胸に宿ったナニカ
文字数 1,940文字
メンバー達が出払った、明るい昼前の執務室。
デッキに足音がし、入り口の御簾から紫の前髪が覗いた。
「おかえりなさい、リリさん」
「ただいま……」
リリは怪訝な顔をしながら室内に入った。少年の声の調子が、何だか今朝と違ったからだ。
「お疲れ様でした。お茶をどうぞ」
「ああ、ありがとう」
やはりいつもとテンポが違う。リリは少し止まってから、ゆっくりと席に付いた。
「じきにホルズさんも戻るわ」
「はい」
「何か変わったことあった?」
「いえ」
「そう、ホルズさんが戻ったら、貴方も仕事に出られるわ」
「はい、あの、ユゥジーンさんはまだ外ですか?」
「ジーン? ……そうね、彼は遅くなるかも、まだ父様と一緒だから。今日の彼の仕事はあたしが行くわ」
「僕が行ってもいいですか」
「??」
今度こそ目を見開いて、リリは少年を見上げた。
「書類を見たら、僕の今日のお使いと方向が同じだったので。懇意の村との定期報告会ですよね。それでさっき、過去の資料を出して読んでいました。これを持って行けば僕でも務まるんじゃないかと」
「…………」
「いいでしょ、ダメですか?」
リリは立って、皮ケースに挟まれた書類を確認した。
しばらく資料と見比べていたが、筆を取って何ヵ所かに朱筆した。
「じゃあ、お願いするわ。この印を付けた項目は三回以上確認して、帰ったら報告書に上げて下さい」
「はい!」
リリはもう一度少年をじっと見た。彼は資料の朱筆を指でなぞって、口の中で繰り返している。
何も言わずに長娘は自分の仕事に付いた。
やがてホルズも戻って、執務室はいつもの風景を作り出す。
***
初めての外交仕事をそつなくこなし、ホルズに大いに誉められて、少年はヒタヒタと家路を歩く。
今日あった事、知った事、聞いた事を、一歩一歩反芻しながら。
「知らなかった事を教えて貰えた。僕をちょっとは信頼してくれていた」
・・
・・・・
――うぅん、違う、あんなので浮かれちゃ駄目だ。
話してくれていない、全部は。
そもそも、今まで固く秘密にしていた事を、力の流れとやらに引っ張られたぐらいで、安易にスラスラ話してくれる訳ないじゃないか。
だって、おかしい、やっぱり。
今の状況、良くはないだろ。
里人の皆、あまりにもぬるま湯に浸かり過ぎで、長様や執務室を軽く見ている。
ダメだろ、大切な名付けを『反落』なんて言わせておいちゃ。
何より、リリさんへの風評が酷い。いや、僕も執務室に入るまでは誤解していたけれど。
ノスリ様の仰った、「民に余裕を持たせれば、高い心を育める」も、嘘ではないだろう。
でも全部じゃない。
そんな、長様一人に寄り掛かるやり方、今は良くても、未来(さき)は?
リリさんじゃないけれど、長様が突然戻って来なかったらどうするんだ?
あんなに完璧な長様達が、その危なさに気付いていない訳がない。
理由があるんだ。こんな不安定な状況にならざるを得ない、何か理由が。
ノスリ様の眉間に刻まれたあの深いシワ。
「チカラで来るモノ『は』そう怖くない」って言い方をした。
チカラで来ないモノって? その後に話してくれた内部攻撃をして来る奴?
違う、いるんだ、それ以外にも、もっと怖い何か。
長様やユゥジーンさん達が、身を削って本気で闘っている相手。
そちらの方が本命なんだ。
本当に、ガチで恐ろしいから、言えない、隠している、『知られてはならない相手』。
それに関して何か理由があって、里の民と『共有』出来ないんだ。
そして僕は、その他大勢のこちら側。
長様の声で羽根にくすぐられた気分になって、リリさんから豆知識を貰って優越感に浸って、何も知らないまま守られて、安穏と毎日を過ごす一人。
呑気に、誰かに委ねて、不満ばかり言いながら。
そうだよ、
起きている時間絶え間なくヒリヒリと里の為に働いているリリさんを ちっとも知ろうとしないで邪魔をしに来る女の子と、何も変わらない。
そんな僕なんかに、話せる訳ないじゃないか。
ザワつく。
ムカつく。
何でだ、悔しい。
凄く悔しい。
執務室に入って今までの時間、もっとちゃんと周囲を観察して動いていれば、今日話して貰える可能性もあったのに。
――悔しい・・
だから
このザワ付く気持ちに折り合いを付ける為、
一個ずつ、一段ずつ、あのヒト達に近付いて行く事にしたんだ。
どこまで近付けるかは分からないけれど、
明日は、ノスリ様に、剣を教えて下さいって頼みに行こう。
進める道を増やしておこう。
多分それが、まだどちらに転ぶか分からない、
名前の無い僕
の役割だと思うから。少年は顔を上げて、登り始めた月の照らす路地を駆けて行った。
~見習い少年の煩悩・了~
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