第38話

文字数 1,094文字

(38) 髭を舐めるように…
 懐中電灯の灯りだけが深海魚のように浮かんでいる。巡査は線路を越えて、月明かりの無い真っ暗な闇の中を細い灯りと共に移動している。惣二は体中を脈打つ鼓動に耐えながら迷っている。巡査は惣二の米を隠して持ち去った。こっそり追いかけてその結果どうするか、全く思い浮かばない。見つかった時の巡査の剣幕ばかりが恐ろしいが、癪にさわる、その先を知りたい。そうして身体が動いていた。立ち上がってもう線路を越えた。遠く懐中電灯の灯りをじっと見る。米の行く方を追うだけの、嫌な夢の中に自分がいる。

 光の消えた暗闇で、土を(こす)る自分の足音だけがそっと耳に届く。わずかに土の匂いがして、しんしんと湧き上がる冷気に耐え、硬い地面にそっと歩みを乗せる。懐中電灯の灯りは遠い。巡査の足音も聴こえない。このままなら気づかれないだろうけれど、灯りを消され巡査が闇の中に消えたらそれで終わりだ。やみくもに探し回って巡査に遭遇するのは恐い。どうやら冬の田んぼの中の畦道を真っ直ぐ歩いているようだ。まだずっと一本道で他所の家の気配が全く無い。

 ずっと心臓が高鳴り、こわばった歩みが続いていると、突然、懐中電灯の灯りの動きが止まり乱雑に動き始めた。気づかれたら、灯りを向けられるか、灯りを消されるだろう。きっとまだ気づかれていない。どうやら家の脇を、懐中電灯のわずかな灯りが回り込んでいく。引き戸の音がして、窓に灯りが点いた。灯りは小さいが真っ暗闇が終わり辺りがわずかに浮かび上がった。小さな古い一軒家。雪囲いがされ、木が数本立っているようだ。巡査はきっと家の中にいるので、もっと近寄ってみる。自分のそばに太い木がある。木の後ろに回って気配を消した。

 気づかれないまま、一つの目的地にたどり着いた。惣二はしゃがみ込み木に背中をあずけて大きく息を吐いた。
 ……今ここにいて何が出来っか?巡査の家を突き止めたからて、今度は自分が泥棒に入るんか? ……相手ん人があより、自分がどんげぇ人かあ考えんとな……かかが前に言ってた…… ……他所のおかかが巡査に必死に懇願してた顔…… ……乱暴な髭を舐めるように笑った巡査……

 惣二は小さく縮こまって灯りを見ている。……一人で住んでるんか…巡査は戦争に行かなかったんか?…とっつぁまより年上みてだ… …巡査て、いってえどんげえ仕事なんか… …こんげえ事あってええんかいや…… 
 
 家の灯りが消えた。引き戸の音がして懐中電灯の灯りが家の周りを動き回った。惣二は木の裏で小さく縮こまっている。
 巡査は元来た道を懐中電灯を縦に大きく振りながら、乱暴な足音を立てて歩いて行った。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み