(3)10月1日(火)20時
文字数 2,626文字
家には灯りがついていた。クラノスケがつけたのだろう。一階のリビングの窓から漏れる中間色の灯りは懐かしいような、ほっとするような不思議な感覚だ。
※
ドアをあけると、サクラがいつものように出迎えたが、クラノスケの姿は見えなかった。どこに行ってるのだろう?まあ、いいか。すぐにスーツを脱いでラクなトレーナーとスエットパンツに着がえたい。リビングに入った希空は、スーツの上着を脱ぐとソファに投げた。同時に何かが床に落ちて、軽い金属音が聞こえた。
ネームタグだ。
そうだった、センターで拾ったのにも係わらず、紛失物として預かってもらえなかったヤツだ。どうしたらいいだろう?こっそり捨ててしまおうか。希空が小さなプレートを手にして、キッチン横のゴミ箱に入れようとしたとき、後ろからサクラが軽く吠えた。さすが、ウチの賢い子。ゴミは分別しろと言っているようだ。でも、分別用ゴミ箱がなかったので希空は食器棚の引き出しを開けた。当然、そこには何も入っていなかった。とりあえず、小金属ゴミ収集日まで、ここに入れておこう。と、希空はネームタグを入れて引き出しをしめた。
「これでいい?」
サクラに聞くと、彼女は尻尾をブンブン振った。
※
リビングでサクラの相手をしていると午後8時30分を過ぎているのに気づいた。昼食はカレーだったが3分の1は残してしまったので空腹を感じていた。が、夕食を作ろうという気にはなれなかった。買い物にも行ってないから、冷蔵庫にあった食材はほとんどない。ふと、思いついた希空はキッチンの戸棚を開けた。グラノラバーが入っている箱の後ろに、カップラーメンが1つ残っていたのを思い出したからだ。引っ越し先から持ってきたものだ。幸い、アイツの姿は見えない。待て、今、そう思ったのは自分は後ろめたいと感じているのだろうか。一人暮らしのオンナは所詮こんなもんと思われるのが、ユーレイ、もとい、自称天使でも嫌なのか。いやいや、早く夕飯にしよう。以前は毎日のようにカップラーメンを食べていたのに、この数日クラノスケから止められていて、禁断症状が出始めていたところだ。
希空はワクワクしながら、電気ポットに水を入れてスイッチをいれると。カップラーメンのパッケージの透明なシートを取り除いて蓋をあけた。スープ袋を破ると顔が緩んだ。ラーメンでこんな気分になるなんて落ち着け、自分。おっと、お湯がわいた。ポットを持ち上げて勢いよく湯を入れる。サクラが希空の後ろを楽しそうにくるくると回っている。
「オレがいないと、やっぱりインスタントなんですね」
ん?、と希空の手が止まった。
クラノスケがキッチンテーブルに腰掛けていた。
あきれた笑いを浮かべている。やられた、卑怯にもヤツは自分のことをしばらく観察していたらしい。
「医者って、あんまり食生活に気を使わないんですね」
追い討ちをかけたクラノスケに希空はブスっとして、シンクの引き出しから割り箸をとりだすと、蓋をしたカップラーメンの上に置いた。アンタにゃ、カンケーない。
「さあ、買い物に行きましょうか。材料ないとオレも作れないし。今日はカレーにしようと思ってたのに」クラノスケが立ち上がって言った。
「カレー、昼、食べた。夕食、これでいいから」と、希空はテーブルに置いたカップラーメンを指した。
「せっかくスーパーに行って、目ぼしいモノを見つけてたのに」
ああ、だからいなかったのかと、希空は思ったが、買い物に行く気はさらさらなかった。
「明日にしようよ」と、希空はカップラーメンから箸とともに大事そうにとりあげた。
「で、なんで
買い物
って言葉、知ってるの?」「それくらい知ってますよ」と、クラノスケが右手をゆっくり上げた。
と、できあがったカップラーメンが引力の法則に逆らって希空の手からふわりと浮かび、流し台に向って進んでいった。希空が事態を把握しようと頭をめぐらしているうちに、ラーメンのカップはさかさまとなり、今度は引力の法則にしたがって中身はシンクに無残にこぼれ落ちた。
「一個しかないヤツだったのよ!」
希空は、叫び声に似た悲鳴をあげて箸を握りしめたままクラノスケを睨んだ。
「じゃあ、やっぱりスーパーに行かないと仕方ないですね」
クラノスケは悪びれもせずに肩をすくめた。
※
5分後、希空は不機嫌そうにガレージの門扉をあけた。買い物に行くということは車を運転しなければならないし、車庫から出さないといけない。この動作は無駄だ。
「せっかく、さっき入れたばかりなのに」
と、希空がオッチャンアコードをガレージ前に出して言った。
「そんな顔してると、皺が増えますよ」
運転席ドア側に立っていたクラノスケが、門扉を閉めている希空に声をかける。
「ほっといてよ」
振り返った相手は子供がするように顔をしかめてみせた。
「あらら、意外とかわいいとこあるんだ」
「アンタに言われたくない!」希空は頬をさらに膨らませた。
「あ、オレの言ったことに反応しないで」
慌てたクラノスケの声音に希空が怪訝な顔をした。自転車で通りがかった会社帰りらしい中年男性が、立ち止まって不思議そうに自分を見ている。
家の前にある電柱に設置された安全灯がスポットライトのように、希空の顔を照らしていたのだ。希空と目が合った男性は、まるで怖いものを見たかのように自転車の速度をあげて走り去ってしまった。
「ヘンに思われるのはノアさんですから」自称天使が理由をあとから付け加えた。
それなら、もっと早く言ってよ。と、希空は急いでドアを開けて運転席に座るとイグニッションキーを回した。
「じゃあ、コープお願いします」
ドアをすり抜けて助手席に座った自称天使が行先を指定した。
「どこにあるのよ!」
「案内します。『天使のカーナビ』を開始します」
コイツ、何言ってんだと助手席を見た希空にクラノスケがにっこり笑った。
「では、直進してください。目的地まで10分です」
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