彼が何を隕(お)としたか
文字数 1,865文字
エンジュ村を後にし、森の上空を飛びながら、シルフィスは手を掲げて竜を呼んだ。
木々の表面から水蒸気の玉が沸き上がり、馬と並走にしながら集まって竜の形になる。
しかし……
(――だめだ・・!)
密度が薄い。作り直すか? いや、次はもっと薄くなる。これ以上に竜の気を集められる気がしない。
このまま固めてしまうしかない。
悪い予感は的中した。
不調なのだ、原因不明の。満足な竜を作り上げるビジョンが浮かばない。
出来上がった竜は、前日とは比べ物にならない貧弱なモノだった。枯れ木のような胴体に薄い存在感。
鈍色の馬より遅いので、乗り移る事も出来ない。
(こんな体たらく、術を覚え始めた子供の頃以来だ)
・・いや、一度、まったく竜を呼べなくなった時期があった。
身も世もなく心が凍り付いていて、ヘイムダルが時間をかけて引っ張り上げてくれたので、ようよう力を取り戻せたのだった。
(今の不調は何なんだ? 心身を害するような物は何も無い筈なのに)
トネリコが近付いて来た。燃え盛る炎の熱が風で運ばれて来る。
その風が、上昇気流で舞い上げられたトンボを本当にエンジュ森まで到達させてしまいそうだ。
そうなったら森の民にしたら一大事。
トンボは脅威だが、今までは住み分けが出来ていた。それが無くなるのなら、大急ぎで備えをせねばならない。のんきに裁縫の交流会なんて開いている場合ではないだろう。
「吼えろ!」
ダメ元で竜の咆哮を入れてみた。
だがやはり弱い。それでなくともパニックになっている虫にはほとんど効かない。
逆に竜に飛び付いて、鋭い顎と尾の鋏を突き立てて来る。
竜は身をくねらせて応戦するが、とにかく相手の数が多い。来るモノに対抗するだけで精一杯。この儚い竜では全部はとても賄いきれない。
大木はまだ燃える部分を大量に残し、これから炎はもっと上がる筈だ。
シルフィスは必死に、今するべき事を考えた。
最優先は何だ?
エンジュ村の安全? では今すぐ戻って竜があてにならない旨を告げ、守りを徹底させる事だ。
そして自分は、飛んで来る虫を迎え撃つ。
それでいい筈だ。リリやユゥジーン先輩だってきっとそうする。
皆不安な顔をするだろう。
催しなんて勿論お流れだ。
それは仕方がない。
仕方がないじゃないか。
・・・・
目の前を、白い花がよぎった気がした。
目の迷いだ、こんな惨禍の中。
ただ、ふと一つの思いが心に灯る。
――結局、自分の護りたい物って何なんだ?
昨日の釜戸場で鶏小屋みたいにさざめいていた娘達。
蛍の夜道を去って行くサザ。
不安そうなプリムラとポラン。
あの娘達に何の曇りもなく笑っていて欲しい。
これはやるべき事とは違う。
自分の純然たる欲望だ。
笑っていて欲しい、ただただ笑っていて欲しい。
そう思った途端、不思議に力が湧いた。
帰りの湿原で、サザをまた最後尾に配してやるのだ。
そしてまた、あの笑顔になって貰おう。
あの、花が、白い花がこぼれるような
***
遠くの山陵を夜明けの金が縁取る。
一瞬で鎮火したトネリコの根元で薄い朝陽に照らされて、竜使いの青年がずぶ濡れで座り込んでいた。
大トンボ達は、生き残ったモノも濡れた羽と低温で飛べず、湿原のあちこちに転がって鈍く羽音を立てている。彼らの異常繁殖と、落雷と野火に因果があるのかは、この世の一部でしかない小さい者には知りようがない。
まだ燻りの残る陽炎の中、ピシャピシャと足音をさせて、小さい影が歩いて来た。
「シィシス……」
「あぁ、……リリ、か?」
「そうよ」
「来たのか」
「来るわよ、何が起こったのかと思うじゃない」
「今度こそリィリヤが来てくれたと思ったのに」
「…………」
事態をただちに収める方法はあった。トネリコの野火が即座に消えればいい。
その荒唐無稽な方法を実現出来る手段を、彼はたまたま持っていた……
「ここまで呼び寄せるのに、全体力を使いきってしまったけれど」
「…………」
リリは何も言えないで、背中を丸める青年を見た。
(あんたそれでよかったの?)
(何があんたにそこまでさせたのよ?)
喉まで出掛かる言葉はあったけれど、どれもこれも空々しい。やってしまった事は戻せないのだ。
夕べ、野火の火柱は蒼の里でも確認されていた。
偵察の馬を上げた所で、盛大な水蒸気と共に一瞬で消え去ったのだ。
「……探したんだけれどさ……
もう氷の竜と同化していて、水蒸気と一緒に蒸発してしまったのかもしれない……」
シルフィスは、喋る気力も無いように、ガックリと二つ折りになった。
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