第1話

文字数 508文字

プロローグ
 車内は春の日差しが明るい。窓枠に型を抜かれた日向が、列車の速度に合わせて瞬いている。昼下りの無言の車内に、揺れを追いかけるように金属音が鳴る。
 
 ベビーカーを脇に置いた母親が、立っている子供の両肩に優しく手を添えている。  子供の水色のセーターの毛糸が日差しを蓄えて輝き、空いた座席の日向が暖かそうに膨らんでいる。
 その子は力無い両手のひらを合わせたり叩いたり、しゃがんだり立ち上がったりしながら子供を振りまいているけれど、その瞳は一人の老人に向けて揺れている。

 八十歳を優に越えているだろう男性が三人掛けを独占している。
 脱いだ靴が揃えてあり、膝を立てて手を組み胸を重そうに沈めて仰向けになっている。白髪の混じる髪をバックにして、白い無精髭が頬や顎を埋める。耳の入口に耳掻きの梵天ほどもある黒い毛が、形振(なりふ)りはかまわないと宣言しているようだ。
 (くる)まるように(まと)っている上質なテーラーメイドの長い外套(がいとう)は傷んではいないけれど、その趣きは長い歳月を思わせる。
 
 沈んだ両目蓋がときどき震える。閉じた目蓋の中で瞳が動いているからだ。薄く湯葉のような目蓋の端に小さな涙が見える。
 震える目蓋に子供が目を凝らしている。
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