(4)10月8日(火)米国イリノイ州シカゴ 中部標準時間 20時

文字数 1,963文字

 チェスナット通りにあるこのレストランは、管弦楽演奏を聴きながらフレンチとイタリアンの創作料理と出す人気の店だ。著名人もよく利用しており、プライベートルームからはシカゴの夜景とその光が水面に映ったミシガン湖を眺望できる。この部屋はセレブにとってステータスに違いない、とジェームス ブレナンはプルミエ・クリュ カズティエを口にした。紫がかった色の液体は、豊満な果実の香りと心地よい渋みが融合し、優雅でかつダイナミックな味わいだ。ただ、ジャケット着用で飲むワインもいいが飲む相手による。この時間なら、家でビールを飲みながらポストリーグを観るのが一番だ。

 タルティーニのバイオリンソナタト短調の演奏が始まった。流麗な旋律にも関わらず、この曲は「悪魔のトリル」という別名がある。一説によると、タルティーニの夢にバイオリンを奏でる悪魔がでてきて、その曲があまりに美しかったので、夢から覚めたあとすぐに彼はそのメロディを書きとったという。魅了するこの旋律の美しさは悪魔によって創造されたとするならば、我々が地位や名声の裏で、大きな力に操られているのと一緒なのかもしれない、とブレナンは軽い溜息をついた。

「考えごとかな?」
 対面に座っているフレデリック エバンズがワイングラスを揺らしながら言った。グラスの脚にはガラスの美しい彫刻が施されている。
「今日はカンザスロイヤルズは勝つかなと」
 今年の成績は振るわないが、カンザス出身なら応援したくなる球団だ。
「申し訳ないが、レッドソックスだよ」
 マサチューセッツ出身のイリノイ州上院議員が余裕の笑顔を見せた。

 さて、とエバンズが真顔になった。
「プロジェクトは順調かな?」
 その質問を予測していたブレナンは顔を曇らせて言った。
「あの国の検察が司法省にコンタクトしたようです」
 もちろん知っているよ、とエバンズは頷いた。
「司法省には海外の捜査権はないし、トモダチ達は証拠を持っていない」
「もし、外交委員会が動きだしたら」
「国際開発小委員会がサポートしている」
 エバンズはシャトーブリアンのステーキに、左からナイフを入れながら言った。
「もう少し様子を見てはどうでしょう。研究報告もまだ満足できるものになってはいませんし」
 ブレナンはあからさまな表現を避けながら、ワインを口にした。さっきまでの心地よい渋みが、より強く感じられる。
「時間を浪費するのはいただけない。時は金なり、って言うだろう?それに、」
 エバンズは、極上ステーキを左手に持ったフォークで刺した。
「心配するな。私のスタッフは君の想像を超えるくらいいる。この件は迅速に進めてほしい」
 成功はすぐそこにある、とエバンズはフォークに刺したステーキの一片を優雅に口に運んだ。
「No pain, no gain 大きなことを成し遂げるには、時に痛みを伴うものだよ」
 国際開発小委員会、別名エバンズ委員会の長は微笑んだ。               
            ※
「お休みになって下さい。安全にご自宅までお連れします」

 運転代行サービスのドライバーがブレナンに声をかけた。白人の彼は30代前半くらいに見えるが、メルセデスを静かでかつ無駄なく走行させている。さすがはプロフェッショナルだ。客を送ったあとにドライバーを乗せて帰る、後続車もぴったりとついてきている。

「ありがとう。そうするよ」
 ブレナンは、後部座席から外を眺めた。
州間高速90号線は22時を回っていることもあり、車の数は少ない。
 我々の年代なら、この時間帯は自宅でくつろいでいる人が大半だろう。まあ、自分は帰っても誰もいないが。アデルはスコットランドで親友のケイトと楽しい時間を過ごしているようだし、私たちの娘2人も独立している。一人はアデルの血を引き、ニューヨークで服飾デザイナーとして働いており、もう一人はボストンロースクールの学生だ。娘達は、それぞれ楽しい生活をおくっているらしく、私たちを訪ねてくるのは夏休暇とクリスマス休暇くらいだ。

「エバストンまで30分くらいで行けそうですよ」

 ブレナンが起きているのを確認してから、運転手が教えた。
「それはよかった。助かるよ」
 日付が変わるまでには到着できそうだ。明日も朝早くから会議だ。本音を言うと、会議ばかりの生活は疲れる。半分、いや3分の2の会議は不要だ。だが、役員達はそれが理解できない。

 この件が終わったタイミングでリタイアするのもよいかもしれない。末娘も来年には卒業して働くだろう。カンザスに帰ってスモールビジネスをするのもよし、アデルのキルト制作をサポートするのもよい。
アデルが戻ってくる日曜日にでも話してみようか。

 ふと、背中が冷たい空気を感じた。
簡単に離れられるだろうか、エバンズの犠牲になる前に。


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登場人物紹介

槇原希空     聖ガブリエル病院から東都総合メディカルセンターへ出向を命じられた救急救命医。

         出向先が借り上げた一軒家に引っ越した日に自称天使が現れる。

  


山田クラノスケ  希空が引っ越してきた家に現れた(翼がないのに)自分は天使だと言い張る

         「自称天使」。限られた人間にしかその姿を見せない。


加藤誠                 東都総合メディカルセンター長 サージカルシステムロボットを使った

                         低侵襲心臓手術の第一人者。 希空の元指導医 東都医科大学 教授

椎名有紗                東都総合メディカルセンターに交換研究プログラムで派遣された臨床医。

          お団子ヘアと眼鏡がトレードマーク。

清水初音     全国展開の最大手スーパー、ピュアマーケット社の会長  

永瀬准      東都医科大卒の救急科専攻医 長身ですらっとしているので希空から「スラレジ」と

         呼ばれている

稲垣邦紘      東京地方検察庁特別捜査部の検察官   

前川悠人      東都総合メディカルセンター脳神経内科専門医

          最近結婚した薬剤師の奥さんとおいしいスイーツの店を訪ねるのが趣味。

James Brennan     インターフューチャー社 メディカルテクノロジー事業 副社長

ジェームス ブレナン

神崎 恭輔      防衛総省 高級官僚

岡田健斗     ジャパンサテライト放送(JSBC)の報道番組ディレクター 東都医科大出身 

         希空の先輩

藤沢徹      防衛総省外局 防衛研究庁 技術開発室長 

志賀直樹     経済省 産業技術開発局 国際標準課職員 

         防衛総省外局 防衛研究庁 技術開発室に出向中  

橘 涼祐      東都総合メディカルセンター 神経外科医

加藤紗英     加藤の妻。料理研究家・フードコーディネーター。希空の先輩

サクラ      希空が飼っているゴールデンレトリバーの女の子。賢くて面食いな犬。

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