(1)10月1日(火)午前7時50分
文字数 3,180文字
だが、
今朝もひと悶着あった。
「なぜ、ジャージなんですか!昨日、オレがちゃんと用意したでしょう?」
パジャマ代わりのスエットから緑のツーラインジャージに着替た希空を見たとたん、クラノスケが大きな声を出した。高校生や中学生じゃあるまいし、初日くらいはちゃんとした服で出勤するのが社会人ではないか。とは、ヤツの言い分だ。スエットもジャージも変わり映えしないということは100歩譲って認めよう、だが、これは立派なモラハラじゃないか。希空が言い返すと相手は、着替えないならスーツを持って仕事場までついて行くと脅かした。スーツが空中を浮かぶのも(他人はクラノスケが持っているのなんて見えないし)、仕事場で自称天使が見えるのはごめんだ。消去法で出した結論は、ヤツが選んだ(1着しかない)パンツスーツを着ることだった。ホント、あの家に引っ越してからロクなことがない。と、希空が小さな溜息をついたとき、
「マキハラ」
左方向から男性の深い声がした。
希空が横を見ると加藤が、おう、と左手をあげている。シンプルだが特注とわかる上品なスーツを着こなしている加藤は、ファッション誌に掲載されている高級ブランドスーツのシニアモデルのようだ。ダレスバッグを持っているということは今、出勤したのだろう。希空は、慌てて姿勢を正すと頭を下げた。
「教授、ご無沙汰です。おはようございます。今日からよろしくお願いします」
「なんだ、挨拶も服装も余所行きだな」
加藤は快活に笑ったが、希空は落ち着かない。相手が元指導医に加えて教授となると、やはり緊張する。
エレベーターの扉が開いた。
希空はすばやく乗り込んで、行先階ボタンの手前に立った。
「何階を?」
「おう、14階」
希空は階数ボタンを押したあと、4の表記があるボタンを押した。まず、4階にある総務課に行き、出向に伴う書類や職員IDの発行など手続きをすることになっていた。すぐにエレベーターは4階に到着したが、加藤の手が伸びて「CLOSE」を押した。
「まず、オレのオフィスが先、だろ?」
しかし、希空が指定された時間は8時だ。あと、8分しかない。
「でも、入職手続きが・・・終わったら伺います」
「事務はあとでいい。お、ついたぞ。ここのエレベーター早くて、えれーベター(better)、だろ?」
最後に「だろ?」と言うのは加藤の口癖だ。先日の電話で久しぶりに聞かされたが、本人を目の前にしてこの「キメ言葉」を聞くのは何年ぶりだろう。寒いダジャレも健在だが、希空はどんなリアクションをしていいのかわからず、真顔で「はい」と言うしかなかった。
エレベータの扉が開いた。
加藤が希空をエレベータの外へ促した。元研修医の寒いリアクションを気にした様子は全くなかった。
※
市街地まで見渡せるオフィスで、加藤が希空にソファを勧めて向かいのアームチェアに腰かけた。希空は光沢のある本革ソファに緊張しながら座った。こんな立派な応接セットを見るのは初めてだ。聖ガブリエル病院の院長室にある応接セットは、希空が入職した頃から変わってないし、紺の革製ソファは白く色褪せてところどころ擦り切れていた。
「先日は悪かったな」
そうだった。不謹慎だが、あの晩センターに運びこまれた高エネルギー外傷の男性患者のことをすっかり忘れていた。それもこれも、あの自称天使が現れたせいだ。
「患者さんは?」
「オマエの見立てはあってたよ。だが、」
加藤の表情が少し暗くなったように見えた。
「オペ中、アレスト(心停止)した」
救急隊員の話では、自分と同世代だったはずだ。寿命にはまだ早すぎる、と希空は思った。患者を救えなかった時はいつも気分が滅入ってしまう。
「5年ぶりか?」
加藤がすぐに話題を変えた。
確かに5年前だった。聖ガブリエル病院の天草院長が企画した研修会の目玉として、東都医科大学時代の教え子である加藤に講話を頼んだ時だ。希空も加藤が話をする会議室で準備を手伝っていたが、当時からスター医師だった彼を色めきだった職員たちが取り囲んでしまった。加藤とは挨拶程度でゆっくり話す時間もなかった。急患対応ですぐに呼び出されてしまったからだ。
「引っ越しは片付いたか?」
「荷物も少ないのですぐに終わりました」
「で、少しはゆっくりできたか?」
「はい、おかげさまで・・・」
突然、見えないものが見えるようになったとは口が裂けても言えない。
「そりゃ、よかった」
加藤が笑って頷いた。元指導医は目じりに皺が少しでていたが、体型も昔と変わってない。相変わらず女性看護師たちが憧れる存在なのだろう。
「そうそう、天草のジジイがオマエのこと褒めてたぞ。よく働くって」
天草院長は外科医が休みなく働かざるを得ない状況になっていることをわかっているのだろうか、と希空は思った。キツイ職業だから敬遠され、それは負の連鎖となり、昨今の深刻な外科医不足につながるのだ。
秘書らしき女性が、コバルトブルーの花模様が美しいコーヒーカップを置いてくれた。天草院長がくれたコーヒーの香りと一緒だ。希空はコーヒーを一口飲むと、ソーサーに戻して言った。
「あの、質問してもいいでしょうか?」
なんだ?と、カップを持ち上げていた加藤が顔を上げた。
「何が理由でしょうか?」
「出向のことか?」
希空が頷いた。
「オマエを呼んだのは、救急医療体制を改善しようと思ったからさ。それに、」と、コーヒーカップを口に運びながら加藤が続けた。
「そろそろ博士号も取らせないと、ってジジイが言ってたしな」
「研究には興味がありません」と、希空は間髪入れずに言った。センターの救急科で働くものだと思っていたからだ。
「まあ、そうハッキリ言うな。キャリアアップには必要、だろ?」
「やりたいのは救急集中治療のスキルアップです」
加藤が微笑みながらカップとソーサーを応接テーブルに置いた。
「オマエ、もう専門医、だろ?」
希空は聖ガブリエル病院で3年間の専門研修を修めたのち、全日本救急医学会の資格試験に合格している救急科専門医だ。
「そろそろ、後進を育てることも考えないと、慢性的な救急の人手不足は解決しない、だろ?」
加藤がいつも先を読んでいることを希空は思い出した。確かに、現状では外科医不足問題は解決はできない。希空は思わず唇を噛んだ。
「専門医と博士、両方持っておけよ。将来、必ずオマエの役に立つ」
でも、と、不満気に顔を上げた希空に加藤が言った。
「オマエのやりたいことは、もちろん理解している。だから、これは妥協案だ。現場半分、研究半分ならどうだ?ウチの設備は天野のジジイのとこより、グレードは高いぞ?こんな妥協案を考えられるのは、やっぱ、俺のグレードが高いから、だろ?」
元研修医はどんな反応をしていいのかさっぱりわからなかった。
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