娘心 親心
文字数 2,916文字
「シルフィスは厩舎の方を回ってから来るって言っていたよ」
「あらまぁ、健気なコト」
朝の執務室。
出勤直後のユゥジーンと、事務方のリリ。
「あまりつついてやるな」
とは、大机向こうの執務室統括者ホルズ。
見習いの少年は、聞いていないフリをしながら朝の掃除をやっている。
「いやいや、自分の馬の顔を見に行くだけと言っていたから」
「どうせ仕事に行く時に乗るから顔なんかすぐ見られるのに。エンジュ森から帰って急に、馬が馬がと言い出したわよね。一体誰が目当てなの? あちら方面に住んでいる娘(こ)?」
「だからつついてやるな」
のどかな会話を背に、見習いの少年は外デッキに出てモップの埃を払った。
(何だかんだ言ってリリさんも、ヒトの色恋沙汰の噂話をしたい所なんて、普通に女子なんだよな)
ついでにデッキの掃除もしてしまおうと、箒を取りに裏へ回ると、厩舎側の細道を海色の髪が上がって来るのが見えた。想い人に会えたかは分からないが、表情は呆けている。
(何だかんだ言ってあのヒトも、普通に男子なんだよな)
「シルフィスキスカ、参じました」
「ああ、おはよう」
「おはよう」
「馬は元気だったか」
来た後は本当につつかない。皆大人。
地元の風波(かざな)一族ではそれなりの地位であろう海竜使いの青年だが、蒼の里ではあくまで留学生。術の教えを求めに来た客員だ。
執務室の手伝いはその合間の恩返しという名目で、メンバー扱いではない。ホルズも、竜を使うような大仕事より、女性中心の軽い依頼を振っている。
「呪われているかもしれない」「禁忌について周囲と見解が食い違う」などの、今までは取り上げなかったような、大概は思い過ごしの案件。
依頼元からの評判は良い。
シルフィスいわく、長々と話を聞いてやっているだけで、相手が勝手に満足して解決してしまったりするらしい。
たまに本当に魔性がまろび出たりするので、そんな時もしっかり対処出来る彼は、実に適任だった。
ユゥジーンと共に出動したその彼が、忘れ物でもあった風に、一人だけヒョイと戻って入り口から顔を出した。
「ホルズ殿、やや込み入った話があるのだが、本日の夕刻に時間を頂けるか」
「ん? ああ、構わないぞ。今日なら残業も無いだろうから」
「家の方へ訪ねて行っても宜しいか」
「何だ、ここで出来ないような話なのか? 勿論構わんが、そんなに改まられると緊張するな」
「夕食を共にしても構わぬか」
「えっ、何だ急に、どうかしたのか?」
「駄目か?」
「いや、いい、いいぞ、断る理由などない。家内に言っておこう」
「良かった、では本日の夕刻に」
「ああ」
「ヘイムダルが参上するので宜しく」
「何だと、ちょっと待て!」
素早くデッキを駆け去る足音を、ホルズが転がるように追い掛けて行った。
「……追い付けないだろな」
「……そうね」
少年の独り言を珍しくリリが受けて、二人はそれぞれの仕事をしながら肩を竦めた。
風波のヘイムダルは、シルフィスの幼馴染みで親友。
シルフィスと同種族とは思えないほど常識人で、非の打ち所のない紳士。先日風波から来た使節団ではリーダーを勤めていた。
その時ホルズの末娘ピルカに一目惚れし、遠距離にも関わらず、暇さえあれば竜を駆って飛んで来て、マメにデートしている。
「そろそろ家族に正式に紹介したいのに、父親が忙しい忙しいって聞く耳持ってくれないって、ピルカの奴、ボヤいていました」
見習いの少年は、ピルカの学生時代の同期生で、それなりに親しい。
「それでシルフィスを頼るなんて策士ね、彼女。応じてあげるシルフィスもシルフィスだけれど」
「交換条件でも出したんじゃないですか?」
程なく、ホルズが頭をかきむしりながら戻って来た。
「あの野郎、繋ぎ場に馬を馬装済みで、一瞬で飛んで行きやがった。帰って来たらギュウギュウに絞ってやる」
少年がそっと声をかける。
「きっとピルカが切羽詰まって、無理に頼み込んだんだと思いますよ」
「そうか? ノリノリだったじゃないか。馬上で何処かに丸サインを送っていたし。……まさか、お前も知っていたのか!?」
「いや知りませんって。でも大体分かりますよ。ピルカが風波のイケメンと付き合ってる事は同期生の間では周知だし、特に女子連中からは注目の的だし。いい加減挨拶ぐらい受けてあげないと、女性陣を敵に回しちゃいますよ」
「ぐ、ぬぅ・・」
その頃、ホルズ宅前で馬上からの丸サインを貰ったピルカが、母親達と喜び勇んで今晩のご馳走の仕込みに取り掛かっていた。
***
少年も外仕事に出払った、事務方だけの執務室。
仕事に一区切り付けたリリが、珍しく茶を淹れている。
「ホルズさん、聞いてもいいかしら」
「ああ? お前さんまでピルカの味方か?」
「そういうんじゃなくて。上の四人のお嫁入りの時は割とすんなり進んだのに、ピルカの時だけどうしてそう引っ掛かるのかなと思って。やっぱり風波が遠いから心配なの?」
「それもあるが…… ピルカ、あいつ優秀過ぎるんだ」
「そうですね」
「否定しないのかよ」
「彼女の、ヒトの先頭に立てる器は尊敬しているわ。誰にでも出来る事じゃないもの」
「ああ、親の贔屓目でなくても、あの難しい娘どもをよくまとめていると思う。だけれどそういう才能って、ピッタリハマれる場所と、マイナスにしか働かない場所がある。聞く話だけでは、風波は後者だ」
リリはホルズをマジマジと見た。こういう所、客観的に冷静な父親なんだなあ。
風波一族での女性の立ち位置が蒼の里と随分違う事は、シルフィスの言動からも伺い知れる。
「あたしが言うのも何だけれど…… ピルカなら、あたし達の想像の頭上を越えて行ってくれそうな気がします」
「そうは言っても生まれて十五、六年の小娘だ。あっちは何千年の歴史がある」
「…………」
***
翌朝、見習いの少年がソワソワと掃除をしていると、出勤して来たホルズは、意外や憑き物が落ちたような聖人顔をしていた。
「お、おはようございます」
「おはよう、いやめっちゃ飲むな、あいつ」
「あいつってヘイムダルさんですか」
「他の誰だ」
「ヘイムダルさんと飲んだんですか」
「女房がしつこく勧めたんだ。しかも俺の取っておきの隠し酒を出して来やがった。土に埋めておいたのに」
「…………」
「あいつの持参したウォッカも強烈だったぞ。さすが北方の民だな」
「手土産がウォッカですか」
「女房と女性陣には甘い菓子と香油を渡していた。根回しが完璧過ぎて文句の付けようもないわ、くそ!」
悪態付きながらも顔は笑っている。
隅の丸机のリリも、目を半月にしながら聞いている。
シルフィスは、「ヘイムダルと差し向かいで言葉を交わした上で嫌うような生物など、地上に存在しない」と宣言していた。随分な信頼だと思ったが、まさにその通りだったようだ。
昨日心配していたような事も、酒で勢いを着けてちゃんと伝えられたんだろう。それで何か安心出来る言葉を言って貰えたのかな。
向かい合ってみなければ何も進展出来ない事もある、と思った。
「医療院で痛い治療を終わらせてスッキリした幼児みたい」
少年がポソリと言った言葉がツボにハマって、リリはしばらく肩を震わせていた。
「あらまぁ、健気なコト」
朝の執務室。
出勤直後のユゥジーンと、事務方のリリ。
「あまりつついてやるな」
とは、大机向こうの執務室統括者ホルズ。
見習いの少年は、聞いていないフリをしながら朝の掃除をやっている。
「いやいや、自分の馬の顔を見に行くだけと言っていたから」
「どうせ仕事に行く時に乗るから顔なんかすぐ見られるのに。エンジュ森から帰って急に、馬が馬がと言い出したわよね。一体誰が目当てなの? あちら方面に住んでいる娘(こ)?」
「だからつついてやるな」
のどかな会話を背に、見習いの少年は外デッキに出てモップの埃を払った。
(何だかんだ言ってリリさんも、ヒトの色恋沙汰の噂話をしたい所なんて、普通に女子なんだよな)
ついでにデッキの掃除もしてしまおうと、箒を取りに裏へ回ると、厩舎側の細道を海色の髪が上がって来るのが見えた。想い人に会えたかは分からないが、表情は呆けている。
(何だかんだ言ってあのヒトも、普通に男子なんだよな)
「シルフィスキスカ、参じました」
「ああ、おはよう」
「おはよう」
「馬は元気だったか」
来た後は本当につつかない。皆大人。
地元の風波(かざな)一族ではそれなりの地位であろう海竜使いの青年だが、蒼の里ではあくまで留学生。術の教えを求めに来た客員だ。
執務室の手伝いはその合間の恩返しという名目で、メンバー扱いではない。ホルズも、竜を使うような大仕事より、女性中心の軽い依頼を振っている。
「呪われているかもしれない」「禁忌について周囲と見解が食い違う」などの、今までは取り上げなかったような、大概は思い過ごしの案件。
依頼元からの評判は良い。
シルフィスいわく、長々と話を聞いてやっているだけで、相手が勝手に満足して解決してしまったりするらしい。
たまに本当に魔性がまろび出たりするので、そんな時もしっかり対処出来る彼は、実に適任だった。
ユゥジーンと共に出動したその彼が、忘れ物でもあった風に、一人だけヒョイと戻って入り口から顔を出した。
「ホルズ殿、やや込み入った話があるのだが、本日の夕刻に時間を頂けるか」
「ん? ああ、構わないぞ。今日なら残業も無いだろうから」
「家の方へ訪ねて行っても宜しいか」
「何だ、ここで出来ないような話なのか? 勿論構わんが、そんなに改まられると緊張するな」
「夕食を共にしても構わぬか」
「えっ、何だ急に、どうかしたのか?」
「駄目か?」
「いや、いい、いいぞ、断る理由などない。家内に言っておこう」
「良かった、では本日の夕刻に」
「ああ」
「ヘイムダルが参上するので宜しく」
「何だと、ちょっと待て!」
素早くデッキを駆け去る足音を、ホルズが転がるように追い掛けて行った。
「……追い付けないだろな」
「……そうね」
少年の独り言を珍しくリリが受けて、二人はそれぞれの仕事をしながら肩を竦めた。
風波のヘイムダルは、シルフィスの幼馴染みで親友。
シルフィスと同種族とは思えないほど常識人で、非の打ち所のない紳士。先日風波から来た使節団ではリーダーを勤めていた。
その時ホルズの末娘ピルカに一目惚れし、遠距離にも関わらず、暇さえあれば竜を駆って飛んで来て、マメにデートしている。
「そろそろ家族に正式に紹介したいのに、父親が忙しい忙しいって聞く耳持ってくれないって、ピルカの奴、ボヤいていました」
見習いの少年は、ピルカの学生時代の同期生で、それなりに親しい。
「それでシルフィスを頼るなんて策士ね、彼女。応じてあげるシルフィスもシルフィスだけれど」
「交換条件でも出したんじゃないですか?」
程なく、ホルズが頭をかきむしりながら戻って来た。
「あの野郎、繋ぎ場に馬を馬装済みで、一瞬で飛んで行きやがった。帰って来たらギュウギュウに絞ってやる」
少年がそっと声をかける。
「きっとピルカが切羽詰まって、無理に頼み込んだんだと思いますよ」
「そうか? ノリノリだったじゃないか。馬上で何処かに丸サインを送っていたし。……まさか、お前も知っていたのか!?」
「いや知りませんって。でも大体分かりますよ。ピルカが風波のイケメンと付き合ってる事は同期生の間では周知だし、特に女子連中からは注目の的だし。いい加減挨拶ぐらい受けてあげないと、女性陣を敵に回しちゃいますよ」
「ぐ、ぬぅ・・」
その頃、ホルズ宅前で馬上からの丸サインを貰ったピルカが、母親達と喜び勇んで今晩のご馳走の仕込みに取り掛かっていた。
***
少年も外仕事に出払った、事務方だけの執務室。
仕事に一区切り付けたリリが、珍しく茶を淹れている。
「ホルズさん、聞いてもいいかしら」
「ああ? お前さんまでピルカの味方か?」
「そういうんじゃなくて。上の四人のお嫁入りの時は割とすんなり進んだのに、ピルカの時だけどうしてそう引っ掛かるのかなと思って。やっぱり風波が遠いから心配なの?」
「それもあるが…… ピルカ、あいつ優秀過ぎるんだ」
「そうですね」
「否定しないのかよ」
「彼女の、ヒトの先頭に立てる器は尊敬しているわ。誰にでも出来る事じゃないもの」
「ああ、親の贔屓目でなくても、あの難しい娘どもをよくまとめていると思う。だけれどそういう才能って、ピッタリハマれる場所と、マイナスにしか働かない場所がある。聞く話だけでは、風波は後者だ」
リリはホルズをマジマジと見た。こういう所、客観的に冷静な父親なんだなあ。
風波一族での女性の立ち位置が蒼の里と随分違う事は、シルフィスの言動からも伺い知れる。
「あたしが言うのも何だけれど…… ピルカなら、あたし達の想像の頭上を越えて行ってくれそうな気がします」
「そうは言っても生まれて十五、六年の小娘だ。あっちは何千年の歴史がある」
「…………」
***
翌朝、見習いの少年がソワソワと掃除をしていると、出勤して来たホルズは、意外や憑き物が落ちたような聖人顔をしていた。
「お、おはようございます」
「おはよう、いやめっちゃ飲むな、あいつ」
「あいつってヘイムダルさんですか」
「他の誰だ」
「ヘイムダルさんと飲んだんですか」
「女房がしつこく勧めたんだ。しかも俺の取っておきの隠し酒を出して来やがった。土に埋めておいたのに」
「…………」
「あいつの持参したウォッカも強烈だったぞ。さすが北方の民だな」
「手土産がウォッカですか」
「女房と女性陣には甘い菓子と香油を渡していた。根回しが完璧過ぎて文句の付けようもないわ、くそ!」
悪態付きながらも顔は笑っている。
隅の丸机のリリも、目を半月にしながら聞いている。
シルフィスは、「ヘイムダルと差し向かいで言葉を交わした上で嫌うような生物など、地上に存在しない」と宣言していた。随分な信頼だと思ったが、まさにその通りだったようだ。
昨日心配していたような事も、酒で勢いを着けてちゃんと伝えられたんだろう。それで何か安心出来る言葉を言って貰えたのかな。
向かい合ってみなければ何も進展出来ない事もある、と思った。
「医療院で痛い治療を終わらせてスッキリした幼児みたい」
少年がポソリと言った言葉がツボにハマって、リリはしばらく肩を震わせていた。
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