竜と湿原
文字数 1,692文字
「それじゃ行こうか」
シルフィスが手を挙げて、空中をぐるりとかき混ぜる。
声のない呪文。
途端、勘の良い娘達は空気のヒリ付きに身をこわばらせた。
小川の水面、木々の梢、足元の草葉が小さく震えて蒸気を醸す。
それらは瞬く間に上空に吸い寄せられ・・
――渦を巻いて、海のような澄緑色の竜が現れた。
「ひゃあ」
竜を呼ぶのは分かっていた事なのに、やっぱり悲鳴を上げる子は上げる。
「プリムラ、出発」
シルフィスは一足先に竜の背に乗り移る為、鈍色の馬で舞い上がる。
「あ、はい」
思ったより大きな竜にちょっとだけ見入っていた赤手綱のプリムラも、即座に馬に激を入れて地面を離れた。
後ろの二人は悲鳴を上げて馬を怯えさせていたが、両側からノスリ家の年長者にガッツリと挟まれ着いて行かされた。こういう所がノスリ家の結束力の強みだ。
そして強気なプリムラの馬だからこそ竜に物怖じせず先頭を切れるのだと、彼女達はシルフィスの采配を理解した。
竜は青空に水滴を飛ばしてキラキラとたゆたうように、三十騎の隊列と並走する。
角に手を掛けて背に立つシルフィスは、あざといくらい絵になる。
娘達のほとんどは、本当に今日参加して良かったと、心踊らせていた。
旅行の主題はこれからなのだが、それはまぁ。
前方に、丘陵かと見間違うような一本の大木と、水面の光が広がった。
大トンボが繁殖しているという湿原だ。
立ち上る陽炎の中、群れをなして飛び回る虫の影が見えて来る。
(確かに大きいな)
生き物は北へ行くほど大きくなると言われるが、北方の海辺に暮らすシルフィスでも、あのクラスのトンボは見た事がない。
リリは馬二頭分と言っていたが、羽を広げるとまるで翼竜。湖沼群の地平、端から端までを一気に滑空するような個体もいる。
小さなヤンマでもスズメ蜂を捕食する獰猛さ。あれだけ大きいとどんな顎を持っている事やら。
(これは中止にしようとしたホルズ殿が正解だ。あそこをこの娘達だけで通過するなどトンでもない)
見ると、プリムラが不安そうにこちらを伺っている。
シルフィスは竜を翻して頭を彼女の馬に寄せた。
「大丈夫だ。速度を変えずこのまま真っ直ぐ最短で行こう」
「はい・・」
返事はするがゴクリと唾を飲み込む音も聞こえる。後ろの娘達はもっと浮き足立っている。
(そうだな、ここは)
シルフィスは隊列を飛び越して前に出、この日で一番大きな声を出した。
「ひと吠え入れる。馬に備えさせろ」
海色の竜は鎌首をもたげて鼻一杯に空気を吸い込む。
娘達は慌てて馬の首に手を当てたり耳を塞いだりした。
髭に覆われた口がバカリと開き、竜の雄叫びが発せられる。
娘達に聞こえたのは最初の方だけで、駆け上がるように高くなる音はすぐに耳が拾わなくなった。
トンボの嫌がる高周波。
まだ大分離れているのに、前方の虫影は一気に散った。
馬にも聞こえるが、前に向けて発せられたので影響は少ない。
しかし乗り手が先にビビっていれば別だ。案の定何頭かが跳ね上がった。
が、両側で並走する年長の娘達と後ろの三人娘の騎馬がドッシリと落ち着いて、それらを静めた。
(里を出発した時より格段に上達している者もいる。誰の何処に伸び代があるかなんて分からない物だな)
散ったトンボは竜を認識し、音が止んでも戻って来ない。
「このまま前進」
プリムラに声をかけ、シルフィスは隊列の周りを螺旋状に巻きながら竜を飛ばし始めた。
ザァザァと空気がかき混ぜられ、ひんやりした風が皆の頬に当たる。
馬は竜に守られている事を理解して、安定して隊列を組めている。
娘達も落ち着いて、鱗の胴体が目の前を通りすぎるのを楽しむ余裕も出て来た。
螺旋を後ろに向けた時、シルフィスの目に、白手綱のサザが映った。
今、しんがりの彼女の顔を見る事が出来るのは自分だけだ。相変わらず緊張しているのかな……
――ドキリ
とした
あれは本当にサザか?
白い歯が見える
笑っている
目をキラキラと見開いて
満ち足りて
幸せそうに
まるで花が 花がこぼれるように
竜使いの青年と目が合って、それはサッと普段の能面に戻された。
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