(4)10月8日(火)米国イリノイ州シカゴ 中部標準時間 20時
文字数 1,963文字
タルティーニのバイオリンソナタト短調の演奏が始まった。流麗な旋律にも関わらず、この曲は「悪魔のトリル」という別名がある。一説によると、タルティーニの夢にバイオリンを奏でる悪魔がでてきて、その曲があまりに美しかったので、夢から覚めたあとすぐに彼はそのメロディを書きとったという。魅了するこの旋律の美しさは悪魔によって創造されたとするならば、我々が地位や名声の裏で、大きな力に操られているのと一緒なのかもしれない、とブレナンは軽い溜息をついた。
「考えごとかな?」
対面に座っているフレデリック エバンズがワイングラスを揺らしながら言った。グラスの脚にはガラスの美しい彫刻が施されている。
「今日はカンザスロイヤルズは勝つかなと」
今年の成績は振るわないが、カンザス出身なら応援したくなる球団だ。
「申し訳ないが、レッドソックスだよ」
マサチューセッツ出身のイリノイ州上院議員が余裕の笑顔を見せた。
さて、とエバンズが真顔になった。
「プロジェクトは順調かな?」
その質問を予測していたブレナンは顔を曇らせて言った。
「あの国の検察が司法省にコンタクトしたようです」
もちろん知っているよ、とエバンズは頷いた。
「司法省には海外の捜査権はないし、トモダチ達は証拠を持っていない」
「もし、外交委員会が動きだしたら」
「国際開発小委員会がサポートしている」
エバンズはシャトーブリアンのステーキに、左からナイフを入れながら言った。
「もう少し様子を見てはどうでしょう。研究報告もまだ満足できるものになってはいませんし」
ブレナンはあからさまな表現を避けながら、ワインを口にした。さっきまでの心地よい渋みが、より強く感じられる。
「時間を浪費するのはいただけない。時は金なり、って言うだろう?それに、」
エバンズは、極上ステーキを左手に持ったフォークで刺した。
「心配するな。私のスタッフは君の想像を超えるくらいいる。この件は迅速に進めてほしい」
成功はすぐそこにある、とエバンズはフォークに刺したステーキの一片を優雅に口に運んだ。
「No pain, no gain 大きなことを成し遂げるには、時に痛みを伴うものだよ」
国際開発小委員会、別名エバンズ委員会の長は微笑んだ。
※
「お休みになって下さい。安全にご自宅までお連れします」
運転代行サービスのドライバーがブレナンに声をかけた。白人の彼は30代前半くらいに見えるが、メルセデスを静かでかつ無駄なく走行させている。さすがはプロフェッショナルだ。客を送ったあとにドライバーを乗せて帰る、後続車もぴったりとついてきている。
「ありがとう。そうするよ」
ブレナンは、後部座席から外を眺めた。
州間高速90号線は22時を回っていることもあり、車の数は少ない。
我々の年代なら、この時間帯は自宅でくつろいでいる人が大半だろう。まあ、自分は帰っても誰もいないが。アデルはスコットランドで親友のケイトと楽しい時間を過ごしているようだし、私たちの娘2人も独立している。一人はアデルの血を引き、ニューヨークで服飾デザイナーとして働いており、もう一人はボストンロースクールの学生だ。娘達は、それぞれ楽しい生活をおくっているらしく、私たちを訪ねてくるのは夏休暇とクリスマス休暇くらいだ。
「エバストンまで30分くらいで行けそうですよ」
ブレナンが起きているのを確認してから、運転手が教えた。
「それはよかった。助かるよ」
日付が変わるまでには到着できそうだ。明日も朝早くから会議だ。本音を言うと、会議ばかりの生活は疲れる。半分、いや3分の2の会議は不要だ。だが、役員達はそれが理解できない。
この件が終わったタイミングでリタイアするのもよいかもしれない。末娘も来年には卒業して働くだろう。カンザスに帰ってスモールビジネスをするのもよし、アデルのキルト制作をサポートするのもよい。
アデルが戻ってくる日曜日にでも話してみようか。
ふと、背中が冷たい空気を感じた。
簡単に離れられるだろうか、エバンズの犠牲になる前に。
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