(5)10月26日(土)14時
文字数 3,859文字
包丁が、まな板の上で人の手を借りず玉葱をスライスしていく。次にマッシュルームが半分に切られると、フライパンがのせられたIHクッキングヒーターにスイッチが入った。ワークトップには色とりどりの野菜、赤ワインや調味料がずらりと並んでいる。
キッチンで音楽に合わせて体を動かしているクラノスケはコック帽にコックコート姿だ。横でサクラがくるくる回っている。
自称天使が顔の高さまで上げた右手の平を外に向けて少し動かすと、冷蔵庫の扉が開き中から銀紙に包まれたポンドバターが音楽に動きを合わせながら出てきた。バターはそのまま空中移動し、熱くなったフライパンの上で止まると小さな塊を落とした。芳ばしい香りが広がると、トレイから薄切り牛肉が落ちて小気味よい焼き音を立てると、ゴールデンレトリバーが鼻を舐めて尻尾を振った。
「今日はハッシュドビーフですよ、お客さま」
真っ白なトーションが空中に現れて、シェフを気取ったクラノスケの左腕にさらりとかかった。
キッチンに玉葱とガーリックの香りが漂ってきた。
「お客様はタマネギが入っているから召し上がれませんよ。味も濃いですからね」
自称天使が人差し指を2回振ってノーサインを出すと、相手は不満の表情になった。くすっと笑ったクラノスケが「あとでオヤツにお肉を焼いてあげるから」と言うと、サクラは目を大きくして喜んだ。
「ところで、ノアさんはハッシュドビーフって食べたことある?」
ゴールデンレトリバーは首を傾げた。
ノアさんはワイン好きだ。
ワインは食事と一緒に楽しむべきなのに、食べることには無頓着だ。冷凍食品やカップラーメンは忙しい時に便利だけど、続けていると栄養が偏ってしまう。そんな食生活に加えてハードワークだから、初めて会ったときの印象は「怒りっぽい痩せっぽちさん」だ。機嫌を損ねるからあんまり言わないようにしてるが、医者のくせして自分の健康については全く考えてない。今日だって、ホントは休みなのにレポートが間に合わないと言って、朝早くからセンターに行っちゃったし。
休みの日くらいショッピングや遊びに行ったりすればいいのに、ノアさんはウチで資料を作るか、サクラをトリミングに連れて行くか、ワインを仕入れに行くか、ダラダラするかの四パターンだ。ま、お団子さん以外にトモダチもいなさそうだし、カレシもいる気配がないから、仕事が生きがいなんだろうが、そろそろ健康に気を使ってほしいお年頃だ。
ということで、自分が食事でノアさんの健康管理をすることにした。食材をネットで注文することを任してもらえるようになってからはレパートリーも増えた。自慢するのもなんだけど、味は結構イケてるはずだ。だって、最近の彼女は顔色もよくなってきたし、体重も少し増えてきてから。なぜ、わかるかって?それは、寝落ちしたノアさんを運ぶ時に・・・おっといけない、プライバシーに関わることだからやめておこう。とは言っても、これだけ貢献してるんだから、もう少しお給料をあげくれないかな。誰かさんから「見返りを求めるのは天使じゃないから」と言われるのがオチだけど、自分は翼がない中途半端な天使だ。おまけに同業者に会ったことがないから、本当に彼等が見返りを求めないなんてわからない。
残念なのは、作った食事をノアさんと一緒に食べることができないことだ。物体は自分の意志の力で触れることなく動かすことができる。料理も道具を動かせるから作ることができるが、自分が存在する空間には食べ物は現れない。出てくるのは衣服と寝具ぐらいだ。あ、さっきはテーブルクロスみたいなものが腕にかかったから、布関連のモノと言ったほうがいいかもしれない。ただし、色は白だけ。何度か試してみたけど、他のカラーは出せなかった。
あれ?サクラが耳を動かしたぞ。宅配便かな?
クラノスケは耳を澄ましたが、何も聞こえなかった。
しかし、ゴールデンレトリバーは短く吠えると勢いよく走り出してリビング奥側にある、庭に続くテラス引戸の前で止まって「開けろ」と振り返った。
小型トラックの走行音が近づき、そして微かなブレーキ音に変った。
「行かなくても大丈夫ですよ。配達員さんが宅配ボックスに入れてくれるから」と自称天使は首を横に振った。門扉の鍵は宅配便が来ることを想定した希空が外したままにしてくれている。しかし、相手は諦めなかった。「それなら自分でやります」とばかりに立ち上がり、前足を使ってサッシのロックを外した。次に鼻で器用にドアを押し開けると、あっと言う間に外へ飛び出して走り去った。クラノスケは慌てて追いかけたが、すでに犬は小箱を抱えてやってくる配達員のお兄さんに飛びついていた。
「お出迎えしてくれたんだ。ちょっと待ってて」
配達員が宅配ボックスの前に腰を下ろして配達物をしまうのを、横でサクラはおとなしく座って見ている。
「スマホですね!」
待ってましたとクラノスケは満面の笑顔でサクラに同意を求めたが、相手は全神経をお兄さんに集中しており自称天使は完全にアウェイ状態だった。
「ワンちゃん、お行儀よくて賢いね」
お兄さんは仕事の邪魔をせずに待っていたゴールデンレトリバーを撫でてやる。サクラは心奪われた表情でイケメン配達員を見つめた。見事なほどの面食いである。
「オレのことは無視なのに、配達員さんの言うことは聞くんですね」とは、自称天使のやっかみだ。
寝転んだ犬をしばらく撫でていた配達員は、腕のスマートウオッチを見ると「さあ、行かなきゃ」と立ち上がった。
「お留守番よろしくね」
サクラは起き上がって、ワンと吠えた。
「お返事もできるんだ」
お兄さんは最後にゴールデンレトリバーの首を優しくさすってやると、「じゃあ、またね!」と言って颯爽と走り去った。
「じゃ、戻りましょう」
門扉の縦格子のすきまから鼻を出して動き出す車両を名残惜しそうに見送っているサクラは、クラノスケが促しても戻る気配がない。だが、「お肉、焼きますよ」と言われるや否やゴールデンレトリバーはダッシュで引き返し、テラス戸の前で「早く来い」と振り返った。抜け目なく賢い犬である。
呆れ顔の自称天使が通行人から見えないよう、小箱を地面すれすれに浮かせて戻ると、犬は自分で開けたテラスドアからリビングに入ろうとしていた。
「サクラッ、足拭かないと!」
フローリングに傷が付くと叱られるのは犬ではない。クラノスケは小箱をダイニングテーブルに瞬間移動並みの早さで着地させると、右手の平を差し出した。同時に玄関の収納棚から犬用足拭きシートがボックスからスクランブル発進し、サクラの足元で急ブレーキをかけて止まった。
「このテクニック、スゴくない?」自称天使はドヤ顔で言ったが、「アナタの足はどうなの?」とゴールデンレトリバーは鼻先を自称天使の靴に向けた。サクラを追いかけた側は、コックコートにホワイトシューズ姿だ。
「オレは地に足つけてないでしょ?」
クラノスケは心外だと言わんばかりだが、サクラは足を拭かれながら首を傾げた。
汚れていないのはわかったけれど、「地に足つけてない」の表現は間違ってないですか?
「さ、スマホの設定しようっと」
しれっとごまかした自称天使は、テーブルの上に置かれた小箱の前に立った。続いてキッチンの引出しが開くと、カッターナイフが浮かびながら進んで来て小箱の上で一旦停止した。ナイフは目に見えない力で刃を押し出して箱の上を移動すると、スマホが包装の中からふわりと浮かんで出てきた。ナイフは用が済むと自動的に元にあった場所に戻って行った。
サクラが「忘れてませんか?」と前足でチョイチョイした。オヤツの催促だ。
「ちょっと待ってて。これやってから」
スマホを充電しながら初期設定をしているクラノスケは、ソファに座ってアプリのダウンロード中だ。犬は不満げに鼻をフンと鳴らした。「ウソつき」と言っているようだ。
「配達のお兄さんの時は、待ってたくせに」
ぶつぶつ言いながらキッチンに入った自称天使が右手をあげると、フライパンがIHクッキングヒーターの上に降り、冷蔵庫のドアが開いて牛肉の小さな塊がでてきた。
※
「お客さま、お待たせいたしました」
クラノスケはソファの下にいるゴールデンレトリバーの前に「ビーフジャーキーもどき」が入ったボウルを着地させた。
「調味料を使っていないスペシャル無添加ビーフですよ」
サクラは大喜びでボウルに顔を突っ込んだ。
なんだか犬と飼い主の召使になった気がする。と、クラノスケは軽い溜息をついた。気を取り直してダイニングテーブルの椅子に座ってスマホを再び手にすると、希空にSNSアプリの招待メールを送った。ユーザー名は「山田クラノスケ」のイニシャルだ。
「返事まだかな?」
テーブルに両肘をついて顎を乗せていた自称天使が言った。
さきほど送ったメールに返事が来ないのを気にしているようだが、サクラのリアクションはない。
「はいはい。オヤツに夢中なんですね。じゃあ、オレ、飼い主さんの様子を見てきます。お留守番、頼みましたよ」
同時にクラノスケの姿が消えた。
ゴールデンレトリバーは空になったボウルを舐めるのを止めて、ふうーっと息を吐いた。
アタシの飼い主はアナタのメールをすぐ確認するほどヒマじゃないの。
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