叱るなら叱って欲しい
文字数 2,202文字
執務室への見慣れた通い路が、全然別の景色に見える。
春先の最初の頃は、水溜まりすらキラキラしていたのに。
寝不足の少年は、泥から引き抜くみたいな足取りで玄関デッキを上がった。
叱られるだろうな……
夕べユゥジーンさんに言われて直接帰宅したから、まだホルズさんに会っていない。
叱られるだけならいいけれど、見捨てられたらどうしよう……
「おはよう」
御簾を開くと、丸机のリリがいつも通りの挨拶をしてくれた。ホルズの姿は見えない。
「おはようございます……」
元気のない挨拶だったが、リリは気に止めない様子で、伝達事項を喋り出した。
「ホルズさんは里の外へ出掛けています。昼前には戻る予定だから、留守番を頼むって。皆の仕事は大机に名前を書いて置いてあるわ」
見ると、数枚ずつの書類が人数分、広い机に並べられている。少年の名前もあった。
「貴方は午後からにして。あたしも出るかもしれないから」
「あ、はい」
リリは、仕事に集中している時は会話が短い。
合理的な性分なのだと分かっているが、今日みたいな日は少しくらい雑談してくれてもいいのに。
しょんぼり朝の掃除をしている所に、バサバサと羽音をさせて、窓から鷹が入って来た。
丸机のリリが弾かれたように立って鳥を出迎え、足の筒を外した。
少年は通信鷹にまだ触らせて貰えない。
帰還時はたまに気が立っていて危ないとの理由だが、執務室で働いて半年にもなるのにと、そんな些細な事にも今日はモヤモヤしてしまう。
「出掛けて来ます」
リリは手紙にちょっと触れただけで即座に、傍らの細剣を取って立ち上がった。
(忙しいのは分かるけど、本当に、僕なんか置いてけぼり……あれ?)
内勤がメインの彼女はいつもは装備なんかしまっているのに、今朝はそこにあるんだ?
「この手紙、ユゥジーンの所へ持って行って頂戴、今日はシルフィスともども半休の予定だから、まだ自宅に居るわ」
言いながらリリはもうマントをはおって戸口から半身を出している。
「は、はい」
「なるたけ急いで」
「あの、留守だったら?」
「それはない」
「でも、留守だったら?」
リリは目に苛立ちの光を過らせて振り向いた。
しかし口をヘの字に結ぶ少年を見て、短く深呼吸してから答えた。
「探して。彼の行く所なんてサォせんせのハウスか放牧地くらいよ。それでも会えなかったらここへ戻って待って」
言いながらリリは室内に戻り、机に置かれた書類の中からユゥジーンの分を取って少年に押し付けた。
「はい。貴方が持っていれば、彼がすれ違ってここへ来ちゃっても、仕事に出ないで待っているでしょ」
「あ……」
少年は言われなければ気付かなかった。
リリはもう片時も呼び止められたくないという風に、無言で外へ飛び出して行った。
***
里裏のユゥジーン宅へ行くと、自宅は留守だったが、放牧地の方に姿が見えた。
少年がそちらへ歩いて行くと、二人の青年と十人ばかりの子供が、小型の竜を囲んでワイワイとやっている。
シルフィスが作ったであろう竜は前肢を畳んで地面に伏し、目を輝かせた子供達に髭やら角やらをベタベタ触られながら、気怠そうに胴体を震わせている。
「今日は飛ぶなよ、触らせるだけだぞ」
「分かっている」
「ええ――っ、じゃ、跨がるだけ、跨がるだけならいいでしょ!」
「跨がったら今度は、ちょっと浮かせるだけ、とか言うんだろ」
「言わないよお!」
「ユゥジーン先輩、ちょっと浮かせるぐらいなら問題ない」
「お前は口を開くな!」
楽しそうにわちゃわちゃ盛り上がっている所に近寄ると、一斉に見られてシンとなる。
少年は居心地悪い心持ちで手紙を差し出した。
小さな紙片を開いたユゥジーンは、サッと表情が変わった。
「リリは?」
「もう出掛けて行きました」
「シルフィス、後を頼む」
「頼む」の「む」頃には、もう土手を上って馬繋ぎ場方向へ駆けるシルエットになっていた。
急ぎっぷりが、さっきのリリと重なる。
残った少年と、シルフィスと子供達。
「よし、解散」
「ええ――っっ」
「そして本日は、あの土手からこちら側は立ち入り禁止だ」
「ええーっ、何でぇ?」
「結界の境目があるからだ。サォ教官にもそう伝えておいてくれ」
「……」
「返事」
「はぁい」
サォ教官の名前を出されて、子供達は素直に居住地方向へ戻って行った。
その様子を確かめてから、シルフィスは竜の背に立ち、浮き上がりながら少年に向いた。
「その手紙、ノスリ殿は見たのか?」
「いえ」
「では見せに行った方がいい。もういらっしゃらないかもしれないが……念の為だ、どうせ通り道だろう」
言って、角を押して竜を翻す。
「あの、何か起こっているんですか?」
「知らない」
「ユゥジーンさんから何か聞いているんじゃないんですか?」
「聞いていない。僕は他部族の者だ。他所を巻き込まぬようにとの、長殿のご配慮だろう」
「…………」
「こういう事は初めてではない。僕が来てからも何度かあった。何か起こっているのは確かだろうが、僕に出来る事は限られている。さしあたっては里周囲の哨戒」
「里は長様の結界で護られています」
「この世に万全などない。だからユゥジーン先輩やノスリ殿は、結界の境目が曖昧なこちら側に居を構えているのだろう」
「えっ、そうだったんですか」
「むしろ何故だと思っていたのだ」
風波(かざな)の青年は冷たい風を呼んで、放牧地の結界へ向いて竜を駆って行った。
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