(6)10月26日(土)17時30分
文字数 6,863文字
本人達がどう思っているかは知らないが、ウチにいるとクラノスケとサクラの相手をしてしまう。おかげでレポートは進まない。だから、今回みたいに締切が迫っているときは自分のオフィスを使うに限る。時々、ぽっちゃり先生や、お団子ヘアの邪魔が入る時もあるけれど、アイツらと一緒よりは集中できるから。
すでに暗くなっているが、完成まであと少し。この調子なら、なんとか月曜日の期限に間に合いそうだ。一息入れて、もうちょっと頑張ろう。
希空が自販機にスマホをかざしてホットコーヒーの選択ボタンを押したときだった。
「やっぱ、ココだった!」
頭上で聞こえる声には聞き覚えがある。嫌な予感がして見上げると、クラノスケがニカッと笑って見下ろしていた。希空は辺りに誰もいないのを確認すると、深い息を吐いた。
「なんで来たの?」
「今日はバスで来ました。無賃乗車で心苦しいです」
クラノスケもヒソヒソ声で答える。
「どうやって来たかなんて聞いてないっ!」
大きな声が思わずでてしまい、希空は慌てて手を口に当てた。
「スマホ、見てませんね?」
メール送ったのにと、クラノスケは頬を膨らませた。
「そんなの見るヒマない」
スマホをジーンズの後ろポケットを戻した希空は、素っ気なく答えて自販機から紙コップに入ったコーヒーを取り出した。
「『そんなの』、って言いましたね?」
自称天使は、背を向けた彼女の前に回り込むと腕を組んで立ちはだかった。
居座られると困るのは希空だ。ここは適当にごまかしておこうと咄嗟に出た言葉は、「あとで見とくから」だった。
だが、相手は一時凌ぎを見抜いていた。それを証明するかのように、カフェテーブルの椅子が物理の法則を使わずに動いて「座れ」とスペースを開けた。
レポート仕上げなきゃいけないのに。
オフィスに戻ろうとして希空は右足を踏み出した。が、踵を床につけた瞬間、手からコーヒーカップがするりと浮かび上がり、ゆっくりカフェテーブルの上に降りた。状況を把握する間もなく、目に見えない力が下肢の動きを封じ込めた。急に止められた反動でバランスを崩しそうになったが、倒れないように 仄かな光が包み込んでいる。希空は自分の踏み出す運動エネルギーを増幅させるため、自由が利く両腕をぶんぶん振ったが両足はびくとも動かない。
「アンタ、絶対バチあたるから!」
小声でしか悪態を吐けないのが悔しいが、土曜日ということもあり、周りに誰もいないのが不幸中の幸いというべきか。
「天使にバチはあたりません。スマホ見るまで帰りませんから」
自称天使は目と顎で椅子を指して言った。
希空がしぶしぶ同意すると、光は瞬時に消えて両足が自由になった。全く、目的を達成する戦術策定においては、コイツの右に出るものはない。ぶつぶつ言いながら椅子に腰を下ろしてスマホを取り出した。ショートメッセージを開くと、SNSアプリ招待のURLが貼られている。
「コレのために、わざわざ?」
ディスプレイから視線をあげると、向い側に座った自称天使は両手の平を組んでカワイコちゃんポーズで頷いている。この仕草は、近頃ヤツが取り入れた戦術だ。希空は舌打ちしながら、紙コップに口につけると、チャットアプリをクリックした。
「KY」
承認画面に現れたユーザー名だ。
「ケー・ワイ」
希空の忍び笑いは、自称天使の表情にクエスチョンマークを浮かべさせた。
「イニシャルですけど、何か?」そう、確かに山田・クラノスケの頭文字だ。
「空気読めないって」
ニヤニヤが止まらない希空に、
「それを言うなら、『危険予知』の略です」自称天使は口を尖らせて反撃に出た。
応戦したいが、コイツに帰ってもらうことが先決だ。
「今だってそうなのに」の代わりに、「トモダチ承認完了」と呟いた。
「じゃあ、戻っていいよね?」
立ち上がった希空を見て、クラノスケは軽く息を吐いた。
「冷たいなあ。せっかく、ハッシュドビーフ、作ってるのに」
「えっ、今日の御飯?」
希空はクラノスケに視線を戻した。以前は空腹を満たせられるなら何でもよかったが、最近は食事に興味を示すようになっている。
「そう、本格的なヤツ。そこらのシェフに負けてません」
真っ白なコックコートにシェフスカーフを付けている自称天使は、立ち上がると胸を剃らした。気づいてはいたが、衣装から入るとは。コイツ、何でも突き詰めるタイプだと、感心した希空だったが、ふと疑問がわいた。
「ハッシュドビーフって何?」
イギリス発祥とされる料理についてクラノスケがウンチクを語り始めた。希空は5分経過した時点で、時間が気になったらしく話を遮った。
「了解!レポート仕上げたらすぐに帰る。続きはあとで」
「それじゃ、なるだけ早く帰って来てください」クラノスケが残念そうに言う。
「たぶん7時頃かな」希空が指でオッケーサインを作った。
にっこり笑った自称天使が、ふっと真顔になった。
「誰か来ました。喋らないで」
「誰かとお話中かい?」
複数の軽い靴音がしたと同時に声が聞こえた。希空が息を素早く呑み込んで振り返ると、上質なスーツ姿の清水初音が立っていた。秘書らしき男性が一歩下がって控えている。
「清水会長」
希空は平静を装って言ったが、心拍数が上るのを感じた。
「ピュアマーケットの?」
能天気に発言したのはクラノスケだ。どうやら、お団子ヘアの情報を覚えていたらしい。
ところが、言われた本人の初音は眉をひそめた。
ヤバイ、お団子ヘア情報はガセネタだったか。
「あーっ、すみません。清水さん」希空が慌てて言い直すと、ピッチリ七三の男性が、初音の後ろから顔を出して人差し指を立てた。
「ピンポーン!正解、ピュアマーケットの会長です」
「一ノ瀬」
初音は秘書を睨んだが、彼は臆することなく白髪が混じり出したピッチリ七三を内ポケットから取り出した櫛で撫でつけて言った。
「だって、ホントのことですもん」
「あのピュアブランドの会長さんですかっ!」
空気を全く読んでないクラノスケは、初音の前に出てきて「いつもネットスーパー利用してます!」と親指を立てた。ヘコヘコするのは天使らしからぬ態度だが、だからと言って無反応の、それも大企業の会長がスーパーの割引券をくれるわけではないだろう。
「ハッシュドビーフがどうしたんだい?」
ハッシュドビーフ!? 会長はクラノスケとの話、どこから聞いてたんだろう?希空はプチパニック状態に陥った。
「大丈夫かい、先生?」
「あ、はい」答えにならない答えをする希空を、初音は心配そうに窺った。
「誰かと喋ってたんじゃないのかい?」
この状況をどう打破したものか。頭を巡らしている希空にクラノスケがスマホを指さして「チャット、チャット、トモダチと」小声で囁いた。ココはクラノスケの指示に従うしかない。
「ああ、チャットしてたんです。トモダチが晩御飯にいいメニューはないかって」
「チャット、チャット、切らないと」クラノスケが追加アドバイスを出す。
そうだった!「ちょっと失礼します」と、希空はスマホを持ち上げ「ごめん、あとでかけなおすから。またっ」と言うや否や、スマホをジーンズの後ろポケットにしまいこんだ。我ながらアカデミー賞ものの演技だ。
「最近の人は相手がそこにいるような感じで喋るんだねぇ。大したもんだスマホって」
頷く初音に、「ええ、画像が見れるので」と思いついた言葉を繋げる。
「で、今日はどうされました?」
希空は首の付け根を押した。少しでも交感神経が優位になるのを抑えたい。
「まあね」
初音は手に持っていた資料を秘書に渡した。これで話題をうまく逸らせたか、と希空が思っている横でクラノスケが軽く息を吐きだした。ヤツも少しは緊張したらしい。だが、こうなったのはコイツのせいだ。
「こちらの理事会に」ピッチリ七三が右手の平を上にした。
「それなら、上の階ですよ」と希空が答えた。14階には役員専用オフィスと理事会専用会議室がある。
「ちがーう!」秘書は手に持っていた資料を横に振った。
「もう理事会は終わりました。スポンサー契約の件でお邪魔してたんですよ」
得意気に言うピッチリ七三に「あんた、本当にお喋りだね」初音が舌打ちする。
「言ったって減るもんじゃないでしょ。このあと、すぐに公になっちゃうし」
全く自由気ままな秘書である。
「ああ、そうだったんですね」
希空にとっては、スポンサー契約が理事会でどうなったなど預り知らぬところだし、興味などこれっぽっちも無い。「それでは」と、自分のオフィスに戻ろうとした時だった。
「会長、こちらでしたか」
加藤教授が数人の職員と共に足早に向かってきた。初音を探していたようだ。彼の取り巻きには、専攻医の「スラレジ」永瀬と「ぽっちゃり」前川准教授もいるが、スクラブの永瀬以外は全員スーツだ。
「あ、槇原先生も会長とご一緒だったんですね!」
希空に気づいたスラレジは、知らない場所でクラスメイトを見つけた生徒のように近づいてきた。
「会長、ウチの槇原とお知り合いでしたか?」加藤が初音に声を掛ける。
「そうなるかしら。入院中の採血は、槇原先生に毎回お願いしてましたからね」
「採血技術は、医師より看護師が優れているんですが、彼女は研修医の頃から長けてましたよ。でも、それだけじゃない、槇原は我が東都医科大学が誇れる医師の一人です」
加藤が嬉しそうな表情を希空に向けた。
「教授、止めてください。そんなに褒めても何もでませんよ」
希空が両手を振って否定する。傍でクラノスケが「ノアさんって、すごいんですね。見直しましたっ」と、胸に手を当てた。
オフィスに帰ることもできず、気まずいこの状況から脱出できない希空は突っ立ったままだ。
「会長、そろそろ会場へお願いします。『フェニックスウルトラ』の選手達も到着し始めたと連絡が入ってきましたし」加藤が促すと、相手は顔の前で手を振った。
「社長と広報が対応するでしょ」
『フェニックスウルトラ』は、地元の車いすプロバスケットチームだ。日本選手権5連覇を達成し、パラリンピックの日本チームメンバーにも排出している強豪チームである。東都総合メディカルセンターもサポーターとして医療面で協力している。
「会長がお越しいただけるのを選手達も待ってますから、ぜひ」
困った表情の加藤が秘書を見ると、バトンを受け取ったとピッチリ七三が頷いた。
「スポンサーになったのは、会長がSDGs貢献企業として取り組めと指示されたからですよ。選手達との交流会に会長が参加することで、我が社のブランド力もあがります。さ、会長、参りましょう」
確かに秘書の言うことは筋が通っている。初音は諦めの溜息をついた。
「では、会場で。あ、見送りはここで結構よ」
軽く会釈して歩きだした初音に、加藤が深々と頭を下げた。職員達も同じく頭を下げて、会長と秘書を見送った。目を見合わせたスラレジと希空は、彼等の動作を真似するしかなかった。
「そろそろ、戻ったほうがいいんじゃないですか?」
クラノスケの声がした。そうだった!希空は勢いよく顔を上げて「私はこれで」と背を向けると、「おい」と加藤の声が止めた。
「マキノアも来いよ」
それは困る。まだ、レポートが終わってない。
「すみません、教授、遠慮させてください」
振り返って勢いよく頭を下げた希空を無視して加藤は続けた。
「会場にはメシがある。どうせ、一人、ダロ?」
お団子ヘアにも「どうせ、一人でしょ?」と言われたが、カトダロに「一人ってワケでもないです」とは絶対に言えない。
「いえ、予定が・・・」
歯切れ悪い希空の代わりに、クラノスケが腕組みして加藤の前に立った。
「一人じゃないですよ。ボクもサクラもいますし、晩御飯も作ってるんで心配ご無用です」
当然ながら相手には聞こえていない。
「お、誰かがとメシ食いに行くのか?」
直球質問だが、教授は速攻で自ら答えを出した。
「行かないな、その服装じゃ」
希空はジーンズにトレーナーだった。
「あの、レポートを仕上げないといけないので」
そう、正当な理由が自分にある。何しろ月曜日が期限だ。しかも、クラノスケが作ったハッシュドビーフもある。
「そうか、しかたないな」教授が軽く笑った。
ふう、と希空は息をついた。
「締切に間に合わないし、ダロ?」
「そうです。教授、ご一緒したいんですが今回は」
残念そうに頷くと、教授は肩をすくめて言った。
「マキノア、違うぞ」
指導医だったカトダロからよく言われた言葉を、何年ぶりかで聞いた希空は困惑の表情を浮かべた。
「1週間、提出を伸ばしてやるってことさ。それに、紗英が食事のフードコーディネートしてるんだ。アイツと会うのも久しぶり、ダロ?」
加藤の妻、紗英はフードコーディネーターだ。研修医時代には加藤の家で食事をご馳走になったこともある。彼女の「おいしい病院食」の提唱は各方面から支持され、メディアにも取り上げられている。先日、希空も彼女に関する記事をネットで読んで懐かしく思っていたところだ。
職員の一人が近づいてきて、「そろそろ」と教授に声をかけた。だが、加藤は「ちょっと待っとけ」と待機させて希空に視線を戻した。
「でも、ご迷惑でしょうから・・・」微かな抵抗を試みた希空が、視線を気づかれないように横に移すと、思ったとおり憮然としたクラノスケがいる。
「オマエの好きなワイン、用意してもらってやるから、来いよ」
希空の目が少しだけ動いたが、自称天使が横で大げさすぎる息を吐いた。
「ダメです。ノアさん、飲みすぎちゃうでしょ。お肌にもよくないです」
希空は右手を上げてクラノスケに「だまって」と合図しようとしたが、彼が見えない人には誤解を与える動きになるため、その手をくるりと回して首に当てた。
「最近、アルコールは控えるようにしてるんです」
「誰もたくさん飲めと言ってない、ダロ?なあ、永瀬先生?」
雲の上の存在とも言える加藤教授に声をかけられたスラレジは、直立不動で「はいっ、そうです」と答えるしかない。希空の顔を覗き込んだ専攻医は、「槇原先生、一緒に行きましょうよ」と助けを求めるような表情で言った。様子を見ていた前川も誘いに加わる。「デザートもカロリー少なめでおいしいはずです。なんたって、紗英先生の監修ですから」
彼等はクラノスケと違って空気を読んでいた。
「希空の隣」というポジションを、高身長の青年医師とぽっちゃり中年医師に奪われたクラノスケは、腕を組んで視線を上にした。
職員達は加藤達の背後で時間を気にしながら待っている。
希空は無言の圧力を感じ始めていた。この雰囲気は断れない状況だ。さすが、元指導医は先を読んでいる。ある意味、クラノスケよりも上手だ。
「じゃあ、ちょっとだけ。教授は皆さんと先に行っててください」
「場所わからない、ダロ?」
「一緒に行きましょうか?」
ぽっちゃり医師が申し出たが、希空が断るよりも早くスラレジが即答した。
「俺、着替えないといけないから一緒に行きます。場所もわかりますから」
「そうか、永瀬先生、頼んだぞ」教授が頷くと、青年医師は「はいっ」と元気よく答えた。
「マキノア、待ってるぞ」
加藤は右手を上げて「ヨロシク」のジェスチャーをすると、職員達を引き連れて足早に会場へ向かって行った。
じゃあ、と希空がスラレジを見上げた。
「ワタシの車で行こう。荷物、取ってくるから駐車場で待ってて」
ワインは飲めなくても、オッチャンアコードで行ったほうが帰る時に都合いい。
「はいっ!すぐに着替えて行きます」
今にも走り出しそうな勢いなので「走らないでね」と念を押す。
「了解です!」
体育会系青年医師はメリハリの利いたお辞儀をすると競歩でロッカールームへ急いだ。スラレジの姿が見えなくなると、希空は傍にいたクラノスケに手を合わせた。
「ゴメン、すぐ戻るから先に帰っといて」
※
「誘っちゃったの、迷惑でしたか?」
浮かない顔で運転している希空に、助手席のスラレジ永瀬が尋ねた。
「いや、そんなことないよ」
そんなふうに見えるとしたら、後部座席に座っているソイツのせいだ。
「ノアさんはレポートで忙しかったのに」自称天使が声のトーンを落として言った。
無理やりくっついてきたアンタがそれを言うのか、と希空は振り返った。クラノスケはプイと横を向き、ガラス越の対向車を見るフリを決め込んだ。
「どうかしました?」スラレジが不思議そうに聞く。
「いや、後ろに車きてないかなあっと」
希空は前を向くと唇をきゅっと結んだ。ごまかすのも一苦労だ。
「僕が見ときますから、大丈夫ですよ」
スラレジがサイドミラーを見ながら言うと、「ふん!」という声が聞こえた。
ああ、ソイツに言い返せないのがもどかしい。
こんな状況にしたのは、他でもない、アンタだ!
(ログインが必要です)