(1)9月26日(木)夕方

文字数 5,122文字

引越し業者が帰ったのは17時を回っていた。

 槇原希空(まきはらのあ)は、西日が差し込んだリビングに気が抜けたように立っていた。Tシャツに紺のジャージーパンツ姿は、競技に負けた陸上選手が夕日を受けて立ち尽くしている、というイメージがぴったりかもしれない。少しして、彼女は大きな息を吐いた。疲れたからとか、片付けが進まないから、という理由ではない。出向先が用意した住まいが、山の中腹にある、周りに何もない一軒屋だったからだ。最寄りの駅から車で15分の場所は、今まで暮らしていた都内と様相が全く違う。隣の家は、この家から百メートル以上離れている、というのは想定外だった。ホント、ツイてない。

 5日後に着任する東都総合メディカルセンターは、母校である東都医科大学が総力をあげて半年前に開業した医療施設だ。構想から6年の歳月をかけた医療施設は、ヘリポートとハイブリッドERを備えた最新鋭の設備を誇り、「断らない医療」を信条として1次から3次救急を24時間365日体制で受け入れている。そんなところで働ける機会はめったとない、と思うと同時に、なぜ自分なのだろう?と疑問が湧く。メディカルセンターで働きたい医者は他にたくさんいるだろう。母校に入局しているわけでもなく、母校と全く関係のない「聖ガブリエル病院」で働いていた自分が出向命令が出されることは、通常あり得ないことだった。それも、年次有給休暇取得義務化の5日間をこの時に取れという。何か気づかないうちに大きな失敗でもして調査が入るのだろうか、いや、それなら出向はさせないだろう。出向の理由について思い当たることはなかったが、あるとすれば人間関係だろうか?確かに、自分が社交的ではないのは認めるところだった。上司達が使いにくかったから、とりあえず人気のあるセンターに飛ばしておけば、文句は言わないだろうという魂胆か?そうは言っても、自分は聖ガブリエル病院で働くことにやりがいを感じていたので、内示を受けた直後、院長に抗議したのだが、博士号をとってこい、勉強だと思って行け、2年したら戻してやるからと押し切られた。その後、1週間で夜勤をこなしながら後任ドクターに怒涛のごとく引継ぎして、来たところがこの人里離れた4LDKの一軒屋だ。相棒のゴールデンレトリバーがいるのでワンルームでは無理だが、これほど広くなくてよいから、せめて最寄り駅から車ではなく、徒歩15分程度にしてほしかった。

 そもそもだ、と希空の不満はまだ続く。引継ぎの間に電話連絡を取っていたセンターの総務課長から借上げ住宅について聞かされたとき、自分に一軒家は広すぎるので、と断った。しかし、彼は「車で10分の距離だから、オンコールの条件を満たしているし、犬も運動できる庭もある。こんないい物件は他にない」と、言いくるめられてしまった。あのとき、断固、反対すべきだったと後悔したが、出向は期限付きだったので、それ以上の反論をしなかったのは自分だ。仕方がない、と、希空は何度目かの溜息をついた。確かにこの居住スペースは広すぎるぐらいだし、ほとんどの家具や家電が備え付けだ。
 詳しくは知らされていなかったが、この家は持ち主が2年間ほどアメリカに行くので、出向期間とぴったり合うという理由でセンター側が即決したらしい。きちんとした家主のようで、室内はリビング、寝室、どの部屋もきれいに清掃されており、業者のハウスクリーニングと防虫消毒の証明が残っていた。
 だが、コンビニさえ近くにないというのは、希空にとって生活に支障をきたすほど深刻だ。勤務は時間も不規則で買い物にさえ行けないくらい忙しい時が多々ある。今まで住んでいた2LDKのマンションは、近くに24時間営業スーパーがあったので、朝早くても夜遅くても生活には困らなかった。引越し業者のトラックに先導されながら、来る途中に見かけた深夜営業スーパーは、どう考えても車で10分はかかるだろう。やれやれ、困ったことになった、と希空はソファに沈み込んだ。自分ではゼッタイ買わない、いや、高くて買えない3人掛けの布製でアメリカ西海岸のリゾートホテルにおいてありそうなソファだ。あ、そんなとこ行ったことはないけれど、と自分でオチをつけたところで、相棒のゴールデンレトリバーが足音をたてて寄ってきた。しまった、犬用のフローリングマットがなかったのを忘れていた。引越しの荷物をまとめるとき、使っていたものが古くなったのでジョイントマットを全部捨てて来たのだ。フローリングに傷をつけると退去費用が増えてしまう。スマホで調べると、駅の近くにショッピングモールがあり、そこにホームセンターがあることがわかった。都内ならすぐにでも買いに行くところだが、じき日が暮れるし、不慣れな場所で5年前に中古で買った15年選手のアコードを運転するのは少し不安だった。いや、性能はすこぶるいい。オッチャンアコードはいたって元気で故障などしたことがない。だが、残念なことにナビはついていなかった。というか、つけていなかったから自分のせいなのだが。だから、うん、行くのは明日にしよう。と、言い訳をしてソファに寝転んで伸びをしたところだった。

「あ、ダメ!家主さんのだから!」

 声が思わず出たのは、サクラがソファにあがろうとしたからだ。2歳のゴールデンレトリバーは成犬だ。家主の家具に爪でもひっかけて傷をつけようものなら、弁償費用が発生する。賢い相方は「ハイ、わかりました」というように床に座って尾を振った。つぶらな瞳で見つめられると、無理に作った厳しい表情がつい緩んでしまう。それを我慢するため、希空はテラス戸に目を移した。あたりは薄暗くなっていたが、テラスの先には広い庭があり、コレオプシスなどの宿根草も植えられていた。これだけの庭なら、彼女を散歩に連れて行けない日でもストレス発散させることができるだろう。その点は、総務課長の見立てがあっていたと言わざるを得なかった。

 引越作業は、センター側が業者をヘルパー付で頼んでくれていたので、ほとんど片付いていた。衣類は2階の寝室にあるクローゼットにすべて入ったが、まだ余裕あった。もともとあまり物に執着しない性格で荷物は少なかったし、今まで住んでいたところに置いていた家具もほとんどが中古品で、寄付したり処分したりしてきたからだ。残っているのは、自分で片付けるので、とヘルパーに言っておいたダンボールが4箱だ。キッチンカウンターに1箱、洗面所に1箱、リビングに残り2箱が置いてあるだけだったが、片づける前に相棒を散歩に連れて行かなければならない。希空は、目の前にあるサクラの物が入った小さい方のダンボールを開けると、「SAKURA」と刻印されたタグがついた首輪を出した。サクラが近づいて嬉しそうにくるくると回った。思わず、自分も笑顔になってしまう。相方も希空にじゃれつくのに夢中で、首輪をつけさせるのに落ち着かせなければならなった。やっとつけたところでスマホが振動した。

 ジャージパンツの後ろポケットから振動しているスマホを取り出すと、090から始まる見慣れない番号だった。出るのを一瞬ためらったが、出向先からの連絡かもしれないとスマホのアイコンをクリックした。
「マキハラ・・・ノアさん?」
 深みのある男性の声でだ。第一声で名前をよばれて「はい」と答えた。やっぱり、出向先からの電話のようだ。いつも、「きそら」とか、「きく」と名前を誤って呼ばれることに慣れていたので、正しく呼ばれたということは、自分のことを知っている相手だ。
「はい、あ、センターの方ですか?」
 だが、相手はちょっと間を置いた。あれ、違うのか?では、誰だ?
「あれ、俺、わかんない?」
 まさか、詐欺か?
「あ、オレオレ詐欺じゃないからな。てか、久しぶりだからわかんないか」
 相手は自分の気持ちを知っているかのように喋っている。声に聞き覚えがあるような気もするが、希空は思い出せない。
「おい、だまるなよ」男性の声は笑いをこらえている。
「失礼ですが・・・」やはり、心当たりはない。
「おいおい、忘れたのかよ!俺、だろ?」相手は「ダロ?」に力を入れて言った。

 その「ダロ?」で、思い出した。希空の研修医時代の指導医だった加藤誠だ。だが、同時に驚いた。今の加藤は、希空のような一介の外科医が普通に話すことができない存在だからだ。東都医科大学病院の心臓血管外科を率いる加藤は、パナケイアサージカルシステムというロボットを使った低侵襲心臓手術の第一人者であり、メディアにもしばしば取り上げられる人物だ。希空より7、8歳上だが、5年前に東都医科大学史上最年少の38歳で教授となったスーパーエリート医師だ。先月も村山防衛総大臣の冠動脈バイパス手術を成功させて、加藤のことをメディアが大きく取り上げていた。そんな別格の存在である加藤が、なぜ自分の連絡先を知っているのだろうか。

「教授、お久しぶりです・・・」
 と、希空は言ったものの、次の言葉が見つからず困っていると、「おお、久しぶりだな。元気だったか?」と相手から問われ、「はい、教授」とだけ答えてまた沈黙した。
「おい、カトダロでいいよ、だろ?」加藤が続けた。どうやら、彼は「教授」と呼ばれるのが嫌らしい。
 カトダロとは、当時の研修医達が指導医だった加藤につけたあだ名だ。言葉の最後に「だろ?」がつくことが多かったから、誰ともなく「カトダロ」と、こっそり呼ぶようになったのだが、本人が知ってたとは知らなかった。
「そんなふうにお呼びしてたなんて恐れ多いです。でも・・・」
 希空が恐縮したあとに「でも」を付けると、快活な笑い声がスマホから聞こえた。
「なんで、オマエの電話番号を知ってるのか、だろ?」
 やはり、「だろ?」は、健在だ。はい、と希空が答えると、
「10月からセンター、だろ?」
 なぜ、加藤がそれを知っているのか、希空が質問する前に相手が続けた。
「どうして知ってるのかって? ばぁか、俺が(・)天草のジジイに頼んでオマエを出向させたからさ。番号は総務課長で聞いた」
 天草のジジイとは、希空の出向元である聖ガブリエル病院の院長だ。天草院長も東都医科大学出身で加藤の指導医だった経緯がある。加藤の口が悪いのは昔から変っていない。それに、「俺」の後へ続く助詞にアクセントをもってくるところも、研修医が問いかける前に、その質問を知っていたかのように正解を教えて、「だろ?」ということも。だが、それにしても・・・
「急にこんな山ん中の病院に、だろ?」
 さすが、指導医は研修医の疑問を先読みして・・・いや、自分はもう研修医ではないが、でも、なんで?
「俺が、急にセンター長になったからさ」 
 だからって、なぜ?
「あとの説明をしてやるから今から来いよ。施設、見たことない、だろ?すごいぞ」
 希空はセンターが開設されたことは知っていたが、行ったことはない。加藤がセンター長になったことさえ知らなかった。冷たいヤツだな、と加藤が笑った。昔の指導医に加えてこれから上司になる人物には逆らえないが、外はもう暗かった。運転が少し不安だ。
「運転、不安か?何なら迎えに行ってやってもいいぞ。センターの近く、だろ?あ、これも俺の特権で聞いた」
 見透かしたように、電話の向こうで加藤がまた笑った。
「横浜で会合があって、俺もそっちに向かってるとこだ。どうせヒマ、だろ?あと、30分くらいでそこに行けるぞ?」
「私が伺います。大丈夫です」希空が慌てて話を遮った。教授に迎えにきてもらうなど、とんでもないことだ。車にナビはついていないが、スマホナビを頼れば何とかいけるだろう。
「そうか、じゃあ、気をつけてこいよ。あ、この番号は登録しとけよ」
 相手は通話を切ったが、希空のスマホは暫く話中トーンを発していた。

 我に返ると、リードをつけたサクラが「散歩いこうよ」とねだっていた。彼女に期待させて悪かったが、ちょっと待ってもらおう。希空はスマホを切断して2階にかけあがった。寝室に入りながら、引っ越し作業で汗をかいたTシャツを脱ぎ棄て、ベッドの上においてあった長袖トレーナーに袖を通しながら、寝室をでて階段を駆け下りた。この間、30秒。この素早さは、オンコールで鍛えた熟練の技だ。息を弾ませてリビングに戻ると、しっぽを振っているサクラのリードをはずしながら、ごめん、あとでね、と言って、キッチンカウンターにおいてあったバックパックをひったくった。サクラがちょっとすねたような表情をしていたが、帰ってから散歩につれて行けばいい、と希空は自分に言い聞かせて玄関を出た。
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登場人物紹介

槇原希空     聖ガブリエル病院から東都総合メディカルセンターへ出向を命じられた救急救命医。

         出向先が借り上げた一軒家に引っ越した日に自称天使が現れる。

  


山田クラノスケ  希空が引っ越してきた家に現れた(翼がないのに)自分は天使だと言い張る

         「自称天使」。限られた人間にしかその姿を見せない。


加藤誠                 東都総合メディカルセンター長 サージカルシステムロボットを使った

                         低侵襲心臓手術の第一人者。 希空の元指導医

椎名有紗                東都総合メディカルセンターに交換研究プログラムで派遣された臨床医。

          お団子ヘアと眼鏡がトレードマーク。

清水初音     全国展開の最大手スーパー、ピュアマーケット社の会長  

永瀬准      東都医科大卒の救急科専攻医 長身ですらっとしているので希空から「スラレジ」と

         呼ばれている

稲垣邦紘      東京地方検察庁特別捜査部の検察官   

前川悠人      東都総合メディカルセンター脳神経内科専門医

          最近結婚した薬剤師の奥さんとおいしいスイーツの店を訪ねるのが趣味。

James Brennan     インターフューチャー社 メディカルテクノロジー事業 副社長

ジェームス ブレナン

神崎 恭輔      防衛総省 高級官僚

岡田健斗     ジャパンサテライト放送(JSBC)の報道番組ディレクター 東都医科大出身 

         希空の先輩

藤沢徹      防衛総省外局 防衛研究庁 技術開発室長 

志賀直樹     経済省 産業技術開発局 国際標準課職員 

         防衛総省外局 防衛研究庁 技術開発室に出向中  

サクラ      希空が飼っているゴールデンレトリバーの女の子。賢くて面食いな犬。

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