじゃ、駄目なんだよなぁ。

 いつの間にかぶり返していた暗い気持ちが嘆息となる。もういっそどこかに寄って酔い潰れるまで飲もうかな、と私は考え始めた。明日も仕事なので実行したらえらいことになるがどんどんそうしたい欲求が膨らんでいく。

 アパートの最寄り駅近くに居酒屋があったはず、と脳内で店の場所を検索していると若い女性の怒声が聞こえた。

「もういい加減にしてよ!」

 びっくりしてそちらへ顔を向けると見覚えのある女性が灰色のスーツを着たおじさんに絡まれていた。スーツの色や痩せてどこか陰気そうな印象があるところからネズミを連想してしまう。ネズミおじさんだ。

「いいじゃないのぉ、僕と飲もうよぉ」

 わぁこれ酔っ払いだ、。

 あの人可哀想に……ん?

 んんっ?

 私は彼女を凝視してしまう。

 そりゃ、見覚えがあるはずだ。だって数時間前に会った人なのだから。

「あんたみたいな酒臭いおっさんをあたしが相手にする訳ないでしょ! ちょっとは自覚しなさいよ。それともその汚らわしい首の上に付いてるのはカボチャかしら? いやカボチャのほうがまだマシよね。少なくともあっちは食べられるんだし。あんたの頭なんてカボチャ以下よっ! ああ、酒臭いからもうどっか行ってくれない? あんたのせいでここの空気まで穢れるわ!」
「……」

 ワォ。

 さすがと言うか何と言うか、中森さんきっついわぁ。

 てか、あれ酔っ払いに絡まれているんだよね。相手の人、中森さんの知ってる人とかじゃないよね。

 中森さんって知らない人にも罵倒できるんだ。

 私には無理だなぁ。

 ネズミおじさんは悪口を言われたのにへらへらしている。おお、タフだ。それとも泥水しすぎておかしくなっているのか?

「いいじゃないのぉ、付き合ってよぉ」
「ああもう、しつこいっ!」

 中森さんが離れようとしてもネズミおじさんがふらふらしながら追ってくる。というかおじさん中森さんのコートの裾を掴んでいるよね? それ外さないといつまでもついて来るんじゃ……。

「ねえねえ、一緒に飲もうよぉ。いいじゃないのぉ、一軒だけ、一軒だけだからさぁ」
「だ・か・ら、酒臭い息を吐かないでよ! てか息するなっ!」
「……」

 中森さん。

 息しないと死んじゃうよ。

 とは言えず。

 というかどうしよう。

 私はあたりを見回した。起きている乗客はみんな見て見ぬふりを決め込んでいる。確かに関わりにならないほうが無用なトラブルに巻き込まれずに済むけど、それでいいのかな。

 うーん、私、見ちゃったしなぁ。

 一応、全く知らない間柄って訳でもないし。

 数秒迷ってから私はドアから離れた。

 電車のスピードが落ちていく感覚が伝わってくる。次の駅がもうすぐなのだ。

「中森さん」

 私が声をかけると彼女が険しい表情のまま振り向いた。本来は可愛いはずの顔が目つきの悪さで台なしになっている。やっぱレディースとか極道の女が似合いそうだな。

 口には出せないけど。

 中森さんが一瞬「あっ」というふうに目を見開きすぐに鋭いものへと戻す。

「大野まゆか」
「……」

 確かに私は大野まゆかだけど、そんな憎々しげに呼ばなくてもいいのに。

 あと、何気に拳を握ってますよね?

 それ、私じゃなくネズミおじさんに向けたほうがいいのでは?

「うん? そっちの子はおねぇちゃんのお友だちかい? ねぇねぇ、君も僕と飲もうよぉ」

 ネズミおじさんに話しかけられ私は背中にぞわっとしたものを感じる。嫌悪感が一気に全身へと広がった。あ、このおじさん駄目だ、生理的に嫌い。

 息しないでほしい。

「ねぇねぇ、いいじゃないのぉ。一軒だけ、一軒だけでいいからさぁ」
「何であんたがここに居るのよ。つーかどういうつもりよ?」

 ネズミおじさんと中森さんの声が重なる。同じタイミングで話しかけてくるなんて、この二人実は相性が良いんじゃない?

 急速に落ちる電車の速度が窓の外の景色だけでなく体感でもわかる。

 私は念のために尋ねた。

「そのおじさん、中森さんの知り合いじゃないよね?」
「そんなもん見てわかんないの?」

 中森さんがふんっと鼻を鳴らす。とても人に助けてもらう態度ではない。むしろ悪役だ。誰かに成敗してもらったほうがいいのかもしれない。

「あんた真性の馬鹿か何か? 胸だけじゃなくおつむも残念なのかしら?」
「……」

 助けるのやめよっかなぁ。
 
 
 
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