(2)10月24日(木)14時30分
文字数 4,472文字
運動不足解消のためにヘソクリで買ったミニベロが、たった1週間でダメになっちまった。取材からの帰り道、母校の近くまで来たら学生時代を思い出して車に積んでいた自転車に乗って走ったところまではよかった。うん、ハンドルを切り損ねて緑地に突っ込んでしまうまではね。植え込みに着地した衝撃は思ったより強くはなかったんだけど、右腕からハデに出血しているのを見て不覚にも気を失った。
「オカダさーん、シャツ、あとちょっと切りますね」
名前を呼ばれて目を開くと、救急ハサミを持った若い男性医師が覗き込んでいた。しまった!シャツの値段はミニベロと同じだって、サキちゃんが言ってたっけ。
「ま、待ってぇー!」
ヘッドイモビライザーで頭部を固定されていたオレは左手を上げた。
「腕んとこ以外、切らないでもらえます?」
バルバのシャツを1カ月もしないうちにパアにしたら、サキちゃんに叱られる。医学生時代から運針は得意だったから、半袖にしたら着れるかもしれないし。あ、言っておくけど、手技はダメだった。大量の血液を見るとよく気を失ってたから。そのうち、慣れるって言われてたけど、残念ながら無理だった。
「ごめんなさい。今、動かせないので切らせてください」
そうだった。頭を固定されてるから起きられない。
「じゃあ、しかたないですね」
同意すると、涼やかな瞳の青年医師が「でも、」と続けた。
「大部分はもう切られていましたよ、ここに来られた時点で」
そう言えば、右上半身がスースーしている。救急隊員が応急処置で右袖を切ったのだろう。傷の痛さで気づかなかったか。って、サキちゃんに言ったら馬鹿にされるに違いない。
「エコー検査しますね。ちょっとヒヤッとしますよ」
超音波ゼリーを塗ったプローブ(探触子)を胸部に当てられた。体内で出血してないか調べるEFAST(エコー検査)だ。
不幸中の幸いだったのは、飛び出してきた子どもにぶつからなかったことだ。通りがかりの人が救急車を呼んでココに運ばれたんだろうが、母校の関連施設に連れて来られるとは思わなかった。
「骨折はないし、胸やお腹の出血も今のところは無いようですね。次は頭の画像を撮りましょう」カレは口角を爽やかに上げた。
「アタマ、ぶつけてないですよ」ヘルメットもつけてたし、とオレは抵抗した。それよりも腕の治療を早くしてほしい。
「自転車から落ちたと伺ってるので念のためです。腕の治療はそれからしますね」
青年医師は高身長の体を少し傾けて看護師と一緒にストレッチャーを動かした。
「ちょっと待って、早く会社に戻りたいんですけど」オレは咄嗟に応急処置された右手を上げた。案の定、ガーゼから滲みだした血を見てしまい、気が遠くなる前に目を瞑った。
「命のほうが大事ですからね」
さすが、母校の指導が行き届いている。確かにコイツの言うとおりだ。
※
受難は続く。
「いたたたたぁ!やめてぇー!」
左に顔を背けていたオレは、座っていたストレッチャーを左手で叩いて抗議した。生理食塩水で傷口を洗っていたカレは慌てて謝るけど、麻酔がゼンゼン効いてないし。
「なんでだろ?」って、キミはこっそり呟いたけど、めっちゃ、聞こえてるし。
スクラブの胸ポケットにつけられたIDカードは「永瀬」と書かれている。見た目年齢で判断すると専攻医か。
「目を閉じて、ゆっくり横になりましょうか」
足音と一緒に女性の声がしたが、顔は右には動かせない。なんでかって?剥き出しの傷に血が見えたら、意識喪失してしまう可能性が高いから。
看護師に促され仰向けになると、足の下に枕が入れられて瞼の上にタオルがおかれた。血管迷走神経反射がわかっている対応だ。その間に、さっきの女性の声がTTd(破傷風ワクチン)に加えてTIG(抗破傷風ヒト免疫グロブリン)の指示を出しているのが聞こえた。返事したのは、青年医師の声だったから担当を代わったんだろう。
「麻酔、追加したのでもう痛くないですよ。でも、気分が悪くなったら遠慮せずに教えてください」
女性医師が右腕の洗浄を始めた。そこからの治療は全く痛みを感じなかった。なんなら、このまま寝てしまいそうなくらいだ。
「傷、キレイになりましたよ」彼女の声がした。
「ありがとうございます」ホント、終わってよかった。
「もう血は見えないから目を開けても大丈夫ですよ、ブロリンセンパイ」
ん?今、何て呼んだ?目を覆っていたタオルを左手で取ると懐かしい顔が現れた。
担当を代わった医師は後輩だった。
※
よりによって、こんな姿で会うなんて。
病衣姿の岡田健斗は溜息をついた。シャツは跡形もなく切られ、ズボンは破けて泥だらけ、右腕には傷を早く治すと言われている、モイストヒーリングパッドの上から包帯が巻かれている。
「マジ、ついてない」
「これで済んだのはラッキーです。右腕以外は掠り傷だし」
希空は研修医時代の先輩を慰めると破傷風予防の準備を始めた。彼の世代はワクチン接種から10年以上経過しているため追加接種が必要だ。
「了解、『グロブロリン』の同意書、サインするわ」
岡田は学生の時から、語呂がいいという理由で「グロブリン」のことを「グロブロリン」と呼んでいた。ある日、カンファレンスでも言ってしまい、参加者全員が大爆笑したことがあった。それ以来、「ブロリンオカダ」のあだ名がつけられ、後輩達は「ブロリンセンパイ」と呼ぶようになった。
目の前にいる岡田は得意満面だ。その表情に希空は思わす吹き出してしまった。
「お知り合いでしたか?」
専攻医の永瀬が、同意書のファイルを差し出しながら二人の顔を交互に見た。岡田は親の勧めで半強制的に東都医科大学に進んで医師免許は取ったものの、中学生からの目標だったジャーナリストをあきらめきれず、後期研修期間中にジャパンサテライト放送に入局したユニークな経歴の持ち主だ。血を見るのは苦手だし、今のディレクターの仕事が合ってると言う岡田に、血が苦手でも医療系の進路はたくさんあるのに、と専攻医は残念がった。
「ところで、麻酔がうまく効かなかったのは、なぜなんでしょう?」永瀬が質問すると、希空は「聞いてみたら?」と先輩に視線を向けた。岡田は大きく頷いて「じゃあ、カトダロ直伝の技を教えるね」とにっこり笑った。
「カトダロ?」
「オレ達の指導医だった加藤教授」
「マジですか、羨ましい!で、技って何なんですか?」
「それはねぇ・・・」勿体ぶるように間をあけると、専攻医は身を乗り出した。希空は笑いを堪えるのに必死だ。
「真皮まで麻酔を入れること」
「なるほど。自分、まだまだですね」永瀬が溜息をついた。
「患者の要求を聞かずに頭の画像までやったのはさすがじゃん。いい指導、受けてるね」
岡田が褒めると専攻医の表情が明るくなった。
「血さえ見なきゃ、オレもココの加藤教授と同じくらいトップクラスの外科医になってかも」
冗談めかして言う先輩に、希空がワクチン投与しながら「外科治療は目隠ししてはできないです」と、否定したところで専攻医のスマホが振動した。応答するや否や、彼はぺこぺこ謝り始めた。どうやら、提出物の督促らしい。
「学会資料の締切が今日までだったの、うっかり忘れてました。メールしてきていいですか?」
永瀬は恥ずかしそうに許可を求めた。
「了解。行ってきて」と希空が言うと
「ありがとうございます!」専攻医は体育会系部員のように元気よく頭を下げて、スタートダッシュ体制に入った。
「走らないで」「走るなよ」
二人が慌てて注意したタイミングは一緒だった。
「はい!」振り返った専攻医は、親指を立てると早歩きで出て行った。
「ノアっちの勤務は何時まで?」専攻医を見送った岡田が希空に聞いた。
「さっき、終わったとこです」
「それじゃ、夜勤明けじゃん」
「今日は久しぶりに救急が少なくて仮眠が取れたから平気ですよ」と、後輩はエコーのプローブを手にした。
「さあ、センパイ、横になってください。2回目の検査で異常なければ帰っていいですから」
※
「お着替えの預かりものです」
エコー検査が終わったタイミングで、看護師がピュアマーケットのロゴが入った紙袋を差し出した。シャツとチノパンを渡された岡田は「ココのは安いし品質もいいよ」と満足そうだ。
「佐希センパイが来てくれてるんですか?」
研修医時代に岡田のガールフレンドだった佐希は、現在は妻として岡田家の総合病院を切り盛りしている。
「サキちゃんはインプラントの学術大会でカナダに行ってるから同僚に頼んだ」
「じゃあ、唯ちゃんは?」
「ばあばが見てくれてる。今、小4だよ」
「わあ、あっという間ですね」
赤ちゃんの時に抱っこさせてもらったのを覚えていた希空は感慨深げだ。
そうだね、と先輩はほんの少し顔を曇らせた。
「唯ちゃん、どうかしましたか?」
「むっちゃ元気だよ。でも、最近さあ、中学のことでサキちゃんと意見があわないんだよね。アイツは私立の中学行かせたいから塾通いさせたいっていうんだけど、子どもには背伸びせずに公立行って、やりたいことやってほしいしなあ」
「一番大事なのは唯ちゃんがどう思ってるかですもんね」
「さすが、ノアっち。よくわかってるね。一人娘だし、まあ、いろいろあるのよ、いいこともたくさんあるけどね」
さて、オレのことはこれくらいでと、今度は岡田が質問した。
「ノアっちはなんでココに?医局とカンケーない病院にいなかったっけ?ホラ、クルエラ病院?」
「ガブリエルです。センパイ」
呆れ顔の後輩に訂正され、先輩はそうだったっけ?と惚けて見せた。指導医だった加藤教授の影響なのか、寒いギャグでウケを狙うようだ。
博士号を自分に取らせようと前職場の院長が教え子の加藤教授に頼んだため、諮らずもココに来たと説明した彼女は不満そうだ。
「気持ちはわかるけど、環境を変えるのもいいんじゃないかな」
同情しつつも前院長の考えを肯定した先輩は後輩の顔を観察した。
「疲れを溜めないようにしないと。そろそろ顔にでてくるからさ」
「え?シワ、できてます?」
「うん、全くないとは言わないよ」
センパイの正直さは学生時代から変わってない。希空はわざと頬を膨らませると、少し慌てた先輩がフォローに入った。
「いや、貫禄がでてきたってことさ」
「センパイ、慰めに全然なってませんから」目じりを押さえた相手が笑いながら否定する。気まずくなった岡田は、「あ、そうだ!」と患者用かごに置かれたバックパックから、左手で器用に名刺を取り出した。
「厄日と思ってたけど、ノアっちと会えたのはラッキーだった。連絡先、渡しとくよ」
名刺を受け取るために希空が両手を差し出した。左手につけられた腕時計を見た岡田は、後輩に気づかれないように小さく息を吐いた。
彼は知っていた。
ベゼルに傷がついているスカイコクピットが誰のものだったかを。
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