(2)10月1日(火)14時
文字数 2,074文字
13階の窓際席で食べる、ひさびさの
レトルトでないほう
のカレーは格別だ。(もちろん、レトルトカレーも希空の大好物だ)出向先にオシャレなレストランがあるなんて思わなかった。ちなみに、この展望レストラン、大手ホテルが運営していて利用者の評判もよく、職員は20%オフで福利厚生もバッチリ、とは加藤から聞いた話だ。ただ、残念なのは大学教育ローンを毎月7万円返済している希空が、割引後も1000円ちょっと出る昼食を、ここで毎日食べるのは無理だということだった。だが、加藤から使わないからオマエにやる、ともらった職員用プリペイドカードを使ったので今日の昼食代はタダだ。まあ、プリペイドのチャージ金額が10000円分だとわかっていたら、もう少し高いものにすればよかったが、早く食べられるカレーを選んでしまったのは救急医の悲しい習性だ。
事務手続きは1時間遅れで始まり、最初は職員証の写真撮影だった。
加藤の秘書が伝えてくれていたので総務課からのお咎めはなかったが、終了時間は伸びてしまった。悔しいが、クラノスケの言うとおりスーツを着てきて正解だった。白衣はすぐに支給されたものの、スクラブはネーム刺繍が間に合わず用意されてなかったからだ。職員証はスクラブ姿がサマになるのだが、いつもの緑ジャージで来ていたら、そのまま撮ることになっていただろう。いくら希空でも、職員証の写真がジャージ姿というのは避けたいところだ。その後、オリエンテーションと施設設備の説明で前半が終わり、14時30分から医療機器のレクチャーがある。後半のレクチャーは調整してくれたものの、30分だけしか遅らせれないらしく、当然ながら休憩時間は30分となった。もっとも、前の職場では昼食にコンビニおにぎりとサラダにありつけるだけでもラッキーだった。だから、今日みたいに休憩時間がある日は「超」がつくラッキーだ。よし、とっとと食べて後半に備えようと、またカレーを食べ始めたとたん、黄色のとろりとした液体を白衣につけてしまった。慌てて目の前にあるオシボリを取ろうとすると、誰かの手が「待った」をかけた。
「ダメです、先生!」
顔をあげると、眼鏡にお団子ヘアの女性が、その声の主だとわかった。センター名の刺繍が入っている白衣を着ているということは同業者らしい。
「まず、ペーパーナプキンでつまみとってください。あ、オシボリはゼッタイ使わないでくださいね」
隣のテーブルに座っていた彼女は、箸をつけてない焼き魚定食を置いたまま「そのまま、本当に何もしないでください」と希空に念を押すと、すくっと立ち上がった。と、足早に入口方向へ歩いて行った。彼女の突飛な行動は、希空の頭を一時的な回路不能にした。我に返ったときは、お団子ヘアはスタッフと一緒に厨房に入って行くところだった。おそらく、案内係に声をかけたのだろう。でも、なぜ厨房へ?答えは見つからなかったので希空は仕方なく、お団子ヘアから言われたとおり、ペーパーナプキンをホルダーから取るとカレーソースをつまんだ。白衣はやはり黄色いシミがついている。もう一度、ナプキンで拭いてみても黄色いシミは取れない。やっぱ、紙じゃムリじゃん!、とオシボリに手を伸ばそうとしたときだった。
「オシボリ、ダメですって!」
お団子ヘアの声だ。
「それ、脱いでください。洗剤もらってきましたから」
希空の前に、彼女が笑顔で小皿とタオルを持って立っていた。
初対面の方にそんなことさせられない、自分でするので、と希空が言うと
「ワタシがやったほうがキレイになると思います」と、相手は自信満々に言う。
促された希空が白衣を渡すと、お団子ヘアは小皿に入れた洗剤液を手際よくタオルで湿らせてシミをたたき始めた。黄色いシミが、見る間に落ちていく。
「濡れているけど、すぐに乾きますよ」
お団子ヘアが白衣を希空に返して、にかっと笑った。
「助かりました。こんなワザ、どうして知ってるんですか?」
「ばあちゃんちがクリーニング店なもんで」
お団子ヘアがガハハと笑った。医者のイメージを壊す豪快な笑い声は、他の客が思わず振り向いて見たぐらいだ。
年齢は2、3歳くらい自分より年下だろうか、と希空は思った。白衣につけられた彼女の名札は「椎名」だった。希空の視線を感じたお団子ヘアは、職員証を見せた。「椎名有紗」と書かれている。彼女は交換研究プログラムで派遣された臨床医だと言った。希空が自己紹介をしようとすると、有紗は知っていると答えた。
「聖ガブリエル病院から来られた槇原先生ですよね?先生と一緒に働けるのが楽しみです」
お団子ヘアは嬉しそうに話を始めたが、すでに希空の休憩時間はあと5分となっていた。後半のレクチャーが始まることを理由に「次の予定があるので」と、カレーを3分の1残して昼食を終えた。昼食が途中になったのは残念だったが、希空は少しほっとした。
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