第31話 チキンカレーの遭遇

文字数 3,781文字

 用事があるからと新村くんの誘いを断った私は第二事業部に戻った。

 優子さんがいなかったことを報告しておこうと三浦部長のデスクに向かうと彼は難しい顔をして画面の暗くなったPCを睨んでいた。書類の端をとんとんと指で叩きながら何かを考えている。

 私が近づくと彼は指を止めてこちらに向いた。

「大野か、早かったな」
「あの、優子さん……早見課長はいませんでした」
「そうか」

 薄く返事をすると三浦部長はまたとんとんと指でデスクを叩き始める。

 私は彼の声の暗さを感じつつ続けた。

「それで、新村くんがいたので彼に渡しておきました」
「うん、まあ仕方ない」

 やっぱり反応が薄い。

 どこか様子のおかしい三浦部長に私は首を傾げる。

 私がいなかった間に何かあったのかな。

「あの部長、どうかしたんですか?」
「ん? ああその何だ……」

 彼が言い淀んでいると電話が鳴った。デスクの上の固定電話だ。内線を報せる電子音が二回鳴り終える前に営業事務の子が応答した。

 すぐに三浦部長に声がかかる。

「部長、武田常務から二番です」
「わかった」

 彼はうなずいて固定電話のボタンを押す。

「はい、はい」と応える部長を見ながら私は話しが終わるのを待った。

 やりとりは一分とかからなかったと思う。

 彼は最後に「わかりました」と言って受話器を置いた。

 はぁっと息をついて立ち上がる。

「大野、すまない」

 三浦部長の眉がハの字になっていた。

「これから武田常務のところに行かなければならないんだ。悪いが例の件は後日にしてくれないか」
「別にいいですよ」

 私は何でもないといった口調で返しつつ胸の前で小さく手を振った。

「私のほうは大丈夫ですから気にしないでください。それより常務からの呼び出しだなんて何かあったんですか?」
「ああ、まあそのあれだ」

 周囲に目を走らせた部長の態度に私はあまり口にしてはならない話題だったのだと判じる。

 うーん、せっかくのデート(実際は接待の下見)だったんだけどなぁ。

 でも常務からの呼び出しなんだから仕方ないよね。

「……僕だってまゆかと食事に行きたかったよ」
「はい?」

 三浦部長が早口に何か言ったが小声すぎて私にはよく聞こえない。

 聞き返したほうがいいかな?

「あの、今何て……」
「いや、何でもない」

 三浦部長の顔が赤くなった。

 きっと余計な質問をした私に苛ついたからに違いない。

「じゃあすまないが行ってくる」
「あ、はい、行ってらっしゃい」

 足早に第二事業部を後にする部長を見送りながら私はちょっと……いやかなりがっかりしてしまうのであった。

 *

 今夜の予定も無くなっちゃったし、夕飯を買ったら真っ直ぐアパートに帰ろうかな。

 本日の業務を終えて私は第二事業部を出た。

 一階へと降りながら夕食は何を食べようかとあれこれ考える。

 三浦部長とチキンカレーの美味しいお店に行くつもりだったので思い浮かぶのはカレーばかりだ。頭の中でプチカレー選手権が始まって大手コンビニ三社のカレーが火花を散らした。

 いつも利用するコンビニのカレー弁当も美味しいのだけれどアパートから少し離れた別のコンビニのチキンカレーもなかなかに捨て難い。会社の最寄り駅の裏手にあるコンビニのカレー丼も私は好きだ。

 会社の一階に着く頃になっても三社の戦いは続いていた。

 もういっそ全部食べようかと思ったとき、近くから声がかかった。

「まゆか、今帰りか?」

 その耳心地の良い声に意識が引っぱられると、数時間前に会った顔が微笑んでいた。

「先輩」
「奇遇だな、俺も今帰るところだ」

 北沢さんが私の横に並ぶ。再会したときには気づかなかった匂いがふわりと鼻腔をくすぐった。この香ばしい匂いはコーヒーのものだ。

 たぶん直前にどこかで飲んだのだろう。

 そういや先輩ってコーヒーが好きだったんだよね。

 前はよく先輩のおすすめの店に連れて行ってもらったなぁ。

 ちょい懐かしくなっていると北沢さんの声が降ってきた。

「この後暇か?」
「あ、えっと」

 私はちらと北沢さんを見てから中空に視線を移した。

「い、一応暇ですけど」
「なら飯に行こう」
「え?」

 北沢さんが私の腕を掴む。強すぎずそれでいて簡単には外せそうにない絶妙な力加減だ。しかも痛くない。

「さっき秘書課の奴から美味い店を教えてもらったんだ。一人で食ってもつまらないからな。付き合ってくれ」
「……」

 わぁ先輩。

 ちょっと強引じゃないですか?

 *

「……」

 絞られた照明の明かりが店内をムーディーにしている。一目でインドを連想させる内装の店は先日武田常務と一緒に飲んだ焼き鳥屋の近くにあるカレー店だった。

 ホールにはいくつかのテーブル席がありパーテーションの奥にもテーブルがあるようだ。

 窓際の二人席に私と北沢さんは座っている。肩を露出させた制服に身を包んだ女性店員に案内されて着いたのがこの席だった。

 さして迷うことなく注文したチキンカレーのセットは突然のお誘いにまだ戸惑っていた私が冷静さを取り戻す前に運ばれて来た。真っ白いカレー皿にこんもりとご飯が盛られている。鈍い銀色の鍋には黄土色のカレー。まるで衛星のように付け合わせの福神漬けとラッキョウの皿がカレー皿の横に並んでいた。

 カレーとご飯の量は思っていたより多い。

「おおっ、これは期待していいかな?」

 スプーンを片手に北沢さんが笑んだ。

 彼は一度に鍋の半分くらいの量をご飯にかけた。

 私はご飯にカレーを適量かけてから「いただきます」と言って最初の一口を食べる。

 ご飯と一緒に口にしたカレーは程良く辛く、素直に美味しいと感じた。

「うん、美味い」

 北沢さんがうなずき、食べるペースを速める。

 私も彼に倣った。

 店内には私たちの他に数組の客がいてテーブルはほぼ埋まっている。曲名はわからないけれど聞き覚えのある曲がインドっぽさを強めていた。

 私の頭の中でターバンを巻いた少年が象に曲芸をさせている。

 後ろ足で立った象が長い鼻から噴水のように水を撒いた。水はアーチを描いてキラキラと輝いている。

「まゆか」

 北沢さんの声に私の想像は霧散する。

「第二事業部って三月に売り出す新商品を抱えているんだろ?」
「あ、はい」

 私が肯定すると彼は二重瞼の目を細めた。

「あれだよな。俺が聞いた話だとヨツビシ工業の福西(ふくにし)部長が直接うちの担当をしてくれてるっていうじゃないか。あの人ちょっとおかしいから大変だろ?」
「ええっと、私、メインの担当じゃないんですよね。一応チームの一員ですけどあくまでもそっちの仕事はサポート程度なんで」

 ちなみに私が主に出向くのは千葉方面の会社だ。
北総工業とか習志野産業とか千葉コイルなんかが大口の取引先である。

 ヨツビシ工業は北沢さんが福岡に飛ばされる前まで任されていた取引先だった。現在はうちのベテランが引き継いでいる。

 担当といっても大手相手だと販路を広げたり展示会を企画したりすると一人ではこなしきれなくなる。そのためチームを組んで仕事に当たっていた。このチームは役割分担がはっきりしているので本来の業務に負担がかからないようになっている。

 サポート役の私だと直で相手の担当者と話すということはなかった。というか私はその部長さんに会ったことすらない。

 うーん、ちょっとおかしいとか言っても多少癖が強いってくらいだよね。

 そんなに大変かな?

 苦笑混じりに私は尋ねた。

「先輩はヨツビシの部長さんに何かされたことでもあるんですか?」
「そうだな、具体的に言うとまゆかには刺激が強いかもな」
「……」

 え?

 何それ、めっちゃ気になるんですけど。

「あの、もう少し詳しく……」

 私が言いかけたとき「いらっしゃいませぇーっ!」と店員が来店した客に挨拶した。店の入り口からはスーツ姿の人たちがややテンション高めにぞろぞろと入ってくる。一、二、三……八。うん、八人のお客さんだ。

 これテーブルごとに分けて座ってもらわないといけないね、と半ば店員気分で眺めていると彼らはパーテーションの奥へと導かれていった。どうやらあちらは団体向けの席のようだ。

「おやぁ? ひょっとしてカドベニの北沢さん?」
「あっ、ヨツビシの」
「……っ!」

 団体のほうに注意が向いていたせいで私はもう一人のお客に気づけなかった。

 その顔を目にしたとき数日前の記憶が蘇り、私は一瞬呼吸を忘れる。

 ぞわっと背中に不快感が走ったのはもうどうしようもない。だって生理的に嫌いなんだもん。

「部長、こっちですよ」

 奥から一人が現れ彼を手招きする。そのせいで彼が団体の九人目だとわかった。しかも部長さんだ。信じられない。

 というか信じたくない。

 私、夢を見ているのかな?

 これタチの悪い夢だよね?

「あぁ、今行くよぉ」

 ご機嫌な口調で彼が応じる。間延びした声は疑いようもなく彼のものだ。

 灰色のスーツを着た彼はその容貌と相まってネズミに見える。まるでネズミおじさんだ。

「お久しぶりです福西(ふくにし)部長。こんなところでお会いするなんて奇遇ですね」
「そうだねぇ。でも北沢さんも元気そうで何よりだよぉ」
「……」

 にこやかに言葉を交わす二人を私は無言で見つめる。相手は取引先の部長さんだし挨拶くらいはしたほうがいいんだろうけど、驚きが大きすぎてうまく反応できない。

 私は数日ぶりにネズミおじさんと遭遇したのであった。
 
 
 
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