(5)10月4日(金)午前9時
文字数 3,055文字
ステンレスに埋め込みされた照合パネルにIDをかざすと、強化ガラスドアがスライドする。こんな設備、聖ガブリエル病院の特別室フロアにはない。さすが、母校が総力をあげただけのことはある、と希空は感心した。たが、この設備に慣れるまでもう少し時間がかかりそうだ。昨日、初めて一人で来た時、自動扉だと思って早歩きで突き進み、額を思いきりぶつけた。
「どうしたんですかっ?!その、おでこ!たんこぶ!」
その晩、クラノスケは希空が帰るなり、まるで母親のように矢継ぎ早に聞いてきた。それから、すぐに氷で冷やしたが、その甲斐なく今朝の皮下血種は3センチ四方にわたって見事な斑の青緑色になっていた。クラノスケのアドバイスどおり前髪で隠すことにしたが、痛みはまだ残っている。そういえば、一昨日、案内してくれたスタッフは自分のIDカードを照合端末にピッとしていたっけ。もちろん、最近はほとんどの病院がセキュリティ対策で入退室管理システムを導入している。それでも、この12階は雰囲気が全く違っていた。一流ホテルにあるフロントと見間違うようなナースステーションがあり、ジャケットスーツの専任コンシェルジュが出迎える。廊下は高級コルクタイルが敷き詰められ、万が一、誰かが転倒してもクッションになる造りになっていた。奥には特別室利用者専用ラウンジがあり、ヨーロッパの有名ブランドの家具が備えられている。当然だが、病院スタッフと利用者の関係者以外は入れないようになっており、プライバシー対策はさらに厳重だった。利用者はVIP用エレベータで、人眼につくことなく出入りできる。部屋にはカードキーがないと入れない仕様だ。マスコミ対策も万全なことから、政治家や有名人なども利用している、とは昨日のスタッフの説明だ。なんでも、40床近くある特別室は最低でも室料差額が一日10万円から、中には一日30万円以上する病室もあるとのことだった。ホテルのスイートルーム並みだが、病床利用率は90%超えだということだから、このフロアはドル箱病棟だ。
希空はこの特別病棟の患者を受け持っている訳ではなかった。このフロアに入るのは、特別個室病棟を抜けて右に曲がった奥に自分専用のオフィスがあるからだ。オフィスと言っても狭い個室だが、希空のような医師にとっては破格の待遇だ。なにせ、前の職場では研修医と同じ大部屋で、仕切りボードで区切られた区画にデスクがあり、隣の医師の専門書が雪崩こむ環境で事務作業をしていたのだから。とっとと、この場違いな空間から逃げようと、足早に廊下を歩いていたとき、希空の前から若い女性看護師とぶつかりそうになった。相手も足早だったらしいが下向きだったので、自分に気づかなかったらしい。
「あっ、すみません」
希空が相手のために通路を空けると、彼女が手で涙をぬぐったのが見えた。看護師は無言で頭を少し下げると、早歩きでナースステーションに戻って行った。誰かに叱られたか。こんなときは、気が付かない振りをしてあげるのが一番いい。そう思いながら歩き出したとき、
「痛っ!あんたもダメだよ!」
苛立った女性の声が特別室から聞こえた。前に見える特別室のドアが少し開いている。
「申し訳ありません」女性の声が続いた。不満をぶつけている患者は少し年齢が高そうだ。
「ここの看護師も医者も、ヘタなのわかってんの?よく、それでよく看護師だの医者になれたもんだ!
「お言葉ですが、ちょっとは我慢いただかないと・・・」相手が反論を始める。
「あんた達みたいに、血管ぐりぐりされたら、たまったもんじゃないよ!もう3人目じゃないか!」
「でも、採血して点滴したお薬が効いているかどうか調べる必要があるんです」
「もういいから、他の先生に代わっておくれよ!」
「ご協力いただかないと困ります!」
二人のトーンはエスカレートしていく。そして、希空は患者に言い返している声に聞き覚えがあった。プライバシー保護用の室名札についているプレートを上にスライドして名前を確認すると、清水 初音様と書かれている。空いてるドアからそっと覗くと、白髪を美しく束ねた70代くらいの患者の前で、お団子ヘアがシリンジ片手に説明している。横で白衣の男性研修医が、困った表情で駆血帯を持ったまま立っている。この患者は真空採血が無理なようだ。
「椎名先生?」希空がドア越しに声を掛けると、
「あ、槇原先生!」
有彩は小走りに近づいてきて患者に背を向けると、救いを求める表情になった。
「採血?」希空が小声で聞くと、有彩は頷いてひそひそ声で付け加えた。
「血管が細くて・・・看護師の次に彼がちょっと失敗して、ワタシが代わったんですけど・・・」
研修医は申し訳なさそうに肩をすくめた。こちらのお団子ヘアも採血が苦手らしい。さっきの泣いていた看護師は、この患者を担当していたようだ。威勢がいい患者だから圧倒されたのだろう。
「代わりの先生かい?4人目だね?」
白髪に高級シルクが輝くパジャマ姿の患者が希空を見ていた。え?、アタシ?
「こんな、新米達をよこすんじゃありませんよ!そろいもそろって!」
そう言い放った患者の眼光は鋭かった。まるで、着ているシルバーのパジャマが瞳に反映しているのかのようだ。さすが、特別室の利用者だ。どこかの大企業の経営者だろうか?
「では、先生、お手並み拝見、といこうか?」
特別室の患者だろうが一般病棟の患者だろうが、希空には関係なかった。必要なときに必要な医療を提供する。今まで教えられてきたことだし、これからも考えは変わることはない。だが、
「清水さん、私、上手ですよ」
と、思わず希空の口からでた言葉は宣戦布告のようだった。どうやら、権力を使う人間に対しては、自分は少し反感を持っているのかもしれない。
初音の左腕を見ると、内出血していた。有彩が持っていたタブレットで病状を確認する。3日前に、風邪をこじらせ入院。軽度の肺炎。細菌性が疑われているようだ。
「あんたはこの人達より、年いって見えるからベテランさんだね?」初音が言った。
「清水さん、年取ってみえるは失礼ですよ。それに、ベテランは退役軍人という意味です。間違ってますよ」と、有紗が口をはさむ。どうやら、彼女も勝気な性格らしい。
「年いって見える、といったんですよ。それに、ベテランは和製英語ですけど、日本では熟練さんという意味で使っているんです。そんなことくらい知っています」
どちらも負けてはいない。二人が応酬している間に、希空は手指消毒をしグローブをつけた。
実は、採血が一番上手なのは看護師だ。看護師が採血する機会が多いので自然と上達する。反対に年季の入った医師は採血は看護師や研修医まかせだから、年を追うごとに下手になる。ほとんどの人はこの事実を知らないが、希空にとって採血は昔から得意だった。研修医時代、指導医よりも上手で褒められたくらいだ。今でも、その腕は落ちていない。
「では、清水さん、ちょっと腕をお借りしますよ」と言って、希空は初音の右腕と左腕をさすってみた。
「OK、じゃあ右腕にしましょう」研修医から駆血帯を受け取ると、初音の上腕に巻いた。
「さあ、ちょっとおまじないしますよ」希空は、3秒ほど目を閉じて軽く深呼吸した。それが終わると、初音の腕を2、3か所押してアルコール脱脂綿で消毒し、狙いを定めてすっと針をさした。
「ホントだ。痛くないよ」
初音が感心したようにつぶやいた。
(ログインが必要です)