(4)10月5日(土)午前0時
文字数 2,789文字
コットンブランケットが浮き上がった。
柔らかな光に包まれた希空がベッドに着地すると、ブランケットは静かに降りて優しく彼女を包んだ。起きる様子はない。相当疲れているようだ。夕食のあと機嫌が悪かったのは眠かったせいか。いや、半分くらいは強引に話を進めてしまった自分のせいだろう。
クラノスケが右手を少し上げた。と、暖色系の灯に似た光が、希空の頭をそっと持ち上げて傍にあった枕を移動させた。その時、空気の小さな流れが彼女の前髪をはらりとかきあげた。額には打撲あざが残っている。一昨日、職場でドアにぶつけたと言っていた。病院で働くということは大変なのだと理解しているが、これだけのたんこぶを作るということは、少しおっちょこちょいなのではないか。さっきも、うとうとしてパソコンにおでこをぶつけそうになっていた。もちろん、そうなる前に止めたが危ないところだった。もし、彼女が起きていたら、「勝手に触るな!」と怒ったはずだが、こんなにぐっすり眠っているから気づかれることはないだろう。そもそも、(何度も言っているが)自分は相手に触れるわけでもないので、抗議される筋合いはないと思うけど。
クラノスケは左手のひらを上にして目を閉じた。と、階下で微かに音が鳴り始めた。
洗面所のドアが開く音。
リビングのドアが開く音。
食器棚の引き出しが開く音。数回続いた。
えっ、ないのか?代わりになるものは……
あった!
シャカシャカする音。
冷蔵庫の扉が開く音。
氷がカラカラと立てる音。
蛇口から水が出る音。
水と氷が混ざる音。
おっと、冷蔵庫を閉めるのを忘れてた。
それからきっかり10秒後、部屋のドアが開くと、タオルと氷水が入ったポリ袋がゆらりと進んできた。それは、クラノスケの左手の上で止まった。
医者の家に氷嚢なし。しょうがない、とクラノスケが右手を少し下げると、タオルが希空の額にふんわり降り、氷水がポリ袋をカシャカシャと奏でながらその上に乗った。
※
クラノスケには記憶がなかった。
あの夜、気がついたらこの家の前に立っていた。身に着けていたのはシャツとスラックスで、どちらも真っ白だった。自分が誰なのか、なぜ此処にいるかもわからなかったが、そのことが怖いとも、悲しいとも思わなかった。説明することのできない不思議な感覚だ。
玄関の灯りがついていたので、インターホンを何回か押したが音は鳴らなかった。なぜだろうと、押しボタンを見るとインターホン本体に自分の手が透過していた。次に、目の前にある門扉を開けようとしたが、両手は特撮映像のようにアルミ格子に透けながら重なっていた。そのとき、自分は物体に邪魔されることなく進めることを知った。玄関まで続くタイルデッキを歩く。鈴虫が羽を哀しげに鳴らしている音が聞こえた。
玄関ドアの前で「おじゃまします」と、一応は断ってから入ってみた。いや、突き抜けたと表現するほうが正しいか。
玄関ホールには灯りがついていた。
「誰かいます?」
と、聞いてみたが返事はなかった。靴を脱ごうとしたが裸足だった。しかたない、とそのまま
クラノスケが外へ出ると星が瞬いていた。
月も出ていた。その月灯りの下、
歩いてみた。
スキップしてみた。
走ってみた。
だが、裸足の足は痛くなかった。息切れもしない。何も感じないのだ。ふと、目の前に日本家屋があるのに気付いた。さっきの家から歩いて5分くらいのところか。灯りがついており、人の話し声が聞こえる。格子の和風門は閉まっていたが、阻まれることなく庭に入ることができた。飛び石の周りに敷き詰められた白砂利。庭園灯が、景石と植栽を淡く照らしていた。縁側サッシ奥にある障子戸は開け放たれており、話し声はそこから聞こえる。失礼とは知りながらも縁側から侵入、いや表現が違った、
そのまま進む
とソファに座って大型液晶テレビを見ている初老の夫婦が見えた。「突然、お邪魔します」
と、テレビ鑑賞中の二人の前に立った。わりと大きな声で夫婦に話しかけたが、彼らはグルメ番組で紹介されていたラーメン特集に夢中だ。明日、行ってみようなどと話していて、全く気づく様子もない。二人には自分の姿が見えていないのだ。
クラノスケは夫婦の家を後にした。当てもなく歩いている途中、電動自転車に乗った中年男性に声をかけてみたが、男性は鼻歌を歌いながら通り過ぎてしまった。しばらくして、ハイビームの車が来たので両手をあげてアピールしてみたが、軽自動車はスピードを落とすことなくクラノスケの体を透りぬけて行った。しかし、この時点でも恐怖は感じなかった。もしかして、自分は幽霊なのかとも考えたが、服装は真っ白で洋装だし、足があるからと違う、と思うことにした。では、自分の存在理由(raison d'être)は何なのだろうと歩きながら考えた。
いつのまにか、クラノスケはこの家に戻って来ていた。だが、今度は家から人の気配がした。女性の声とそれに応えるように犬が軽く吠えているのが聞こえる。クラノスケはその声に引き寄せられるように、家の中に入って行った。
※
クラノスケは、ベッドでぐっすり眠っている希空の横に座っていた。
そろそろいいかな。
と、クラノスケが思ったと同時に、氷水の入ったポリ袋がカシャカシャと希空の額から上昇して空中で止まり、タオルがふわりと舞い上がった。左手の平を上に少しあげると、2つの物体は左手に近づいて空中で止まった。
あの夜、彼女と会話ができるとわかった時、「嬉しい」と思った。たが、その気持ちを知っていたのかどうかは思い出せなかった。そのあとすぐに「楽しい」という感情もわかるようになった。ま、ここでの暮らしはストレスも感じることは多少あるけれど。
でも、彼女に気づいてもらえなかったら、自分はどうしていたのだろう。誰とも会話せず、感情もないまま存在しているのだろうか。
さあ、皿洗いしないと。
クラノスケは立ち上がった。微かなパチンという音とともに、希空の部屋を照らす灯が常夜燈に切り替わった。
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